第4章 第2節 第5項 安全・快適な列車運行のための取り組み

4-2-5-1 着々と進む立体交差化工事

東横線の中目黒〜都立大学間立体交差化工事は、前章でも記したように、1970(昭和45)年11月に竣工を迎え、16か所の踏切が解消された。1950年代から実施した立体交差工事、合計28か所(踏切解消を伴わない5か所を含む)のなかでも最大規模(工事延長2532m)の工事で、総工費33億9000万円の内、当社負担は5億6000万円に及んだ。同工事にあたっては、学芸大学駅付近で関東民鉄では初のロングレールを採用し、高速運転時の乗り心地の改善を図ったことも特徴である。

「東急ショッピングコリドール」と東光ストア祐天寺店

またこの工事で生まれた高架下部分の有効活用として、祐天寺駅と学芸大学駅の付近に商業施設「東急ショッピングコリドール」を整備し、東光ストアをはじめ各種小売店や飲食店などが開業した。

高架化工事前の田園都市線高津駅付近
高津駅付近での立体交差化工事

1972年1月には、川崎市が事業主体となって田園都市線高津駅付近の立体交差化工事に着手し、1976年8月に完成。二子新地前(1977年より二子新地)〜溝の口間が高架となり5か所の踏切が解消された。この内県道と交差する踏切は、道路交通量の増加と列車運行本数の増加で渋滞が激しくなっていたが、立体交差化と県道の拡幅により渋滞は緩和された。高津駅高架下には1982年に「電車とバスの博物館」がオープンすることとなる。

戦後に建設した田園都市線溝の口駅以西の延伸部分については、長津田駅付近の1か所(田奈1号踏切)を除いて、道路との立体化を行ってきたが、戦前に建設した東横線・目蒲線・田園都市線(大井町線)・池上線・世田谷線は踏切が多かった。踏切事故を防ぎ、道路交通を円滑にするには立体交差化が理想であり、当社では積極的にこれを実施してきた。しかし、住宅が密集した都市部での立体交差化には莫大な投資と長い年月が必要で、技術的な困難も伴っていた。このため暫定的な対策として踏切道の保安度向上を図り、立体交差化工事の機会をうかがって、後年に実現した箇所も多い。

4-2-5-2 踏切事故の根絶をめざして

道路との立体交差化工事は、道路交通の渋滞緩和、円滑化と、踏切事故解消につながる工事である。経過を振り返ると、踏切事故は1960(昭和35)年度に国鉄と民鉄を合わせて5569件発生したが、これをピークに徐々に減少した。

踏切道は保安設備の有無やその防護能力によって第1種から第4種まで分類されているが、1961年度の時点で、自動遮断機や踏切警報機などの保安設備がなく交通警手(いわゆる踏切番)もいない第4種の踏切道がほとんどを占めていた。また物理的な遮断機能を持たない、警報機設置のみの第3種踏切道も多かった。

表4-2-2 1961年度末の全国の鉄道踏切数
出典:国土交通省資料
  • 第1種踏切道:昼夜を通じて踏切警手が遮断機を操作している踏切道または自動遮断機が設置されている踏切道
    第2種踏切道:1日の内一定時間だけ踏切警手が遮断機を操作している踏切道
    第3種踏切道:警報機が設置されている踏切道
    第4種踏切道:踏切警手もおらず、遮断機・警報機も設置されていない踏切道

1961年11月に「踏切道改良促進法」が施行され、法制度にも後押しされて、大手民鉄の踏切改良の状況は、1965年度と2019(令和元)年度とで比較すると、踏切道数は1万1143か所から5473か所に、踏切事故件数は10分の1以下に減少した。

表4-2-3 踏切道改良実績と踏切事故の推移(大手民鉄、1965年度〜2019年度)
出典:日本民営鉄道協会『大手民鉄の素顔』 2020 踏切改良実績
※:1995年度から相鉄を加えた15社、2005年度からは東京メトロを加えた16社
戸越銀座~旗の台間の連続立体交差化工事

踏切の解消が進む一方で、首都圏では輸送力増強に伴う列車運行本数の増加により踏切遮断時間が増え、いわゆる「開かずの踏切」が渋滞を引き起こし、社会問題となった。

こうした背景もあり、1969年9月、運輸省と建設省の間で「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」および「同細目協定」が締結された。これは連続立体交差化事業を地方公共団体(都市計画事業者側)が主体となって行うことを明確に位置づけたもので、設計協議や費用負担方法、事業後の財産の帰属などに関して一定のルールが定められた点に大きな特徴がある。

当社線では、この協定に基づき、東京都を事業主体とする池上線戸越銀座〜旗の台駅間1550mの連続立体交差化事業に1979年12月着工した。

4-2-5-3 TTC(列車運行総合制御装置)の導入

当社は、1970年代に入ってから列車運行管理の近代化に着手した。運行管理とは、列車の運行に必要な転てつ機(ポイント)・信号などの操作を行うことである。

これまで当社では、運輸司令所からの指令を受けて、主要駅の信号扱所で駅助役や信号掛が時計を見ながらダイヤ通りに転てつ機や信号機を動かす操作をしてきた。しかし列車速度の向上や運転間隔の短縮、列車の長大編成化が進むなかで、人的能力に依存した運行管理では限界があるため、コンピュータの活用で運行管理業務を自動化・効率化するのが狙いであった。

運行管理近代化の手始めとして、まず蒲田駅でPTC(プログラム式列車運行制御装置)のテスト運用を行い、1976(昭和51)年10月に本格運用を開始した。PTCはコンピュータにダイヤを記憶させ、時刻通りに転てつ機(ポイント)や信号機を操作する装置で、事故などの異常時には手動に切り換えることもできる。1977年には目黒駅にも設置。ダイヤ乱れが少ない目蒲線においては期待通りの成果を見せた。

東横線で本格稼働したTTC(列車運行総合制御装置)

一方、列車種別が多く、距離も長い路線においては、列車の運行状況をリアルタイムで把握し、列車運転時刻の変更、急行待避駅の変更、列車の行先変更などの運転整理に連動して、転てつ機や信号機の操作指示ができる、高度な運行管理システムが必要となる。このため当社では1979年春、東横線にTTC(列車運行総合制御装置)を導入してテスト運用を行い、同年10月に本稼働を開始した。これに先立って、1973年4月までに、運輸司令所を移設し、ここに運行監視盤や制御卓などを設置して、列車運行の集中管理の拠点とした。

第一期工事が完成した奥沢社員アパートと奥沢総合ビル

この時期、そのほかの鉄道施設や設備の更新も行われており、その代表が1973年4月に竣工した奥沢総合ビルである。奥沢駅に隣接する社有地に鉄道施設と社員の福利厚生施設を集中的に設置することを計画。敷地の東側に12階建ての社員アパート(100戸)、西側の8階建てビルに、鉄道各部門の事務所や社員向け交流施設の「社員クラブ」、清和クラブ(社員のクラブ活動)用の体育館、剣道場、茶室などの福利厚生施設を設けた。

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