第4章 第10節 第2項 社会との接点強化を求め活発化する財団活動

4-10-2-1 とうきゅう環境浄化財団を設立

CSR(企業の社会的責任)の概念が国内に浸透するのは2000年代後半のことであるが、当社は早くから社会的公器としての自覚を持ち、とくに地域社会における責任や役割について高い関心を寄せていた。東急広報委員会が発行するグループ誌『とうきゅう』1973(昭和48)年6月号で「『企業の社会的責任』にこたえて」、1974年7月号で「企業の社会的責任と地域」と題する特集を掲載し、当社社員はもとより東急グループ各社社員に対して、社会のなかで果たすべき責任や役割について認識を深めるよう、情報発信を行った。

とくに高度経済成長の頂を国内外に示す絶好の機会となった大阪万博が開催された1970年は、経済成長の歪みともいえる公害問題が同時に深刻化していることがマスメディアで連日のように報道された年でもあった。加えて1973年10月に発生した第一次オイルショックによる、生活に支障を来すようなモノ不足、その後の物価高騰で国民の怒りは強く、その矛先は国のみならず企業にも向けられて、大企業性悪説までもが唱えられるようになった。

こうした時代のうねりのなかで当社は、地域で開発を進める企業としての自覚から、創立以来身近な存在であり続けた多摩川が著しい水質汚染に見舞われている現状に危機感を持った。そこで多摩川およびその流域における水質改善に資する調査や試験・研究を支援することなどを目的とした財団法人として、「とうきゅう環境浄化財団」を1974年8月に設立し、同年9月に通商産業省から試験研究法人の資格を得た。設立にあたっては、当社や東急グループの主要会社のみならず、多摩川流域とかかわりがある関東民鉄4社(京浜急行電鉄、京王帝都電鉄、小田急電鉄、西武鉄道)、主要メーカーにも呼びかけて、理事や評議員への就任を要請したほか、助成金の給付先を選考する選考委員には環境科学に造詣の深い専門家などに就任を依頼した。

東急百貨店東横店で開催された「第3回多摩川環境展」主催:とうきゅう環境浄化財団

とうきゅう環境浄化財団は、1975年4月、第1回の理事会および評議員会で、総事業費6100万円を原資とする1975年度の事業計画を決定して、活動を開始した。「調査・試験研究助成事業」では、多摩川流域の産業活動や住生活と多摩川の関係性、汚染源の特定や排水・廃棄物の防除法、多摩川流域における水利用の実態などにかかわる調査・研究を行うグループや個人に、助成金を給付することとした。このほか多摩川の水質や生物に関する財団の自主的な調査・研究を行う事業、多摩川の浄化に関する一般市民の啓発を目的とする事業などにも予算を割り当てた。

この財団の活動について、財団設立に尽力し、初代選考委員を務めた涌井史郎氏(造園家。現、東京都市大学環境学部特別教授)は、「財団だより多摩川」(第165号/2021<令和3>年3月発行)のなかで、次のように語っている。

高度経済成長期を経た1970年代、多摩川は「死んだ川」といわれるほど水質汚染が深刻になっていました。東急東横線に乗って多摩川を渡るとき見下ろすと、川は洗剤の白い泡に覆われ、川面から電車の窓辺までふわふわとシャボン玉が飛んでくるような有様でした。この川を何とかきれいにしなければいけないということで、東京急行電鉄株式会社の五島昇社長(当時)の発案で1974年に設立されたのが「とうきゅう環境浄化財団」です。(中略)多摩川が、約50年前の泡に覆われた状態から、今のような美しい姿を取り戻すことができたのも、多くの市民活動があったからこそだと思っています。(中略)地域の学校に、財団が制作した環境副読本『多摩川へ行こう』を継続的に配布したこともあり、先生が子どもたちと多摩川の生き物を調べる研究をされるなど、さまざまな活動や研究が広がっていきました。

環境助成の分野では、高度な研究分野を対象にしたものが多いなかで、当財団では身近な「多摩川」に照準を絞ったこと、助成対象も権威主義に陥らず、名前が通っているか否かに関係なく「地域の、目立たないけどいい研究」に、丹念に寄り添うことなどが特徴として認められてきた。そののち、2010(平成22)年10月に公益財団法人への移行と共に、名称を「とうきゅう環境財団」(現、東急財団)に改め、2021年までの助成対象は延べ1322件、助成給付金は約15億2700万円、環境副読本の配布は約32万部にのぼっている。

  • 東横線丸子橋付近の水質の変化(1973年)
  • 東横線丸子橋付近の水質の変化(1993年)

■とうきゅう環境浄化財団 設立趣意書(1974年)

東京急行電鉄株式会社は、大正11年9月当時東京西南部の多摩川沿岸、洗足等において、文化住宅地の経営をしていた会社から分離発足し、鉄道業の経営を始めました。

そののち、日本経済の発展とともに人口の都市集中が行なわれ当社は、東京西南部、川崎市、横浜市における住宅および輸送の確保両面においてその役割をはたしながら付帯事業を含めて事業を拡大し今日の東急グループに至りました。

周知のごとく急激な経済発展の中には、そのひずみと見られる生活環境施設の不足や産業活動によって、環境破壊をもたらし、これを如実に表現するがごとく汚染が進んでいるのが、我国の諸河川であり、多摩川もその例外ではありません。

これを解決することは、公共団体の政策によると同時に社会的責任のある企業にとっても重大な責務であります。

当社は、創業以来住民の福祉の向上に奉することを経営の理念としてまいりましたが、たまたま昭和47年をもって50周年を迎えましたので最も有意義な事業を行ないもって社会に奉仕するため、事業地域の中心を流れる多摩川およびその流域における環境浄化をはかるため財団法人とうきゅう環境浄化財団を設立せんとするものであります。

4-10-2-2 とうきゅう外来留学生奨学財団を設立

1974(昭和49)年4月、東急不動産が創立20周年事業の一つとして、外国人留学生に奨学支援を行う在日海外留学生奨学金制度を開始した。翌1975年10月にはこれを母体とした財団法人、「とうきゅう外来留学生奨学財団」(現、東急財団)が設立された。設立のきっかけは「国際感覚を身につけた社員の育成を図ると共に、日本と諸外国との国際交流を推進させ、真に友好な善隣関係を打ち立てよう」とする五島昇社長の発案によるものであった。1976年4月には新たに東急グループ各社からの出捐を受け、東急グループの財団として再構成された。

奨学支援の内容としては、アジア・太平洋地域諸国から修学や研究のために来日し、日本国内の大学院に在籍している留学生を対象に、月額5万円(当時)の奨学金給付や国内学会出席旅費補助、医療費の一部補助を実施するもので、採用人員は年間20人であった。

このころ、在日留学生の総数は約5000人で、この内私費留学の大学院生は約1200人を数え、その96%がアジア・太平洋地域からの留学生であった。奨学金の給付対象をアジア・太平洋地域からの留学生とした背景には、五島昇社長がPBEC(太平洋経済委員会)日本委員会との関係が深かったことに加え、わが国の今後の発展において、これらの諸地域との良好な関係づくりが重視された面もあると考えられる。

社内報『清和』1976年4月号の巻頭言「社長室の窓」において五島昇社長は、「留学生財団に暖い手を」と題して、次のようなメッセージをしている。

アジア諸地域との国際関係において、従来は、とかく経済援助などにみられる“もの”を媒介としてのつきあいが手っ取り早いし、それで事たれり、とする認識に立つことが多かった。しかし、真の国際交流は、それこそ心と心の結びつきでなければならない。そうした姿勢のみが、諸国からの信頼を得ることにつながる。

今度の財団の活動によって、心と心の結びつきの輪を、留学生をとおしてアジア、太平洋諸国に広げていきたい。それゆえ、留学生諸君には、東急グループへの見返りは期待していないし、一切の拘束も設けていない。だからこそ企業が中心となったわが国初のこの種の財団を、文部省が評価して認可されたものと思う。

留学生との交流会の様子

この五島昇社長の社内報『清和』巻頭言からも読み取れるように、奨学生は国と国とを結びつける将来のパートナーであり、与える側・受け取る側という一方通行の関係であってはならないという姿勢が財団活動の基本にあり、「例会」をはじめとする相互交流なども活発に行われた。奨学金給付後に学業進捗をチェックするなど厳格な運用方を設けるのではなく

よくも悪くも「ゆるい」のがうちの財団の特徴。そこがいいところで、財団の理事長も務めた五島哲氏(五島昇社長の長男、のちの東急建設社長)をはじめ東急の役員もよく例会に来たが、日本語を共通言語として留学生ととにかく和気あいあい。おいしいご飯を食べながら。(長く事務局に勤務した社員)

という姿勢を頑なに守り通したのが特徴であった。その後、2011(平成23)年11月に公益財団法人への移行と共に名称を「公益財団法人とうきゅう留学生奨学財団」に改め、2019(令和元)年までに28か国約900人の留学生を支援し、約300人の博士号取得者を輩出している。

■財団法人とうきゅう外来留学生奨学財団設立趣意書(1975年)

東急不動産(株)では昭和48年12月の創立20周年を記念し、国際交流推進の一環として、アジア・太平洋地域諸国から日本に修学・研究にきている大学院課程の正規学生、研究生のうち、私費留学生を対象に昭和49年度から奨学金を供与する奨学制度を設けました。

奨学金をはじめとする金銭的援助については、奨学生は何らの責務を負うことはなく、この奨学制度の目的は、我が国における外国人留学生の勉強・研究生活の資金的援助を行うことにより、勉学・研究成果の助長をはかるとともに、奨学生との密接なコミュニケーションを通じて我が国と諸国との協調および国際理解の促進につとめ広い意味の国際交流・文化交流の増進をはかり、友好的な善隣関係を樹立することにあります。

当法人は、ここに設立の基盤をおき、この事業をより充実させ推進させるためには、公的なものとして運営されるのが望ましいとの趣旨で、財団法人とうきゅう外来留学生奨学財団を設立しようとするものであります。

東急不動産(株)をはじめとする東急グループ企業及び本法人設立の趣旨賛同者の拠出資金によってこれらの目的が果され、我が国と諸外国との国際理解と親善、国際交流推進に寄与することができれば当法人のもっとも大きな喜びとするところであります。

4-10-2-3 その他の文化・育英事業

五島昇社長は、東急グループ各社の外債発行や海外進出における現地視察などで諸外国を訪れる機会が頻繁にあった。東急グループについて説明する際、開発、交通、流通、観光サービスの事業内容もさることながら、非営利的な側面を持つ文化・育英事業への取り組みに、先方の財界人や要人が関心を抱くケースがあった。社会における東急グループの存在価値について、改めて認識する機会となった。

五島育英会が設置する武蔵工業大学(現、東京都市大学)は、研究用原子炉を持った数少ない大学であった。また1970年代には水素エンジンの研究開発を推進して、日本初の水素エンジン自動車を試作、試験走行させた。宇宙ロケットに使われる液体水素を燃料とした無公害車として、大きな関心を集めた。

東急百貨店や東急ストアにおける各種催事でも文化、芸術の要素が増えた。東急百貨店では日本画・西洋画を中心とした美術展を随時開催。とくに創立50周年記念の一環で特別開催した「ヴォラール・コレクション展」(1972<昭和47>年9月)は、大画商秘蔵の名画の数々を日本で初めて公開したもので、美術界でも衆目を集めた。また東急ストアでは著名文化人らが講師として登壇する「ママ大学」(開始時は「東光ママ大学」)を開催し、地域住民との接点強化を図った。これらは販売促進の枠組みに相当するイベントではあったが、東急グループ独自のカルチャーを広く印象づける源泉ともなった。

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