第4章 第2節 第4項 多摩田園都市と都心を結ぶ大動脈の形成

4-2-4-1 田園都市線・新玉川線・半蔵門線の相互直通乗り入れを開始

新玉川線は、旧玉川線の代替であると同時に、人口増が続く多摩田園都市と都心を結ぶ大動脈となる路線である。田園都市線は中央林間の一歩手前のつきみ野まで延伸を果たし、あとは11号線の営団地下鉄区間(半蔵門線)との直通運転で都心への乗り入れを待つばかりであった。

田園都市線、新玉川線、半蔵門線の直通運転始まる

11号線の営団地下鉄区間は、1973(昭和48)年3月に渋谷〜三越前間の工事に着工。新玉川線との同時開業をめざしていたが、工事の遅れから、1977年時点では開通は1980年暮れごろと見られていた。1978年6月に路線名を半蔵門線と決定し、同年8月に渋谷〜青山一丁目間が開業した。これに合わせて、新玉川線の全列車が青山一丁目まで乗り入れを開始した。渋谷〜青山一丁目間はわずか2.7kmであり、当面は当社車両だけで運行、乗り入れることとした。

また、共同使用駅である新玉川線・半蔵門線渋谷駅は乗り入れ開始まで当社のみが使用していたため、営団地下鉄に使用料を支払い、駅務管理も暫定的に当社が行ってきたが、青山一丁目までの開業に伴って駅務管理は営団地下鉄側で行うこととなった。営団地下鉄との共同使用駅は中目黒駅に次いで2駅目で、中目黒駅では当社が駅務管理を行っていた。

1979年8月12日には、待望の田園都市線・新玉川線・半蔵門線3線の終日相互直通運転を開始し、多摩田園都市と都心を結ぶ大動脈が実現した。これに伴って二子玉川園〜大井町間は区間運転に切り換えて路線名を再び「大井町線」とし、「田園都市線」は二子玉川園〜つきみ野間の路線名とした。

この3線直通運転開始にあたっては、二子新地〜つきみ野間の各駅ホームをいずれも20m車両8両編成に対応可能な170mに延長した。

さらに1979年9月には半蔵門線が永田町まで延伸し、ラッシュ時間帯には田園都市線方面から永田町までと青山一丁目までの相互直通運転が交互に行われ、その他の時間帯は全列車が永田町まで相互直通運転されることとなった。

半蔵門線の渋谷〜永田町間は4.1km合計4駅での開業にすぎなかったが、営団地下鉄銀座線・千代田線・有楽町線など他線への乗り換えが可能となり、3線相互直通運転は多摩田園都市居住者に大きな利便性をもたらした。

4-2-4-2 10年を要した長津田車庫の整備

田園都市線・新玉川線・半蔵門線の3線相互直通実現には、多くの車両を留置する車庫の整備も大きな課題であった。

前章でも記したように、1968(昭和43)年4月の都市交通審議会答申第10号により、新玉川線とのちの半蔵門線が一続きの路線(東京都市高速鉄道第11号線)として設定されたが、同答申には「建設にあたっては車庫用地の確保に留意されなければならない」の1項が盛られていた。都心側に車庫用地を確保することが不可能に近いため、郊外側の当社に車庫用地の確保が求められたのである。

当社は、田園都市線の溝の口〜長津田間開業に合わせて1966年に新設した鷺沼車庫の拡充という選択肢も含め、車庫用地の選定に入った。1968年時点で田園都市線沿線は急速な人口増加に転じた矢先であり、至る所で宅地造成が進んでいたことから、選定作業は困難を伴ったが、最終的には長津田駅西方の約7万㎡を車庫用地に決定した。用地取得が比較的容易と見られたこと、高低差が少ないこと、長津田駅は田園都市線第1期延伸区間の終点として都心への折り返し電車が多く設定されていた、などの理由からであった。

長津田駅周辺の航空写真と長津田車庫全体

鷺沼車庫の拡充も並行して検討されたが、同車庫は配線を変えても250両の留置が限界であり、周辺地の買い増しが困難で、田園都市線と新玉川線で必要とされた最大330両の収容は不可能であった。このため、先の答申における条件を満たすためにも鷺沼車庫は営団地下鉄半蔵門線用に提供し、自社用に長津田車庫を新設することを決定した。

1969年に始まった用地買収は、当社の車庫に加え、近傍で町田市が下水処理場の設置を計画したため、地元地権者との交渉は難航を極めた。しかし地権者の1人から同意を得たことをきっかけに計画は大きく進み出し、ようやく1975年12月に用地買収は完了した。その後も農業を続けたいと希望する住民に代替農地を提供することや、東西に長い車庫により分断される南北の通行を確保するための歩道橋を架設するなど、地元との調整を行い、1978年11月に全体計画が確定した。

もう一つ課題となったのは、長津田車庫用地にあった埋蔵文化財である。この発掘調査の詳細は『新玉川線建設史』に詳しいのでここでは割愛するが、その要点は以下の通りであった。

  1. 埋蔵文化財(なずな原遺跡)が車庫用地のほぼ全域に存在した。
  2. 車庫建設の前提として、専門家による全域の発掘調査および記録保存を行うこととなった。
  3. 調査は、1975年から1981年の5年以上を要し、その費用5億円超は全額当社負担とした。

発掘調査が進む間に、1975年、長津田車庫の建設も新玉川線第二期工事と同様に日本鉄道建設公団による対象工事となった。建設工事は、文化財の発掘調査を終えたところから順次着手し、まずは1978年10月に第1期分の工事を完了し、20m8両編成による運行に必要な環境を整えることができた。その後、1979年7月には鷺沼から長津田へ、検車区や電車区・車掌区を移転し、同年8月の3線相互直通運転の開始に備えた。なお鷺沼車庫は1976年3月に営団地下鉄に譲渡したが、長津田車庫の完成が上記理由で遅れたため、3年余りは営団地下鉄から賃借して当社が使用した。そして、1981年4月から営団地下鉄半蔵門線用の車両が導入され、営団地下鉄車両も田園都市線・新玉川線・半蔵門線の相互直通乗り入れを開始した。

図4-2-2長津田車庫平面図 上が長津田駅付近、下が車庫付近
出典:『新玉川線建設史』

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