第4章 第9節 第1項 新宿、池袋を追走する渋谷

4-9-1-1 消費空間としての存在感

1970年代、「三大副都心」の新宿、池袋、渋谷が大きく変わり始めた。

新宿は淀橋浄水場跡地に高層ビル街が建設されることとなり、京王プラザホテルが1971(昭和46)年に竣工したのを皮切りに、1974年には新宿住友ビル、国際通信センタービル(現、KDDIビル)、新宿三井ビルが竣工。これに安田火災海上本社ビル(現、損保ジャパン本社ビル)、新宿野村ビル、新宿センタービルが続き、地上高150mを超える超高層ビルが西新宿のスカイラインを形成して、都市の風景は一変した。

池袋では戦後に巣鴨プリズンとも呼ばれた東京拘置所跡地に、超高層ビル、サンシャイン60が1978年に竣工。同ビルを中心に専門店街やホテルなどで構成されるサンシャインシティが形成され、池袋駅との間を結ぶサンシャイン60通りは、同地では最大の繁華街となった。

渋谷については、渋谷にキャンパスを置く國學院大學で、2001(平成13)年から行われている「渋谷学研究」の研究成果を引用しながら、渋谷のありようを見てみたい。

渋谷は副都心の位置を与えられていたが、新宿には大きく劣り、池袋も再開発によって変貌する可能性を高めていた。1966年の都民の買物調査によれば、①新宿、②池袋、③上野、④銀座、⑤日本橋、⑥浅草となり『圧倒的に新宿が勝利』していた。渋谷は郊外電車と山手線・地下鉄・都電との連結駅として多くの乗降客を数えるが、地形などに制約されて盛り場の面積が少なく、消費者を引き付ける店舗が弱かったのである。(※1)

しかし丸井渋谷店(1958年)、東急百貨店本店(1967年)、西武百貨店渋谷店(1968年)、東急百貨店東横店南館(1970年)、丸井渋谷新店(1971年)、渋谷パルコ(1973年)、東急ハンズ渋谷店(1978年)、ファッションコミュニティ109(1979年)と開業していくことで、渋谷の状況は一変する。これについても次のように考察している。

渋谷は副都心と位置付けられたが、広大な再開発用地を持たなかったため、管理機能を分任することはできなかった。しかし副都心の本質である消費業務を担う大規模小売店の百貨店を新設できる程度の再開発用地は存在し、副都心渋谷の後背地に着目した西武の進出とそれに対抗する東急百貨店の拡大との相乗効果により、渋谷は消費中心地区として拡大を続ける。(※2)

これを受けて手塚雄太(國學院大學文学部准教授)は、政府が策定した第二次首都圏整備基本計画(1968年)において

渋谷には副都心・業務地としての性格が求められるようになった。商業施設が相次いで進出し、若者のまち、繁華街としての渋谷の姿が明確になっていく。(※2)

と、渋谷の変貌ぶりを綴った。

  1. ※1.『渋谷学叢書 4 渋谷らしさの構築』(田原裕子編著)上山和雄(國學院大學文学部教授)雄山閣、2015年2月
  2. ※2.『別冊ブックレット渋谷学』(國學院大學研究開発推進センター渋谷学研究会編)國學院大學研究開発推進センター、2021年2月
図4-9-1 渋谷駅周辺の東急グループおよびその他の拠点位置図

1970年代において大きなインパクトとなったのが公園通り(1972年に命名)である。すでに1968年4月の西武百貨店渋谷店の開店を契機に、渋谷駅北側への人の流れが生まれていたが、この流れを奥へと導く渋谷PARCO(PART1)が1973年6月に開店、西武流通グループ(のちのセゾングループ)による卓越したイメージ戦略も手伝って、西武百貨店から渋谷PARCO、渋谷公会堂、NHKホール(1973年6月開場)方面へとつながる緩やかな坂が、文化的な磁場を伴った「線」として注目された。ファッションなどの流行の発信地となり始めた原宿と近いことも、磁場を強める一助となった。

これにより公園通り方面と東急百貨店本店方面(東急本店通り)の人の流れは、当時の東急百貨店経営陣の感覚として、「7対3、あるいは8対2」とも言われるようになった。この時期から、日本における若者文化の発信地は、その中心を新宿から渋谷へと移し、いわゆるサブカルチャーなどを含めた多様な文化が根づいていくこととなるが、「西武劇場」、「西武美術館」や、周辺の小劇場「渋谷ジァン・ジァン」などをはじめとする文化施設、丸井渋谷新店(1971年)などのファッションビルが、公園通り方向へ集積したことにより、この流れが加速された。

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