第4章 第9節 第2項 「ファッションコミュニティ109」と「東急ハンズ」の開店

4-9-2-1 「ファッションコミュニティ109」の開店

1967年ごろの恋文横丁付近(手前)

五島昇社長は、西武百貨店の渋谷進出を歓迎し、互いに切磋琢磨することで渋谷の地位向上を図る考えであった。その考え自体が揺らぐことはなかったが、渋谷パルコが開店して以降、公園通りに人が流れている状態を座視することはできず、東急グループとして巻き返しを図る必要に迫られた。

当社がまず着目したのが、道玄坂と本店通りに挟まれた三角地帯、恋文横丁の再開発である。この三角地帯は戦後のヤミ市の名残を色濃く残した一帯で、古くは一杯飲み屋や食堂、古着屋などが迷路のように建ち並んでおり、そのなかに代書屋と呼ばれる店があった。進駐軍の米兵と交わすラブレターを代筆、翻訳することをなりわいとしていた店である。丹羽文雄の小説『恋文』で題材として取り上げられ、これを原作とする映画も公開されて話題を集め、この一帯が恋文横丁と通称されるようになった。

木造バラック建てが密集するこの三角地帯は、1967(昭和42)年7月に防災法の指定を受けたのを機に再開発構想が浮上していたが、60人の地権者がおり、権利関係が複雑で調整は難航が予想された。そこで東急百貨店が中心となって権利関係の調整に乗り出したが、営業継続を望む地権者との協議には歳月を要し、最終的には当社の所有地である宇田川町の駐車場に仮設店舗をつくり、ビル完成までの営業を確保することで合意した。そして、1977年3月に既設建物の取り壊しに着手し、東急百貨店は新ビルの運営を手がける子会社として1978年1月にティー・エム・ディーを設立した。

「ファッションコミュニティ109」開業のころ

こうして地権者と共同で開発した新ビルは、1979年4月、「ファッションコミュニティ109(1989<平成元>年に、SHIBUYA 109に館名変更)」として開業を迎えた。地上8階建て・地下2階の三角状のビルで、地下2階は新玉川線渋谷駅につながる。最上部に「109」のロゴマークを掲げメタリックな輝きを持つ円柱(シリンダーとも呼ばれる)を渋谷駅の方角に設けたビルは、道玄坂方面に人を誘うシンボルとなり、公園通りに傾いていた人の流れを引き寄せるには十分であった。

ティー・エム・ディーでは前身にあたる東急百貨店T.M.D.開設準備委員会の時代から、当時はまだ珍しかったファッションビルのあり方を検討した。衣食住にファッションセンスを重視する若い年齢層を主たる客層とした店舗構成を模索し、流行に敏感な世代の嗜好をつかむことで、東急百貨店のアンテナ機能を果たすこともめざした。

開店当初は、婦人服のみならず呉服、紳士洋品、雑貨の店などもあり、比較的幅広い層をターゲットとした店舗構成で、若年層の女性向けに特化したファッションビルではなかった。しかし「ファッションコミュニティ109」の出足は好調で、年商100億円の予算を上回る月商10億円規模で推移、1980年度は年商が140億円となった。

なお、ティー・エム・ディーは2000年代に入り、当社系商業施設の運営会社である東急モールズデベロップメント(当社子会社)へと変遷していくこととなるが、これについては後述する。

4-9-2-2 「東急ハンズ」渋谷店の開店

東急ハンズ渋谷店(1979年)

東急ハンズ渋谷店も、渋谷駅北側の公園通り方面へと流れていた人の流れを変え、渋谷の「面」としての回遊性を高めたという点から特記すべき商業施設である。

東急不動産は、1972(昭和47)年8月、宇田川町(聖パウロ教会跡地)の土地を取得した。オルガン坂と井の頭通りの結節点に位置するL字型の土地で、高低差が6mもあり、渋谷駅から500mの距離があるなど決して恵まれた条件の土地ではなかった。当初は賃貸ビル用地と考えられ、いくつもの複合ビル案やホテル案が検討されたものの決め手に欠け、しばらくは遊休地であった。

一方、1970年代に入ってからDIY(Do it yourself)市場が関心を集め始め、日曜大工用品などを揃えたホームセンターが出現していた。米国ではホームセンターが新たな小売業として活況を呈していたが、日本ではまだ広がっていなかった。東急不動産はDIY市場の可能性に着目すると共に、木材、建材、金物、塗料といったDIY用品のみならず、アウトドアライフやホビーなどの分野に広げて、住生活に関連するあらゆる商品を集め、手づくりを楽しむ人のための「手づくりホビー総合専門店」を新事業として計画した。

この間、たびたび触れてきた土地税制を巡る環境変化を受けて、東急不動産においても社有地の有効活用が重要な課題となっていたため、宇田川町の土地を新事業の店舗展開に充てる案が浮上した。利用しにくい地形を逆手にとって、入口を地上1階と地下2階部分の2か所に設け、各階をA、B、Cの3フロアで構成するらせん状のスキップフロア方式を採用する発想が生まれた。折しも公園通りがにぎわい見せ始めており、公園通りと東急百貨店本店の中間地点に新事業の店を設けることができれば、渋谷の人の流れに「面」的な回遊性が生まれる。

東急不動産の社長を兼務していた五島昇社長は、この新事業に当初は消極的だったが、たびたびの趣旨説明を受けて、1976年の初めごろには前向きの姿勢に転じて事業化を承認し、不退転の決意で黒字化を実現するよう求めた。事実上のゴーサインで、「手づくりホビー総合専門店」の計画は、やがて「CREATIVE LIFE STORE」をスローガンに、新事業名を「東急ハンズ」「TOKYU HANDS」とすることが承認された。

1976年3月、東急不動産は宇田川町の土地に西渋谷東急ビルを建設、併せて東急ハンズの実験店舗を藤沢に開設することを決定。同年8月には店舗運営を担当する同社子会社として株式会社東急ハンズを設立した。東急不動産の社内では流通事業への進出に懸念を示す声が多く、また商品仕入について交渉した調達先企業も東急ハンズという新業態が成功するか否か判別できず、現金取引のみという仕入条件がつけられた。この逆風をはねのけるためにも、まずは実験店舗での成果を見せる必要があった。

東急ハンズの1号店にあたる藤沢店は1976年11月、同じく実験店舗の性格を有する2号店の二子玉川店は1977年11月に開業した。両店共「他店にはない豊富な品揃え」「自分で手作りしたいという来店客の気持ちに応えた接客サービス」などが高い評価を受けて、順調な滑り出しとなった。

両実験店舗での経験を踏まえて、1978年9月に渋谷店が開業した。地下3階・地上8階の西渋谷東急ビルの全館を使い、スキップフロアで構成される渋谷店は、既存店をはるかに上回る圧倒的な品揃えとし、東急ハンズの旗艦店となった。

事前の予想では、オルガン坂からの来店客を予想していたが、開業1か月後の調査ではオルガン坂からが6割、井の頭通りからが4割という結果になり、井の頭通りからの来店客は東急ハンズが目当てであることもわかった。井の頭通りにさらなる人の流れが生まれ、東急百貨店本店、東急ハンズ渋谷店、渋谷パルコの3地点における回遊性も見て取れる結果となった。

4-9-2-3 [コラム]流通業の常識を破った「東急ハンズ」の異彩

東急ハンズという新業態の誕生は、多くの業界関係者を驚かせた。その革新性については、10周年記念として編纂された『東急ハンズの本』と、『手の復権 東急ハンズ20年史』に多くのエピソードが記されている。

「手の復権」は東急ハンズの事業コンセプトを示す重要なキーワードである。経済成長により豊かになった日本では、身の回りの品々を手づくりするよりも、完成した既製品を購入して済ませる傾向が強まっていた。東急ハンズはこうしたトレンドを逆手にとって、「自分で素材を吟味し、道具を揃えて組み立て、仕上げる」ための商材を豊富に揃え、手づくりのプロセスそのものを楽しむという新しいライフスタイルを提案した。

これと併せて、接客面ではコンサルティングセールスに徹した。お客さまが手づくりしたいモノのイメージを理解し、それに適した素材や使い方・作り方を提案するという方法である。お客さまが求める品揃えに不足があれば、販売員自らが調達先を探して仕入れた。「『ない』で終わらせない接客」は東急ハンズ草創期に培われた接客姿勢で、「東急ハンズに行けば欲しいものが手に入る」という定評につながった。

東急ハンズの母体の東急不動産は、流通業界において当初は素人と思われていたが、玄人には発想できない事業コンセプトと接客姿勢が勝機を呼び込み、東急ハンズという新しい業態が定着した。併せて「東急」というブランド力の向上にも大きく寄与した。

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