第4章 第7節 第2項 余暇活動の需要拡大

4-7-2-1 「旅」の大衆化と国内旅行の新展開

1970年代は団体旅行よりも、家族や親しい仲間などの少人数グループや個人での、いわゆる個人旅行が増え始め、旅の大衆化が進んだ時代である。国内では1970(昭和45)年開催の大阪万博後の旅行需要を発掘すべく国鉄が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを繰り広げて大きな反響を呼んだのをはじめ、旅情報特集を掲載した女性誌が契機となってアンノン族ブームが起きるなど、旅行市場の裾野が広がった。

東急観光の営業所数は着々と増えて、1970年代半ばには100か所を超えるが、これまで団体客の国内旅行斡旋を中心に成長を遂げてきた経緯から、営業所の立地は必ずしも人通りの多い場所ではなく、来店客対応のカウンターを備えた営業所も多くはなかった。

個人旅行を計画する来店客に対しては、旅行業カウンターでの接客はとくに重要となる。当時はまだ大衆向けの旅行ガイドブックが少なく、市販の時刻表の解読にも習熟を要するため、どのような旅程が適しているか、どの旅館・ホテルがニーズに合っているかなど、カウンターで相談しながら決めていくのが一般的であった。

このため1972年にはカウンター営業の強化を決定し、多くの人が来店しやすい立地に営業所を設けると共に、従来型営業所の改廃を推進した。また同年には、国際線航空券も発売する総合旅行業のモデル営業所を新橋烏森口に設置。さらに仙台の有名百貨店、藤崎の1階にトラベルセンターを開設した。また、後述するように東急航空との再びの合併を経て、同社が運営していた、赤坂東急ホテル内、銀座東急ホテル内、東京ヒルトンホテル内、横浜のシルクセンター内の営業所が加わった。

商品企画面では、交通機関や宿泊、観光を一つにまとめたパッケージツアーの開発・販売に注力した。東急観光がパッケージツアーの販売を開始したのは1966年のことだが、1972年12月には国内パッケージツアーのブランドを「東急トップツアー」とすることを決定し、趣向を凝らした内容で、個人旅行の取扱額を徐々に増やした。

また個人旅行用として、国鉄の周遊券が好まれていた。周遊券は、一定範囲の国鉄駅で自由に乗り降りでき、種類によっては急行列車の自由席にも乗車できるなど観光地エリアの回遊性に優れた特別企画乗車券である。東急観光は団体券のみの取り扱いが続いてきており、旅行単位が団体から個人に移りつつあるなか、早急に周遊券の取り扱いを開始する必要があった。国鉄側への長年にわたる働きかけの結果として、1971年にまずミニ周遊券の取り扱いが認可され、翌1972年には周遊券全般の取り扱いが認められた。大手3社に続く4社目の認可であった。

これに続いて東急観光は、国鉄の個札(普通乗車券、回数券、定期券など)の取り扱い開始を申請すると共に、国鉄との協調関係を強化する提案をレポートとして提出。このなかに盛り込まれた国鉄とのコンピュータ結合(オンライン化)が1978年10月に認可され、続いて翌1979年5月に国鉄特選商品の販売が認可され、同年7月から販売を開始した。これにより国鉄車内などの広告に東急観光の社名や商品が掲示されるようになった。

個札の取り扱い開始やオンライン化の実施は1980年代初頭に持ち越されたが、こうした取り組みにより東急観光は業界4位の旅行業者として地歩を固め、1979年度には取扱額を1000億円台に乗せた。東急グループにおける売上高ランキングでは6位につけており、同社は観光サービス事業の要と認識されるに至った。

4-7-2-2 東急航空と合併、東急観光は総合旅行業へ

国内旅行の大衆化が進むと同時に、海外旅行についても関心が高まった。とくに1966(昭和41)年の海外渡航の自由化以降は、海外旅行人口も次第に増加。高度経済成長により経済的な余裕が生まれたことで、海外へ気軽に出かける機運が醸成されてきたのである。海外旅行者数(出国日本人数)の推移を見ると、1960年代末期から第一次オイルショックが起きる1973年までの伸率が非常に高く、1973年には229万人が海外へ渡航しており、5年間で実に4倍近くにもなった。以前は仕事目的の業務渡航者が過半を占めていたが、この間に観光目的の渡航者が一気に逆転した。

観光を目的とした海外旅行増大の一因としては、前章でも触れた日本航空「ジャルパック」の指定代理店向けホールセールス開始(1965年)が挙げられる。海外旅行初心者にとって好適なパッケージツアーとして高い人気を集めたが、東急観光は当初は日本航空の指定するIATA加盟代理店であった東急航空との提携で、「ジャルパック」の販売取次をするにとどまっていた。

こうしたなか、第3章で述べた1962年に一度は分離していた東急観光と東急航空が再び合流する方向で話が持ち上がり、1972年4月に合併。これにより新生・東急観光は、東急航空の旅行部門を引き継いで、IATA加盟代理店として国際線の航空券取扱業務を行うこととなり、1975年には東急航空から引き継いだ8営業所を含めた合計15か所で国際線航空券を発売できるようになった。

1972年12月には、海外旅行のパッケージツアーを「TOPツアー(のちにTOP TOUR)」ブランドで展開することを決定。成田国際空港の開港(1978年5月)を控えるなかで自らホールセールスに乗り出し、外販の拡大に努めると共に、商品ブランドの知名度向上をめざして広告活動にも注力した。

日本人向け海外旅行の販売促進と同時に、外国人の訪日旅行を専門に取り扱う営業所(外国人旅行センター)を設けたのも、東急航空との合併が契機となった。日本への送客側の営業拠点をニューヨーク、ロサンゼルス、グアムに置き、その他の海外主要都市では、現地旅行業者に営業担当を派遣した。外国人旅行の取扱額では日本交通公社に次ぐ2番手につけ、長く東急観光の得意分野となった。

また東急航空から航空貨物部門も継承し、新たに航空貨物運送代理店業と通関業が加わった。航空貨物運送代理店業は物品の輸出入にかかわる物流業の一つであり、旅行業とは異質で専門性が高いため、1976年6月に設立した東急エアカーゴへ同年9月1日に分離、独立した。同社は航空貨物のみならず船舶貨物分野にも進出し、国際的物流業の基盤を構築した。

東急観光・東急航空合併調印(1972年1月)
東急観光渋谷営業所(1972年)

4-7-2-3 各種レクリエーション施設の動向

観光サービス事業の内、都市型レジャーの需要を取り込んできたのが東急レクリエーションである。同社は渋谷、新宿、上野、池袋に展開する合計9館の映画館を中心に、1960年代末期にはボウリング場を各地に展開した。しかし、第一次オイルショック直後にボウリングブームが急速に冷え込んで、ボウリング場の閉鎖が相次ぎ、一時は苦境に立った。

東急インを熊本と広島に相次いでフランチャイズ展開したのは、流行り廃りの激しいレジャー施設以外の事業を行うことで、経営の安定を図るためであった。

その後、集客力のある新宿ミラノボウルではボウリング人口の定着に向けた施策を地道に行い、1976(昭和51)年以降は人気が復活、息を吹き返した。また経営多角化の一環で1974年、六本木にスコッチパブ「バグパイプ」を出店し、1977年までに合計5店(六本木、赤坂、渋谷、新宿、町田)のチェーンとなった。

屋外型レジャーでは、年間160万人ものスキーヤーを取り込んだ白馬観光開発が、八方尾根、岩岳、栂池のスキー場の高稼働により引き続き好調を維持した。

宮崎サファリパークの園内

少し意外であるが、日本で初めてサファリパークを建設したのも東急グループの会社である。当社子会社の東急土地開発が取得した広大な土地の活用方法として、日本初のサファリパーク建設が浮上した。

同社はサファリパークのパイオニアである米国企業との合弁で、1973年7月に日本サファリパークを設立。宮崎県佐土原町のほか岐阜県土岐市、兵庫県の西播磨地域も予定地としていたが、最終的には宮崎のみが開業することとなった。1975年11月に開業した宮崎サファリパークは、広大な敷地の有効活用方法として、ゴルフ場以外の使い道を切り拓く試金石の意味合いもあった。

約100万㎡の草原に、アフリカから輸入した野生動物430頭余りを放し飼いにし、入園者は総延長約5kmのサファリロードを自家用車や観光バス、タクシー、パーク専用バスで巡回し、サバンナの自然風景を楽しむという趣向であった。1976年5月には入場者が100万人を突破した。

なお当社の創業期から遊園業を支えてきた二子玉川園と多摩川園は、松籟荘(しょうらいそう)(多摩川台公園内に1957年8月に建設された多摩川を望むレストランで、夏季にはビアガーデンも設けられた)と共に、1979年4月に東急不動産に返還した。2つの遊園は東急不動産の設立時(1953年)に同社に譲渡、同社業績の下支えとなっていたが、旅客誘致という本来の役割を明確にするため、1955年から当社が経営を受託し、両園とも1964年に入場者数はピークを迎えた。その後、レジャーの多様化や施設の老朽化などによって来園者が減少の一途をたどってきたことに加え、不動産活用の好適地でもあることから、東急不動産の手によって再開発が検討されることとなったものである。

多摩川園は1979年6月に閉園したのち、テニスコートとして再活用され、のちに売却された。現在はその一部が大田区立田園調布せせらぎ公園となっている。多摩川台公園内の松籟荘は1979年9月に閉店し、解体された。二子玉川園は1985年3月に閉園したのち、2000年代に本格的に再開発が進み、現在の二子玉川ライズ(商業施設など)に生まれ変わっている。

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