第4章 第3節 第1項 バス事業の苦境と新機軸

4-3-1-1 環境の変化に苦しむ路線バス

1970年代の当社自動車事業は、以下の表のとおり増収傾向にあったものの、赤字が続いていた。1969(昭和44)年にスタートした玉川線代行輸送による増収分と、この時期数次にわたり行われた運賃改定による増収分があったにもかかわらず、人件費の高騰や道路渋滞が原因の定時性低下による利用者のバス離れが大きかったためである。

表4-3-1 東急バスの年度別運輸成績(1968年度〜1980年度)
注:『東急バス10年のあゆみ』をもとに作成

また1973年10月、第四次中東戦争を引き金に発生した第一次オイルショックでは、政府による石油や電力使用の抑制策が行われ、観光バスの運行制限、マイカーの自粛、ガソリンスタンドの休日営業休止などが行われた。自動車事業においても、燃料価格の高騰などの影響を受けたが、自社でガソリンスタンドを営業していたことから、そこからの燃料供給により、運行への影響は最低限に抑えられた。

もう一つこの年の大きな動きは、オイルショックの影響を受けて、のちに「狂乱物価」とよばれるインフレが進行し、これを受けて当社でも1973年の春闘では約30%の賃上げとなったことであった。

『清和』1974年12月号では、当社財務部次長が以下のように振り返っている。

(自動車部の)赤字の主な要因はやはり人件費で、前年同期の人件費に比べると今期は14億6千万円もふえています。ワンマンカー化など大きな省力化が終わった今、自動車部門では合理化の余地がほとんどありません。このような中で、路線の統廃合とか、車両の効率運用を図り努力はしてきましたが、大勢には抗しようもありませんでした。

1974年の上期だけで赤字額は18億円余りとなり、前年上期の3億円余りの赤字から赤字幅が大幅に増大することとなった。

この時期、路線バスは鉄道駅との接続に活路を見出し、フィーダーバス(支線バス)としての性格を強めていった。とくに神奈川県下では、田園都市線が長津田まで延長した1966年に住宅地と最寄り駅を結ぶ路線を開設していたが、多摩田園都市の人口増に伴って輸送人員数が順調に増加。田園都市線の延伸や新玉川線の開業を機に新規路線の開設も相次いで、都心地域での乗客減少を補うことができた。

また路線の改廃も進めた。かつてはドル箱路線とも言われていた山手線内の都営バスとの相互乗り入れ路線は、地下鉄網の整備と民鉄との相互直通乗り入れ開始の直撃を受けて、路線そのものの存在価値が低下。1970年代に入って相互乗り入れ路線の分断や廃止を行った。

普及が進んだワンマンバス

新たな需要を喚起するため、開業した首都高速道路経由の高速通勤バス渋谷線(桜新町〜東京駅丸の内南口)と目黒線(等々力〜東京駅丸の内南口)が、朝夕の通勤客をターゲットとし好評を博したが、間もなく首都高速道路も渋滞が目立ち始め、利用者数は漸減傾向をたどった。また長野や江の島との長距離バスも、道路渋滞により定時性の確保が難しく、またシーズンによる利用者数の変動が激しいため、それぞれ1971年と1974年に営業を終了した。

なお1960年代から先行的に取り組んできた路線バスのワンマン化は、その後も順調に進展し、1973年6月に綱島線のワンマン化をもってこれを完了させた。

4-3-1-2 ミニバス「東急コーチ」の開業と新たな取り組み

東急コーチ(コーチ自由が丘線)

バスの、都市部での大量輸送機関としての存在価値が揺らぎつつあるなか、明るい話題となったのが、デマンド方式を採り入れたミニバス「東急コーチ」の開業である。

道路幅が狭くバス路線を設けられなかった住宅地や商業地を通行できるミニバスを導入した「東急コーチ」の特色の一つは、デマンド方式を採り入れた点にある。これは基本ルートのほかに迂回ルート(デマンド区間)を設定し、デマンド区間では利用者が道路脇に設置したコールボックスと呼ばれる発信機でバスを呼び出すことができると共に、希望する地点で降車できるもの。すなわち、路線バスにタクシーの要素を加味した点に大きな特徴があった。

車両については、ミニバス(中型車)をバス車体メーカーと共同開発し、冷暖房を備えたデラックスな仕様の車両(座席数27席)を5両新製した。

最初の路線として設定したのは、1975(昭和50)年12月に開業した、自由が丘と世田谷区駒沢を結ぶコーチ自由が丘線(自由が丘駅〜駒沢)である。自由が丘は駅前広場に通じる道路が狭いため大型バスの乗り入れができなかった。また、東横線や大井町線、旧玉川線の代行バス路線に囲まれながら、いずれの路線の駅に向かうにも相応の距離がある地域で、これまではタクシーを呼び出して自由が丘駅へ向かう住民が少なくなかった。

コーチ自由が丘線(深沢六丁目コールボックス)

コーチ自由が丘線の開業時の運賃は、都内の一般路線運賃(70円)よりも割高(120円)としたが、1日平均の乗車人数は事前予想の1800人を大きく上回り、1976年度には3000人近くになった。通勤通学時間帯だけでなく、午後から夕方にかけての利用者も多く、買い物などに便利な交通機関、地域住民の足として浸透していることがわかった。

大都市の交通網において空白地帯となっていた地域でバス利用の潜在需要を発掘できた意義は大きく、1977年4月に開催された東急グループ社長会では、東急コーチが会社表彰制度の「東急グループ賞」を受賞した。当社交通事業では初めての受賞であった。

1979年9月には、東急コーチの第2弾として、川崎市高津区住民の要望に応えてコーチ鷺沼線(鷺沼駅〜宮崎台駅)を開業。翌1980年度には、2路線合計の1日平均乗車人数が6000人を超えた。

図4-3-1 東急コーチ コーチ鷺沼線の路線図
出典:『清和』1979年9月号

東急コーチの成功を踏まえ、1978年度からは一般路線の一部でも中型車を導入し、燃料費の削減と安全性の向上を図った。

バス離れを食い止めるべく、利用者へのサービス強化にも着手した。1972年から都内バス路線の系統番号掲示を開始し車体の前後、側面やバス停のポールなどに系統番号を表示、主要ターミナル駅のバス乗り場に乗り場案内図や系統図を掲示するなど、初めての利用者にもわかりやすい案内に努めた。また夜間でも表示が見やすいよう照明付停留所を拡充、雨よけの上屋付停留所も順次拡大を図った。

さらに1973年4月から、バス・ロケーション・システムの実験を進めた。これはバスの走行位置を検知し、無線と電電公社の有線回線を通じて管轄営業所のコンピュータに情報を集約し、これを停留所で表示すると共に、走行位置情報をもとに運行間隔を調整しようとする試みであった。

バス・ロケーション・システム(淡島営業所)

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