第4章 第2節 第2項 新玉川線の第二期工事開始から開通まで

4-2-2-1 日本鉄道建設公団による工事着手

玉川線の廃止後、1969(昭和44)年5月にようやく本格着工した新玉川線は、第3章で述べたように首都高速3号線と構造的に重複する約3km区間を対象とする第一期工事を1971年12月に終え、いよいよ全線開通に向けて、残る区間など第二期工事に着手することとなった。

11号線の都心側の建設について帝都高速度交通営団(以下、営団地下鉄)が1971年4月に免許を受けたことから、当社は営団地下鉄と相互直通運転にかかわる協議を行い、車両などの規格や輸送計画のほか、渋谷駅を共同使用駅とすることなどを大綱としてまとめた。

営団地下鉄との協議と並行して、当社にとって焦点となっていたのが約291億円と試算された第二期工事の建設費用の捻出である。新玉川線の延長9.6kmは二子玉川園付近を除く大半が地下線となっており、第二期工事はこの内6.6km区間の土木工事一式と、全線にわたる建築、電気、軌道などの工事を行うこととなる。巨額の設備投資を銀行借り入れによる自己資金のみで賄おうとした場合、経営を少なからず圧迫する懸念があり、1970年度の鉄軌道事業の営業収入が約125億円、営業利益が約15億円というなかで、利益の約20倍の工事費となる第二期工事のあり方を巡って当社内で活発な議論が交わされた。

新線建設や改良工事の費用負担は当社のみならず、大都市の民鉄各社が共通に抱える課題であった。例えば東京都多摩地域では多摩田園都市のみならず、東京都による多摩ニュータウン計画など大規模住宅団地の建設が進められており、住民の輸送手段となる都市間高速鉄道の早期建設や輸送力増強が強く求められていた。

運輸省「都市交通年報」によれば、1971年当時、首都圏における鉄道輸送のなかで民鉄による輸送は37%の割合を占めていた。当社を含め民鉄各社は、輸送力増強や運転保安にかかわる努力を続けてきたものの、とくに都市部での用地費高騰や、人件費を含む工事費の大幅な上昇もあり、費用の負担増が経営を大きく圧迫した。さらなる輸送力増強には複々線工事や都市部乗り入れのための新線建設が必要であり、これらの工事を行う民鉄各社への強力な助成策が求められる時勢となっていたのである。

民鉄に対する助成としては、日本開発銀行による融資制度が1959年度からあったものの、1972年度の予算要求では「大都市輸送施設整備事業団(仮称)」の設立構想が盛り込まれた。行政改革のあおりで新たな財団の設立は認められなかったが、その代替として決定されたのが、国鉄線の建設を業務としていた日本鉄道建設公団による民鉄線方式(P線方式)である。

このP線方式は、

  1. 日本鉄道建設公団法を改正(1972年6月)して、それまでの日本国有鉄道の新線建設に加え、大都市圏の民鉄線の建設・大規模改良を同公団が実施できるようにする。
  2. 同公団が資金調達して工事を行い、完成後に施設を鉄道会社に譲渡する。
  3. 工事費は当該会社が25年間の長期低金利による割賦方式で支払う。

というものであった。割賦および金利負担が軽くなるこの方式は、資金調達の問題にめどをつけることにより、社会的必要度の高い民鉄の新線建設を加速させた。

工事の続行を含め社内で大きな議論のあった第二期工事は、このP線方式により資金面に一定の見通しが得られ、大きく進展することとなった。そして、同公団施行工事として指定を受けるべく、1972年8月に運輸大臣に対して「鉄道施設建設の申出」を行い、受け入れられた。

なお、この第二期の同公団施行工事は、1975年に後述の長津田車庫の整備も加わり概算工事費は総額約507億円となった。また同時期には、首都圏の民鉄5社7線が同公団の施行工事となった。

表4-2-1 最初の工事実施計画一覧
出典:『日本鉄道建設公団三十年史』

4-2-2-2 渋谷駅部の難工事を克服、新玉川線の開通迎える

新玉川線の建設は、日本鉄道建設公団の事業として施行されることとなったが、その工事は当社が同公団から受託した。当社は全区間を13工区に分け、まずシールド工法区間と高架区間の、合わせて3工区で1972(昭和47)年11月に着工、工事の認可が遅れていた開削区間と土工区間でも翌1973年から順次着工し、1975年9月の完成をめざした。新玉川線と田園都市線の直通運転に備えて、二子玉川園駅の改良工事を行ったほか、P線方式の適用を受けない当社単独の工事として長津田駅の改良工事にも着手。同駅では直通運転用に2面4線のホームを整え、こどもの国線のホームは移設して専用ホームとした。

新玉川線の隧道工事は駒沢隧道の完成により1975年8月に全線が貫通したが、渋谷駅部の工事は難関続きであった。渋谷駅部は全長487mで、20メートル車両10両分のホーム長を確保し、ホームの中心を分界点として郊外側は当社、都心側は営団地下鉄が所有して、両者が共同使用することとしていた。日本鉄道建設公団からの工事受託者も同様にホーム中心で東急と営団地下鉄に分かれていたが、当時地下鉄工事の経験が深い営団地下鉄に当工事全般を委ねることが賢明との判断もあり、駅施設を一体的に工事することとして、当社所有の郊外側233mの内ホーム中心から郊外側132mまでの部分は営団地下鉄に工事を委託し、残る101mを当社が工事を受け持った。

渋谷駅の建設は、路面交通が輻輳する交差点下の開削工事で、既設の埋設物が多数あり、すり鉢状の地形ならではの地下水処理の問題を抱えていたほか、渋谷地下街を仮受けした状態でその下部に駅を建造する必要があるなど、技術的な難易度が非常に高かった。工事開始前の諸準備にめどをつけて、ようやく工事が本格化したのが1974年秋であった。この渋谷駅部の工事の完工にはなお日数を要することから、開通目標は1975年から1977年春に延期した。

駒沢隧道貫通により、新玉川線全線貫通(1975年8月8日)

新玉川線内の信号保安設備については当初、当社仕様の地上信号方式によるATS(自動列車停止装置)を設置する予定であったが、その後の研究成果を踏まえ、新たに地上信号方式のATC(自動列車制御装置)を導入することとした。

地下区間を最高速度85km/hで走行することは、従来では考えられない想定であり、さらに渋谷~二子玉川園間では急行運転を行うことも計画されていた。このため、1974年8月から9月にかけて、田園都市線鷺沼~たまプラーザ間の仮設セットで85km/hでの試験を行うなどした結果、地下鉄線内ではATC付き地上信号式よりもATC付き車内信号式の方が信号機配列のうえで合理的(中継信号機、速度表示、標識類の多数化を避けられる)であり、運転側からも同様の意見が出されたため、当社線内で初となるATC車内信号方式(CS-ATC)の採用を1975年2月に決定した。CSとはCab Signalの略であり、通常線路の脇に設置されている信号機がなく、代わりに電車の運転席に制限速度が表示され、速度を超過した場合には自動的にブレーキがかかり速度を落とす保安方式である。

1975年10月からATC関連工事に着手し、1977年1月より試運転とATCおよび列車位置表示装置の調整、習熟運転を重ねた。

多くの難題を克服して、1977年4月7日いよいよ開業を迎えた。当日は渋谷駅地下2階のコンコースで修祓式が行われ、地下3階のホームから祝賀電車が出発、二子玉川園では祝賀パーティーが行われた。路面電車の“玉電(たまでん)”が惜しまれながら姿を消してから8年、待望久しい新玉川線の開通とあって、沿線は祝賀ムードに包まれた。

開通当初は、渋谷〜二子玉川園間の折り返し運転で、日中は8分間隔、8500系車両6両編成による運行であった。この段階では田園都市線二子玉川園以西と新玉川線の相互直通運転は実施していなかった。なお、8500系は、新玉川線と営団地下鉄半蔵門線の相互直通運転に対応するために、8000系をベースに開発された車両で、1975年から田園都市線と東横線に先行投入されていた。8000系に採用されていたワンハンドルコントローラー(ワンハンドルマスコン)の運転台や回生ブレーキが使用できる界磁チョッパ制御方式に加えて、運転台に制限速度が表示されるCS-ATCの採用など当時の最先端の技術を取り入れた通勤型車両として評価され、第19回(1976年)ローレル賞(鉄道友の会選定)を受賞した。

そののち1977年11月には、日中の時間帯で田園都市線二子玉川園以西と新玉川線の直通快速列車の運行を開始し、渋谷〜長津田間の所要時間は、従来の自由が丘経由よりも約10分短い31分となった。

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