第4章 第10節 第1項 広報活動とグループ社員交流への取り組み

4-10-1-1 「東急」ブランドの価値を再確認する名称審査委員会を設置

1971(昭和46)年8月の時点で、東急グループのなかで社名に「東急」を冠した会社は、関連会社の傘下会社も含めて58社にのぼっていた。各社が社名の一部に「東急」を使用するのは、企業活動を行ううえで、当社および東急グループの信用力を後ろ盾にできる、東急グループの一員として連帯感を高めることができる、などのメリットがあるからである。

前述したように1970年には「ながの丸善」が東急百貨店の傘下に入り、名称を「ながの東急百貨店」に改めたところ、1年間で22%の売上増を見たことがある。かつて東横百貨店が東急百貨店に、新日本興業が東急レクリエーションに社名を改めた際も、同様の効果があったと記録されている。

改めて「東急」ブランドの防衛のため、商標法上の対策と並んで、当社は1971年7月、「名称審査委員会」を設置し、次のような場合に「東急」の名称使用を認めるか否かを審査することとした。

1)今後、子会社や孫会社、各種法人(財団法人、学校法人を含む)の設立にあたって、商号や名称の一部に「東急」(ひらがな、カタカナ、英文字を含む)を使用しようとするとき

2)既存を含めて子会社や孫会社などが今後新たに、その事業所名や商品名、宣伝活動などに「東急」(同)を用いようとするとき

3)東急グループ以外の関係のある会社で1)2)に該当するような行為を行おうとするとき

この名称審査委員会では、その後、当社や東急グループ各社となんら関係がないにもかかわらず「東急」の名称を使用している企業などに、是正を求める役割も担った。「東急」ブランドの価値は、長年の事業活動を通じて構築してきたものであり、たとえ東急線沿線にある個人商店であろうとも、「東急」の無断使用は黙認できるものではなかった。

事実、東急グループの一員であるかのような社名で問題を起こし、新聞の投書欄に消費者からの訴えが掲載されて、当社に苦情が寄せられるケースなどもあった。名称の無断使用は看過できるものではなく、1977年には法的手段も辞さないという方針を打ち出し、とくに悪質と認められる会社に対しては不正競争防止法違反で告訴することとした。

このことはグループ誌『とうきゅう』1977年10月号でも特集として大きく扱われている。ちなみに記事は次のように結ばれている。

(前略)東急グループの信用の失墜になるような事例を未然に防ぐためにも、(中略)“東急”のノレンは、みんなで育成すると同時に、積極的に自衛していく必要があるようである。

4-10-1-2 グループ広報を実施する東急広報委員会を設置

1972(昭和47)年4月、東急グループ全体の広報活動を行う「東急広報委員会」を設置し、当社と関連会社9社の合計10社、役員19人を委員とする組織としてスタートした。委員会の事務局(連絡窓口)は当社情報室内に置いた。

この東急広報委員会は、東急グループの社会的使命や事業理念を、地域社会はもとより広く一般社会にも正しく理解してもらうことを目的としていた。また併せて、グループ内の結束を促して連帯感の強化に資することもめざした。グループ横断的に、常設の組織をつくるのはこの東急広報委員会が初めてであった。

東急広報委員会では、グループ広報のあり方について協議が進められたほか、今でいうパブリシティ活動、マスメディアへの露出獲得など、具体的な活動が開始された。その一つとしてグループ誌『とうきゅう』を1972年9月に創刊した。グループが共通して抱える課題や、グループで共有すべき関心事にかかわる特集形式の編集とした。

また、グループ共通のスローガンを制定することになった。開発、交通、流通、観光サービスという三角錐体の4事業分野で事業を展開しながら、その総合力をもって地域開発を進めていく東急グループの姿勢を示す言葉は何かが、大いに議論された。ここで着目されたのが「人間」というキーワードである。

経済成長を第一に掲げてきた時代を経て、人間性の回帰、人間としての幸福が再認識されるなかで、これらの実現に貢献していく東急グループでありたい、との願いを込めた表現とすることが共通認識として形成された。そして東急グループ共通の総合スローガンを「人間の豊かさを求めるヒューマナイザー 東急グループ」に決定。交通、開発、流通、健康産業、以上4事業グループごとのスローガンとグループカラー(橙、緑、青、黄)も決定した。なお、健康産業グループは当社では観光サービス事業に相当したが、東急グループとして広い概念で捉える必要があると判断して、健康産業という事業グループ名称とした。

スローガンの制定と併せて、東急グループの統一マークを制定することとし、1972年9月以降、東急エージェンシーから提案された複数案について検討を行ったうえで、東急広報委員会として最終案を決定。1973年4月に開催された社長会で正式決定され、同年5月1日に使用を開始した。またこれに併せて、当社の創立記念日を目黒蒲田電鉄の設立日である9月2日に改め、それまで当社の創立記念日としていた5月1日(東京急行電鉄への商号変更日)を「東急グループの日」と定めた。

図4-10-1 東急グループの統一マーク

この統一マークは三角錐体をデザインしたもので、中央の三角形が三角錐体の1面をなすと同時に、「東急」の頭文字「T」を表し、他の3面がこれを支えることを意味している。1973年9月からは東急グループの全社員が、統一マークの社員章(バッジ)をつけることとした。当社では統一マークを各社の社紋として採用するよう促し、1974年夏の時点で、関連会社の内約7割が統一マークを使用した社紋に変更、傘下会社では約4割がこれを使用した。今でいう「グループ経営」の一端として、広報委員会による対外パブリシティの統一実施、スローガンや統一マークの制定は、資本的な結びつきの変革に先行して進むこととなった。

当社創立記念日の改正、『東京急行電鉄50年史』とグループ誌『とうきゅう』の創刊、そしてグループ統一マークの制定などは、1972年の東急グループ創立50周年事業という位置づけと共に実施された。

4-10-1-3 定年延長と資格制度の導入

当社は1976(昭和51)年3月、定年を従来の56歳から57歳に引き上げると共に、本人の希望があれば定年後60歳までの雇用を確保する再雇用制度を導入した。

定年延長に絡んで退職金制度も改正された。総人件費に占める退職金の割合は、1973年実績6%に対して、1985年には16%に上昇すると推計されており、給与、賞与、福利厚生費など他の人件費項目を圧迫する懸念があった。これは、春闘による賃上げ額が退職金を計算する際のベース(退職金算定基礎給)に100%反映されていたためであり、私鉄は他産業と比べても高い水準にあった。この改正では水準を67%に引き下げ、退職金算定基礎給に反映しないものは通常の基本給とは分けて支給することとした。これが第二基本給である。また、一連の改正のなかでは功労金制度を新設し、勤続15年以上の定年退職者と勤続25年以上の自己都合退職者に対して功労金を支給することとした。

人事賃金制度については1977年4月、従来もあった職群制度に加えて新たに資格制度を導入し、職群と資格の両面での人事管理とした。背景には、職群によって定員が決まっているため管理職ポストが固定化し、上位が詰まっているために昇進ができず、社員間に不公平感を招きかねない状況があった。これを是正するために、7つの職群に対応する8つの資格を新たに設け、賃金や賞与は職群ではなく、資格により配分が決まる仕組みとした。新制度では、上位の職群に空きがなくても上位職と同等の職務遂行能力があると認める者は昇格させ、賃金面で相応に処遇することが可能となった。

なおこの時期の参事以上の管理職の人事制度については、参事・副参与・参与の職群に沿って賃金が決定していたと思われるが、資料が失われているために詳細は判明していない。

図4-10-2 職群と資格の対応関係
出典:『清和』1977年7月号

1970年代は社会情勢による影響もあり、賃金や臨時給(賞与)が大きく伸びた時期でもあった。なお、この間の労働組合の賃上げ要求に伴う春闘の私鉄大手中央集団交渉では、1972年と1973年を除き、いずれの年も労働組合がストライキを決行した。

また当社ではこれまで現金あるいは小切手で手渡しにより行われていた給与支給について、1979年10月から銀行振込による支給を開始した。

■その他の出来事(1970年~1979年)

1979年10月1日 本社 ビル電話(ダイヤルイン)導入

本社および新南平台東急ビル分室(交通事業本部)が対象。以前は社外からの電話をまず交換台が代表して受け、各部門の内線電話につなげていたが、導入により、社内各部門の電話はすべて固有番号を持ち、交換台を通さない直通電話が可能になった。

1979年8月1日 遺児育英年金制度 導入

在職中に死亡するなどした社員の子の育英扶助を目的に、年金を月額で支給するもので、1979年12月1日に遺児育英年金規程を制定、1979年8月1日にさかのぼって実施した。

4-10-1-4 [コラム]東急グループ社員の交流に向けた取り組み

社員と家族を対象とした家族慰安会開催の歴史は戦前にさかのぼることができる。1936(昭和11)年11月にはすでに家族慰安会の名前で開催された記録があり、東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄の両社合同で、開業したばかりの東横映画劇場(渋谷道玄坂、現在は渋東シネタワーが所在する場所)を主会場に行われた。

1968年からは、当社および関連会社数社に限定していた参加会社を11社に拡大し、新たに第1回「東急グループ社員家族慰安会」として開催することとなった。第1回は会場を日本武道館とし、2日間にわたって開催。お茶の間でおなじみの人気歌手やコメディアンも出演する一大イベントとなった。

第2回は東京体育館に会場を移して、開催期間を4日間にするなど規模を広げ、以降東急グループの毎年4月の恒例行事として定着した。毎回カラーテレビやステレオ、海外旅行といった豪華景品が当たる抽選会を実施して好評を博した。

また1972年からは「東急グループ競技大会」と称して、各社対抗で競い合うスポーツ大会も開催された。社員家族慰安会と同様に参加会社の門戸を大幅に広げ、野球、ゴルフ、卓球、テニスなど約10の種目で熱戦が繰り広げられた。グループ社員間で覇を競いながらも、親睦を深める毎年秋の恒例行事であった。

福利厚生や社員同士の親睦会の域を超えて、このような大規模な催しが毎年開催されるに至った経緯は何であろうか。先にも述べたが、当社では戦前から社員家族を対象とした家族慰安会を開くなど、組織内の交流に努めてきた歴史がある。社内報『清和』では毎年大きくこれらを取り上げ、会の目的が社員および社員を日々支える家族の労をねぎらうこと、グループの一体化をより深めることであると記していた。

1984年の慰安会実行委員会の責任者は、

グループの結束が望まれている今日、日々社員を陰ながら支える家族の労をねぎらい、社員の明日への活力を促すこの慰安会は、福利厚生の面からいっても積極的に行うべきである。また家族ぐるみでグループ連帯感を図る意義は大きい。

とグループ誌『とうきゅう』1984年5月号にコメントしている。

この「東急グループ社員家族慰安会」と「東急グループ競技大会」は形を変えながらも共に1999(平成11)年まで続けられた。

表4-10-1 東急グループ社員家族慰安会の変遷(開催年、会場、出演者、参加会社数、参加人数)
注:社内資料をもとに作成
第2回「東急グループ社員家族慰安会」東京体育館は多くの社員・家族でにぎわった

4-10-1-5 [コラム]東急グループ合同入社式

東急グループ合同入社式の始まりを特定することは難しいが、『清和』1964年4月号に、東急文化会館パンテオンで「東急事業団7社1法人、約1000人で合同入社式が行われた」と記載があるため、この1964(昭和39)年が最初であると思われる。

この合同入社式では、当社社長、会長がグループの新入社員にさまざまなメッセージを送っている。五島昇社長は新入社員へ向けて次のように語っている。

東急グループの各事業は人の和によって動き、各人の勤労意欲によって支えられている。今日こうしてみなさんが一緒に入社したことは何かの縁で一つの同志的結合である。この同期生という結合は会社を退職するまで続くものなので、連帯感を強めてほしい。東急グループの職制が縦の糸とすれば、この同志的結合は横の糸である。りっぱな織物は縦の糸と横の糸がしっかりと結合して初めてできるものだ。横のつながりを強化すれば今後みなさんの人生に大きなプラスとなるはずである(『清和』1965年8月号)

また社会人としての自覚を持たせるために次のような訓示も述べている。

諸君に支払う生涯賃金を計算すると約4億5千万円になる。東横線の8両編成の電車の購入価格は約6億5千万円という金額よりちょっと低いくらいです。東急インは建設費が約15億円かかる。15億円とは、3人の社員を採用した場合に会社が支払う生涯賃金に相当する金額だ(『清和』1982年4月号)

機械を買うとなると、重役会にかけて社長が印を押すまで、それはたいへんなことだ。だから、諸君が夢だけを追っているようでは、会社はもたない。諸君はこれをこれから一つ一つ仕事を確実にこなす歯車になってほしい。そして組織を盛り立てていってもらいたい(『清和』1976年4月号)

東急グループを一つにつなげる象徴とも言える「東急グループ合同入社式」は約60年の時を経て現在に至り、なお毎年行われている。

4-10-1-6 [コラム]東急グループ新入社員合同研修

「グループ合同入社式を延長した合同新人社員教育をやってみたい」。五島昇社長の言葉が社内報『清和』に掲載されている。

各社ごとに社風も違い、新人に求めることは異なるが、この合同教育期間中に『東急マン』として基本や身につけるべきことをじっくり教え込み、東急グループの同期生として5年、10年後に気軽に情報交換ができるような土台づくりをしたい(『清和』1972年4月号)

という思いからだった。

それから3年後の1975(昭和50)年6月に、第1回の新入社員合同研修が行われた。新規大学卒業の男子社員(5社186人)を対象に、4泊5日、新鹿沢東急オートキャンプサイトで開催された。参加した研修生は「他社の同期の仲間に会えてよかった。東急グループについても今まで知らなかった知識を得ることができた」と感想を語っている。そののち、毎年開催され、伊豆稲取キャンプ村、裏磐梯国民休暇村キャンプ場へと場所を移していった。最後の開催となった1997(平成9)年の第23回には、24社約400人が参加した。その時に参加した社員は約25年経過した現在も「その時の仲間と連絡を取って、今でも会っている」と話している。

なお、当社では大学卒(現在の総合職)新入社員を対象に、1963年から「全寮制教育」を行っている。鉄道駅などでの研修と並行しながら、入社後ほぼ1年間を上野毛の慎独寮で集団生活を送るもので、とくに木曜講座と呼ばれる毎週木曜日の夜に新入社員が一堂に会する場では、業務に関する講義のほか、グループワークでの自主研究と成果発表などの内容もあり、現在も続く伝統あるものとなっている。

東急100年史トップへ