第4章 第2節 第6項 駅業務の近代化・サービス化

4-2-6-1 3駅を先行モデルに出札業務を自動化

改めて見ると、当社の鉄道業、とくに駅務合理化は、長い経緯をたどっている。

社内報『清和』1970(昭和45)年2月号に、当時の副社長と鉄道本課・現業メンバーの座談会が掲載されている。そこでは、「東急の社員一人当たりの売り上げ(運賃収入)が、昔はトップだったものが、今は小田急や京王よりも低い。これはなぜか。一つは運賃の問題。もう一つは沿線が『(観光地も持たず開発余地も乏しく)飽和状態であること』という問題意識と共に、『労働集約型産業を装置型産業に置き換える』『少数精鋭、高収入のために今後も機械化を推進する』」などの基本的な戦略とその必要性が示されていた。

また、『清和』1971年3月号に掲載の「自動化」についての座談会では、駅においては、人間の労働を単に機械に乗せ換えるだけではなく、最終的には「機械にできることは機械に任せ」「駅にはサービス係を2名置くだけ」という型の、駅務の完全「自動化」に達する構想が語られていた。さらに、運転関係での自動化については、定位置停車装置を備えた列車によるワンマン運転にとどまらず、将来の無人運転までも展望するものであった。

このような背景のなか、当社では1970年を始期とする「駅業務近代化五か年計画」を策定した。その内容は、駅業務全般にわたる根本的な見直しであり、鉄道の券簿(経理帳票)の締め切り間隔の変更などの後方業務に至るまで、徹底した合理化を図るものであった。具体的には、普通乗車券の自動化のほか、①定期券発行の機械化 ②定期発売駅の集約化 ③小駅の早朝深夜の無人化 ④改札のワンチェック方式(時間帯により入場時の乗車券類確認を行わない)の採用 ⑤精算・一時預かり・両替などの各業務の機械化 ⑥世田谷線駅業務の委託 ⑦勤務の交番表採用による日勤化、などが進められることとなった。5か年計画初年度には、東横線の3駅(祐天寺、学芸大学、桜木町)も自動化モデル駅に選定し、先行して成果を示しながら、他の駅へと横展開を図っていく方法をとった。

普通乗車券の自動化については、まず自動改札機にも対応できるエンコード券(磁気情報を付加した乗車券)を販売する自動券売機の導入を先行させた。1971年2月にモデル駅3駅に設置し、種々の故障への対処をしつつ、改良を繰り返しながら、券売機の設置を順次拡大。1972年8月には鉄道線全駅に普通乗車券の自動券売機を設置した。

学芸大学駅に設置された自動券売機
定期券発行の機械化(元住吉駅)(1974年5月)

定期券発行の機械化については、モデル駅3駅にオフライン式の定期券発行機を設置してテスト運用を開始、機械本体の技術改良と通信インフラの整備により、1974年6月にはオンライン式の発行機を合計8台設置した。これは各駅の端末機(定期券発行機)とホストコンピュータを電電公社の回線でつなぎ、複雑な運賃計算をホストコンピュータが代行する方式である。これによってスピーディな定期券発行作業が実現、同時に発売データ作成などの後方業務が簡素化できることとなった。さらに大半の駅で行っていた定期券発行を、1976年7月から主要18駅に集約し、ここに最新鋭の端末機を21台設置することで、定期券発行業務も100%機械化を図った。

4-2-6-2 改集札業務の自動化

自動改札機の導入は、阪急電鉄をはじめ関西大手民鉄で1960年代後半から大きな進展を見せていたが、関東民鉄では全面導入まで歳月を要した。関東では、他社との連絡運輸の比重が高く、他社が発売する乗車券のエンコード化が進まなければ、自動改札機での出場はできず、十分な導入効果が得られないためであった。

磁気乗車券類の標準規格策定、同業各社との調整などのため、当社は日本鉄道サイバネティクス協議会(※)の自動改札研究部会に参画する一方、社内では1969(昭和44)年秋に運輸部を中心に電算室・経理・電気・車両の各部で専門委員会を立ち上げ、自動出改札の研究を行っていた。

  • 全国の国鉄、民鉄の連絡運輸の円滑化、出改札システムの標準化、規格化などを推進する組織
自動改札機が設置された武蔵小杉駅

その後当社は、1971年2月にモデル3駅に自動改札機をテスト導入、さらに都立大学駅がモデル駅に追加され、1974年6月には新たに7駅でも導入された。1977年には計11駅で自動改札機58台が稼働していた。

また自動券売機の設置拡大に伴って硬貨への両替業務が新たに発生していたが、1974年からは順次両替機を設置。乗り越し精算業務についても、渋谷駅を手始めに機械化を進めた。

5か年計画では、これらのほか、従来の業界の常識を覆し、費用対効果に着目し当時としては画期的な合理化を次々と進めた。1976年より早朝深夜の駅の無人化(代官山、東白楽、高島町、下神明、北千束、緑が丘、九品仏、上野毛、梶が谷、洗足、沼部、洗足池、千鳥町の13駅)、ワンチェック方式の採用(中目黒、田園調布、綱島、大岡山、不動前、池上の6駅)などを実施。また、駅業務の一つであった旅客の携行品一時預かり業務に代えてコインロッカーを設置し、世田谷線では1976年5月、起終点の三軒茶屋駅と下高井戸駅で、改札を主体とした駅業務を東急グループの財団法人東急弘潤会に委託した。

こうしたさまざまな施策の実施を経て、1977年4月、新玉川線の開業に合わせて東急線全線において管内の再編(駅長所在駅の再編)が行われ、これまで25駅管内(渋谷、中目黒、祐天寺、田園調布、元住吉、日吉、菊名、桜木町、目黒、武蔵小山、奥沢、下丸子、蒲田、大井町、荏原町、大岡山、自由が丘、二子玉川園、溝の口、鷺沼、長津田、五反田、旗の台、雪が谷大塚、池上)であったのが16駅管内(渋谷<東横線>、中目黒、日吉、菊名、横浜、目黒、田園調布、渋谷<新玉川線>、二子玉川、鷺沼、長津田、大井町、自由が丘、五反田、蒲田、雪が谷大塚)に再編された。

4-2-6-3 接客サービスの最前線になり始めた「駅」

現業の働き方を根本的に変える変革が、1976(昭和51)年度下期に行われた駅務員の日勤化である(一部の共同使用駅を除く)。長らく「隔勤」と呼ばれる勤務形態(泊まり明け24時間勤務)が続いていたが、日勤化によって勤務時間7時間20分の交番制になり、早番、遅番、日勤を組み合わせた勤務体制は、大幅な要員(定数)削減と共に、駅務員の働き方を大きく変化させるものとなった。この時期にこの改革を行ったことが、新玉川線の開業にあたり新たに必要となる要員を配置転換などでほぼ賄うなど、鉄道事業の生産性向上に大きく寄与したばかりでなく、こののちの週休二日制、総実労働時間の削減など、労働環境改善への布石となったとみることができる。

そして多くの駅業務が機械に置き換わったことで、駅務員は、一人で何役もこなす多機能職へ変化していく時代となったのである。

渋谷駅に設置された案内所

駅務自動化、機械化と同時に、「人がやる業務」の高度化についてさまざまな試行があったのもこの時期の特徴である。端的な例は駅案内所の設置であった。1967年4月には渋谷駅案内所を開設していたが、その後は自由が丘駅にも設置、定期券や回数券、航空券の販売、宿泊施設の手配など旅行斡旋業を行って鉄道事業の増収に寄与していた。そこで駅業務自動化が一段落した主要駅にも「オープンカウンター」と呼ばれる案内所を設置して、まずは定期券や回数券の販売を行うこととした。

菊名駅に設置された「オープンカウンター」

また菊名駅では、駅構内に「キュート」の店名で喫茶店とギフトショップを1976年4月に開業した。これまでも駅構内の一部を業者に賃貸してテナントとして営業する事例はあったが、菊名駅の「キュート」は当社鉄道部門の直営で、駅務員が店内での接客サービスを担当し、売上を鉄道収入と一緒に計上した点が、従来とは異なる点である。駅業務の省人化が進むなか、駅務員の職域拡大と共に、多くの人々が行き交う「駅」という場所について、前出の『清和』1970年2月号掲載の座談会では鉄道本課の社員から次のような問題提起が行われている。

鉄道業の運命は、すべて運賃ににぎられています。運賃に頼っている以上は、いまのワクから出て企業の発展をのぞむことは難しいと思います。そこで、この省力化のチャンスを利用して、運賃以外から利益をあげることを考えるべきではないか。(中略)地域社会に密着した駅の特性を利用して(中略)販売手数料を稼ぐ、あるいは情報を売るなどして、利益を追求していったらどうか。そこに新しい時代の鉄道経営が成り立つのではないでしょうか。

渋谷駅のホーム上に開店した「キュート渋谷店」

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