第4章 第4節 第3項 マスタープランの見直し

4-4-3-1 「アミニティプラン多摩田園都市」の策定

土地区画整理事業が進むなか、全体構想の見直しが図られた。

『多摩田園都市 開発35年の記録』によると五島昇社長は以下のように発言している。

多摩田園都市の開発を決意してから今年(昭和48年)で20年になる。(中略)当初、多摩田園都市が掲げた青写真は区画も大きく、太陽と緑が豊富な、まさに“人間の豊かさを求める”東急グループが手がけるにふさわしい内容のものであった。ところがこの2、3年に完成した現地を見ると、羊頭狗肉とまではいわないが、どうも青写真と違った街づくりが生まれているようだ。このまま惰性で事業を進めていったならば、デベロッパー東急が世に問うには気のひける街づくりになってしまうおそれがある。(中略)ここで開発プランを再検討して、最後の仕上げにかからなければ、東急は100年の恥を残すことになろう。

かつての田園都市株式会社で渋沢栄一は、理想的な街づくりを標榜して一区画100坪以下の分譲を禁じ、これが田園調布など高級住宅街の風格を形成してきた。五島昇社長も同様の方針をとっていたが、一方では早期の投資回収のため、小規模宅地の容認、住宅公団への土地の売却や、企業社宅など集合住宅の誘致を積極的に行っていたのも事実であった。この状況を改めて俯瞰した五島昇社長は「宅地の狭小化や住環境の悪化など、現実には当初の計画とはかけ離れた街づくりが進められている」ことを憂慮したのである。

このため当社は1973(昭和48)年1月、開発事業本部にプロジェクトチームを編成し、街づくりの見直しに着手した。そして、多摩田園都市の北側の多摩ニュータウン計画や南東側に隣接する港北ニュータウン計画も含めた周辺地域の状況分析や、土地区画整理事業を終えたのちの街づくりの進捗状況、住民から寄せられている要望や人々の価値観の変化などを総合的に勘案し、目標を「快適性の実現」に置いた提案が同年にまとめられた。これが「アミニティプラン多摩田園都市」である。

具体的には、「ショッピングセンターをはじめ、行政などの出張所、スポーツ施設といった都市サービス施設の整備」、「緑化の推進」、「バス路線の体系化」、「学校の整備や誘致」、「高水準住宅の供給」を行うことで快適な都市生活を実現し、開発地域の質的向上を図ろうというものであった。

サービス施設の整備にあたっては、鷺沼、たまプラーザ、青葉台の3駅が主要拠点と位置づけられた。最も先行したのが鷺沼で、1978年9月に東急鷺沼ビルを竣工させて、ここに東急ストアのショッピングセンター「さぎ沼とうきゅう」が開業(後述)。たまプラーザでもショッピングセンターの建設を計画し、1982年に「たまプラーザ東急SC」として開業することとなる(第5章で後述)。

学校については、前述の宅地開発要綱の趣旨に応じて用地を提供したほか、私立学校の誘致にも努め、1978年に森村学園が横浜市緑区長津田町に、東京女学館短期大学が町田市鶴間にそれぞれ開校した。緑化の推進については、開発の過程で緑の喪失が生じてきたことを踏まえ、土地区画整理事業において街路樹の整備に努めたほか、施設計画にあたっても緑化を盛り込むこととした。

4-4-3-2 ビジネスモデルの転換を模索

これまで当社は土地分譲を主体としてきたが、1973(昭和48)年度から建売住宅を主体とする方向に転換した。これは、①土地分譲に伴う環境問題の発生を防止し、よりよい街づくりをめざす ②住宅業に進出した東急不動産を支援する ③「付加価値」(建物収益)を求める などの理由からである。

ここで、東急不動産の住宅事業への進出について触れておく。東急不動産創立20周年史『街づくり五十年』(1973年刊行)の記述によれば、次のような経緯であった。

東急不動産では1969年、(中略)東急ホームの量産システムの研究および住宅建設工業化の研究をはじめた。(中略)土地自体を取り巻く規制の強化とともに、企業の体質改善と収益構造の多様化を積極的に進めていく必要があり、五島昇社長は、1971年末に「住宅産業の分野で確固たる地位を確立せよ」と指示した。これに基づき住宅分野を当社の中核事業のひとつに拡充するため、1972年4月、田園都市部住宅センターを住宅部として独立させ、住宅事業に本格的に取り組むべき社内体制を確立した。(中略)住宅部の使命は、木造住宅「東急ホーム」の拡大と、将来の発展のための長期的展望に立った「量産住宅」の事業化を積極的に推進することである。

東急不動産の住宅事業進出の動きに、当社の戸建販売事業は、同社と提携した立替建売と、当社自前の建売住宅の2本立てで行うこととなった。

立替建売は、東急不動産が当社の分譲地に住宅を建築し、土地と建物の売主を異にして行う建売住宅のことで、住宅建築に伴う費用のいっさいを東急不動産が立て替えることから立替建売と呼称された。

当社はまず成合地区を手始めに元石川第二地区、上谷本第一地区、大和市北部第一地区などで合計475戸の立替建売を実施。1973年度中の分譲数773区画中、61.4%を立替建売が占めた。第一次オイルショックに伴う景気低迷で一時的に土地分譲主体に戻った時期はあったものの、1977年度以降は建売住宅が定着。1979年度には分譲数186区画中、立替建売が160戸で86%を占めた。

美しが丘グリーンタウンの建売住宅
外構をレンガで統一した小黒地区建売住宅

当社自前の建売住宅は、元石川第二地区で、美しが丘グリーンタウン67戸を1974年に販売開始したのが皮切りである。いずれも豊かな植栽を施し、この環境を維持するため全区画について建築協定を行った。1977年度以降は土橋、あざみ野、もみの木台、虹ヶ丘、小黒などでも建売住宅の販売を行い、1980年度時点の累計供給戸数は699戸に達した。

一方、集合住宅の分譲については、横浜市が1973年2月に「マンション等集合住宅建設にかかる指導要領」を施行し、マンションの新規建設に規制を強めた影響により、川崎市域の第1ブロックを中心に進むこととなった。1973〜1980年度の当社社有地利用による集合住宅の建設は合計24件1098戸で、この内20件858戸が川崎市域であった。なかでも大規模物件だったのは、1978年に販売を開始した宮前平アベリアで、全戸が3LDK、南向き、5階建て4棟からなる全140戸のマンションであった。

当社が地元土地所有者の土地を対象に行ってきた地上権対価方式や一括賃貸方式による集合住宅の建設は1970年代に入ってから終息した。この手法が用いられなくなったのは、①建設希望者が一巡したこと ②地元土地所有者が農業に代わる収益基盤を確立したこと ③地上権対価方式(等価交換方式)よりも自らの借入金によって建設した方が税務対策上は得策であったこと ④一括賃貸方式は当社が建築主として申請するため、公共公益負担(道路・公園・学校など公益的な用途のために土地の一部を拠出すること)が重くなる傾向があったこと の4点が理由として挙げられる。

しかし、そののちも賃貸建物(住宅および店舗併用住宅)の建設を希望する地元地権者の相談に乗り、総合管理方式による賃貸建物の建設を支援した。当社がテナント探しから建物の企画、業者の斡旋および保証人の引受に至るまで、一貫して対応する点では一括賃貸方式に似ているが、最大の違いは、当社ではなく地元地権者が建築主となる点である。この総合管理方式による賃貸建物の建設は、店舗付き集合住宅8件、住居のみの集合住宅6件など、1979年までの間に合計17件を数えた。

4-4-3-3 [コラム]地域住民に苗木をプレゼント ー「東急グリーニング運動」の始まり

苗木プレゼント(青葉台サービスセンター、1972年11月)

多摩田園都市の開発において、多くの山林を切り開き、緑の減少を招いてきたのは紛れもない事実である。これについて当社は、開発の進展と並行して自然を回復させる方法を見出さなければならないとの認識に立ち、開発地域の住民を対象に苗木プレゼント(無料配布)を開始した。

1回目の苗木プレゼントは1972(昭和47)年4月、鷺沼、たまプラーザ、青葉台の各駅前広場で行った。ゲッケイジュ、モクセイ、ツバキなど合計2485本の苗木を用意。当日は配布開始と共に長蛇の列ができた。2回目は同年11月、当社の創立50周年記念事業の一環で、「東急グリーニング運動」として実施。渋谷の宮下公園で植樹祭を行ったほか、多摩田園都市では、藤が丘一号公園、宮崎三号公園に900本の植樹、地域内の公立学校への苗木寄贈、鷺沼と青葉台の駅前での合計2000本の苗木プレゼントを行った。

自宅で庭木を育てたいと考える地域住民からの反響は大きく、その後約40年にわたり「東急グリーニング運動」は毎年春秋の恒例行事として親しまれ、累計22万3000本の苗木を配布した。

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