第4章 第4節 第4項 沿線住民サービスの向上への取り組み

4-4-4-1 「さぎ沼とうきゅう」のオープンと商業施設の充実

人口増加の続く多摩田園都市の質的向上を図るうえで喫緊の課題となっていたのが、商業施設の不足である。

1960年代は、開発の進捗に合わせて東光ストア(現、東急ストア)と、東急百貨店の関連会社であるフードマートとホームマート(のちの東急バラエティストア)が出店していた。東光ストアは東光ストア野川売店として出店したのを皮切りに恩田、元石川、鷺沼、つくし野に開業、フードマートとホームマートは東光フードマート、東光ホームマートの名称で青葉台・藤が丘・たまプラーザの各ショッピングセンターに出店したほか、集合住宅の1〜2階に店舗を構えてきた。両社共食料品を中心に日用品も取り扱っていたが、これらは当初、赤字続きで品揃えも最小限度にとどまっていた。

1970年代に入ると地域人口の増加により、これらの店舗の経営状況は好転したが、住民からは、地元の個人商店も含めて、「店舗が狭い」、「品揃えが少ない」、「値段が高い」といった指摘を受けるようになった。地元ミニコミ誌によるアンケート調査(1972〈昭和47〉年6月)や、当社が野村総合研究所に委託したアンケート調査(1974年10月)でも商業施設への不満が大きいことが浮き彫りとなり、多くの住民が玉川髙島屋ショッピングセンター(1969年開店)、サンコー長津田ショッピングワールド(1970年開店、のちのマルエツ長津田店)のような、中大型のショッピング施設を望んでいることが明らかとなった。

当社では「アミニティプラン多摩田園都市」策定後、集合住宅の建設を担ってきた不動産開発部が商業施設開発を進めることとなり、1974年9月、鷺沼ショッピングセンター(仮称)の建設計画を公表した。計画の公表は、1974年3月に施行された大規模小売店舗法(以下、大店法)に従って、地元との協議に備えたものであった。

大店法は旧百貨店法に代わって施行された法律で、一定の店舗面積(6大都市で3000㎡以上、1978年の改正以降は全国一律500㎡以上)を有する大型小売店の出店にあたって、開発事業者に既設小売業者との事前調整が義務づけられた。当社は出店予定者の東急ストアと共に、地元住民や商店会との協議を重ね、おのおのからの要望を受け止めたうえで、協定書を締結し、大型店出店の届出を行った。1977年4月に川崎市商工会議所の商業活動調整協議会から承認を受けた。

開業当日の「さぎ沼とうきゅう」(1978年)

一連の手続きを終えた当社は、東急鷺沼ビルの建設と東急ストアへの一括賃貸を決定。東急建設により建築工事が行われ、1978年9月に竣工した。同ビルは4階建てで延床面積は1万9270㎡。施設名称を「さぎ沼とうきゅう」とし、売場構成は1階が総合食料品と家庭用品、2階が婦人服、3階が紳士服と子供服、4階がリビング用品で、テナントとして東急ストアのほか50の専門店が出店することが決まった。同月21日に開業し、開店前から買い物客の行列がビルの周囲を取り囲むほどのにぎわいを見せ、待ちに待った大型商業施設の誕生となった。開業初年度の売上高は、目標を30%も上回る約80億円を記録した。

開業当初の「宮前平ショッピングパーク」

1978年10月には土橋・宮崎地区の住宅街に「宮前平ショッピングパーク」が開業した。2階建て4棟からなる商業施設で、スーパーマーケットとして東急バラエティストアが出店したほか、レストラン、専門店、銀行店舗で構成された。

また、1979年6月には「つきみ野ショッピングプラザ」が開業した。当社と東急不動産の共同による住宅も含めた駅周辺開発の一環で計画された商業施設である。ショッピング施設はスーパーマーケットと戸割店舗からなり、東急ストアが出店、戸割店舗には東急百貨店の関連会社である東横食品工業が展開するベーカリー「サンジェルマン」のほか、美容室、喫茶店、衣料品店、家電販売店などがテナントとして入居。同年10月にはスポーツ施設として「東急スポーツクラブつきみ野」が併設された。

「つきみ野ショッピングプラザ」と周辺の集合住宅

4-4-4-2 [コラム]東急バラエティストア

新しい住民が増えれば食料品や日用品のニーズが高まる。そこで、株式会社東横(現、東急百貨店)は一般的なスーパーマーケットではなく、多摩田園都市の新しい住民に求められるようなものを提供しようと、田園都市線溝の口~長津田間の開通に合わせ、1966(昭和41)年6月に食料品を扱うフードマートを設立し、7月10日に青葉台駅高架下に1号店として「東光フードマート青葉台店」を開店した。店舗の狙いは、鮮魚や精肉、野菜などのとにかく新鮮で質のよいものが“地元で手に入る”こと。毎日早朝から従業員が魚市場や青果市場に行き、吟味をして仕入れ、卵や牛乳も鮮度第一に近隣から調達するといったこだわりようであった。狙いは的中し大繁盛した。

そして、1967年には日用雑貨を扱うホームマートを設立。同年7月15日に当社が開設した「藤が丘ショッピングセンター」に「東光フードマート」、「東光ホームマート」を開店した。

その後も両社は、田園都市線沿線を中心に取扱商品・店舗を拡大。1976年10月には東急バラエティストアとして一元化し、食料、衣料、家具・家庭用品を三本柱とする店づくりを進めていった。一元化時の店舗は、青葉台店、桜台店、藤が丘店、しらとり台店、市が尾店、たまプラーザ店、江田店、日吉店と、東急のれん街(渋谷東急プラザ地下)、東急家具センター(立川)の10店舗であり、最盛期には13店舗となった。

なお、「東急バラエティストア」は「たまプラーザ東急SC」(1982年開業、後述)の核テナント「たまプラーザ東急百貨店」と1985年12月に合併されることとなる。

  • バラエティストア1号店「東光フードマート青葉台店」開業当日の様子
    出典:東横社内報(1966年8月号)
  • 開店当日、お客さまでいっぱいになる「東光フードマート青葉台店」
    出典:東横社内報(1966年8月号)

4-4-4-3 文化・スポーツ施設の整備

所得の向上や余暇時間の増大に伴って文化やスポーツへの関心が高まりつつあるなか、1970年代に入るころから各種のカルチャー教室やスポーツ教室、テニスコート、ゴルフ練習場、スイミングプールなどの施設が相次いでつくられた。当社も、多摩田園都市の質的向上をめざして文化・スポーツ施設の整備に着手した。

第1号は1975(昭和50)年6月にオープンした「東急藤が丘ビル」である。小売店舗のほか、各種教室や貸会議室、プールやトレーニングジムを備え、地域の人々の交流の場となるコミュニティ施設の要素を持ったビルであった。

藤が丘駅前に完成した「東急藤が丘ビル」

ビル建設の発端となったのは1960年代半ば、下谷本西八朔地区の土地区画整理事業において、開発の記念となるホールの建設や病院の誘致について議論されたことである。そののち、当社不動産開発部が地元の要望を踏まえて、本館とスポーツ館からなる計画を立案し、多摩田園都市開発20周年記念事業の一つとして計画を推進することとなった。本館には交流の場(1階ロビー)、団らんの場(2階喫茶・軽食・店舗)、教育の場(3階各種教室)、集会の場(5階貸会議室)などを、スポーツ館にはプールやスポーツクラブなどを設けて、複合ビルとするユニークな計画であった。

第一次オイルショックに伴う物価高騰を受けて建築工事費が大幅に膨れ上がったため、民間が行う事業としては初めて国から「コミュニティ施設」の認定を受けて、日本開発銀行(現、日本政策投資銀行)から資金を調達し1974年7月に着工した。1975年6月の開業披露には、土地区画整理組合の役員をはじめ関係者約1000人が集まり、施設の完成と多摩田園都市開発20周年を同時に祝った。スポーツ施設の管理運営はセントラルスポーツに委託した。

「嶮山スポーツガーデン」空撮

東急藤が丘ビルに続いて、「嶮山スポーツガーデン」が1978年7月に開業した。同地は土地区画整理事業を進めた嶮山第二地区のなかにあり、総面積8万5578㎡の内大半が地元地権者の所有地である。

嶮山第一・第二および早野の3地区からなる嶮山早野地区は、もともと1977年に新設されたあざみ野駅から西へ約2kmと離れていた。このため当時は宅地開発には適さないと考え、ゴルフ場を主体としたレクリエーション関連の開発を構想。当社はこれを長津田の「こどもの国」とは対の「大人の国」計画と名づけ、1966年から現地での地元地権者からの土地買収を進め、当社社有地化したうえで開発をめざしていた。

しかしすべての地元地権者からの買収が困難であったことに加え、新法としての新たな都市計画法の制定(1968年)により市街化区域に指定されたことなどから、計画を土地区画整理事業に変更した。そして、この3地区の内嶮山第二地区について、「規模は小さくとも当初構想にあったスポーツ施設をつくりたい」との要望があったため、地区内に8.9haのスーパー街区(将来的に大規模でまとまった土地利用を想定して、あえて大きく区切った街区)を設定、当社が事業主体となり、地元地権者の所有地は当社が一括賃借してスポーツ施設を建設することとなった。

嶮山スポーツガーデンはゴルフ練習場(88打席)、9ホールからなるゴルフショートコース、テニスコート(6面)、レストランなども備えたクラブハウス、駐車場を備えたスポーツ施設として開業。この内ゴルフ練習場は当時この地域では最大規模で、ちょうど女性ゴルフ人口が増え始めた時期でもあったことから、週末は3時間待ちになるほどの人気となった。会員制のテニスコートも好評だった。

また、スポーツ施設については、社有地を活用して、多摩川園駅付近に「東急スイミングスクールたまがわ」(1976年4月開業)、二子玉川園駅付近に「東急スイミングスクールふたこ」(1978年7月開業)、たまプラーザ駅前に「東急スイミングスクールたまプラーザ」(1979年4月開業)をそれぞれ開業した。

「東急スイミングスクールたまプラーザ」

4-4-4-4 外食事業への進出

1970年代に入ると、海外資本によるファストフード店の国内チェーン展開が始まり、またファミリーレストランも増加し始めた。

当社でも、多摩田園都市における所有土地の暫定利用として、外食事業に着手した。とくに立地面で優れた駅前の未利用地、通行量の多い道路沿い未利用地の活用方法として、小資本で利益を創出できる外食店舗の展開は、好都合でもあった。

「ケンタッキーフライドチキン青葉台店」

外食事業の第一歩となったのは、多摩田園都市の開発に取り組む田園都市部による出店であった。当社が日本ケンタッキー・フライド・チキン社の仕様で二子玉川園駅前の当社社有地に建築、同社へ建物を賃貸する形で開業した「ケンタッキーフライドチキン(以下、KFC)二子玉川店」(1971〈昭和46〉年開業)で、とんがり帽子のカラフルな屋根をまとったユニークな建物は、名古屋に開店した同社国内1号店(1970年開業)と同様の外観で、関東では初であった。のちに当社が同社のフランチャイジーとなって事業主体となり、1976年12月に開店した「KFC青葉台店」を開店、外食事業を直営で開始した。

駅前一等地に二子玉川店と同様な外観でオープンした同店は、12月11日の開業当日の売上は75万円と予想をはるかに超え、その後も平均40万円程度の売上を維持するなど人気を集めた。1977年4月に「KFCたまプラーザ店」、1979年7月には「KFC市が尾店」を出店した。またハンバーガーチェーンのロッテリアとフランチャイズ契約を結び、1977年7月に「ロッテリア鷺沼店」を開店した。

  • 「東急ジョイガーデン鷺沼店」
  • 「東急ジョイガーデン」店内の様子

KFC各店を中心に順調に売上を伸ばすなかで、当社は1978年9月、外食事業プロジェクトチームを立ち上げ、フランチャイズ方式によらない独自の店舗開発に着手した。同チームは1979年7月に観光サービス事業本部に移管、成長著しいファミリーレストラン業態に照準を合わせて出店することを決定。店舗運営にあたる子会社として、東急ジョイガーデンを設立した。

メニューでの特色を出すべく、東急グループの国内外ホテルでオープニングシェフを務めてきたメンバーがメニュー開発の陣頭指揮を執った。1979年11月に「東急ジョイガーデン」1号店の鷺沼店を、国道246号バイパス沿い(現、宮前郵便局)に開店した。

ファミリーレストランとしては、すかいらーく、ロイヤル(ロイヤルホスト)、デニーズジャパンの大手3社のチェーンが首都圏郊外で店舗展開を加速させており、東急ジョイガーデンは後発であった。同店ではセントラルキッチン方式をとらず、食材は東急グループの食品加工会社などからの調達で賄った。

なお1979年8月には東急グループの食品加工会社2社(中央食品、東横食品工業)と東横食堂の3社合併により東急フーズが設立された。同社は合併前から展開してきたベーカリー「サンジェルマン」、イタリアンレストラン「モンテローザ」、その他レストランや喫茶店などの事業を継承すると共に、東急グループ以外の飲食店や流通店舗への外販にも取り組んだ。

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