第4章の概要(サマリー)

 日本は、1960年代の実質経済成長率が10%前後で推移した結果、1960年代の終わりには米国に次ぐ経済大国となった。国民所得は大きく伸長し、人々は物質的な豊かさを手に入れ、観光・レジャーなど余暇活動にも関心を高め、第3次産業とも呼ばれるサービス業が台頭し始めた。
 1970年代初めまで続いた高度経済成長は、1ドル360円という固定為替相場を背景とした工業製品の輸出拡大や、当時の安価な資源の大量輸入を前提としたものであった。しかし1971(昭和46)年のドルショックにより為替相場が円高に転換、また1973年10月の第四次中東戦争を契機として、湾岸諸国が生産する原油価格の大幅値上げや生産量の削減に伴う第一次オイルショックが起きたことで、経済成長の前提条件は崩れた。1974年は実質経済成長率がマイナスに転じ、そののちは持ち直したものの、1979年初頭には第二次オイルショックが起きる。1970年代の実質経済成長率は約4.5%にとどまって、日本経済は安定成長の時代へ入った。
 当社においてドルショックやオイルショックの影響は随所に現れたが、それにも増して大きな経営環境変化となったのが、公共料金上昇抑制を背景とした運賃改定の遅れと人件費の高騰に伴う1974年度の鉄軌道事業赤字転落、そして1973年以降の新土地税制施行などの土地政策の転換に伴う不動産事業の落ち込みであった。1970年代を迎えた時点で当社は、交通事業と不動産事業が二本柱であり、経営環境悪化への速やかな対処が必要であった。
 こうしたなかで当社は五島昇社長の下で、たびたびの業務組織改正を経ながら関連会社の管掌を強める体制へと移行していき、東急グループ全体で、交通、開発、流通、観光サービスの4事業からなる三角錐体経営を推進。各社との連携による「地域開発」を東急グループの使命とし、沿線外の国内各地へ、さらには海外へと地域開発を進めていった。「東急」「とうきゅう」という呼称を柱とした、一つの企業体のような運営を試みた時代であったともいえる。
 個々の事業別に見ていくと、まず交通事業の中心となる鉄軌道事業においては、多摩田園都市開発の進捗に並走して田園都市線の延伸工事を着々と進めると共に、1977年4月に新玉川線が全線開通した。そののち、新玉川線、田園都市線が営団地下鉄半蔵門線との相互直通乗り入れを開始し、郊外の多摩田園都市と都心部を結ぶ大動脈が実現した。自動車事業は人件費の高騰により恒常的な赤字経営が続いたが、路線バスの空白地帯となっていた地域でデマンド方式を採り入れたミニバス「東急コーチ」の運行を開始、地域住民から好評を得て明るい話題となった。航空事業では、1971年に日本国内航空と東亜航空が合併し発足した東亜国内航空が再び赤字に陥るが、抜本的な経営改革に乗り出したことが功を奏し、1975年度に初めて黒字に転換、国内主要空港を結ぶ幹線のジェット機就航も実現した。
 開発事業では引き続き多摩田園都市の開発を進めたが、急速な人口増加が続いていた地元自治体から道路整備や遊水池、学校用地の提供など公共公益負担を求められて事業費が大幅に膨らみ、大きな転機を迎えた。当社は快適性に軸足を置いたマスタープランを策定して付加価値の高い街づくりを志向した。これにより地域環境の改善に取り組み、喫緊の課題ともなっていた大型商業施設の充実を図ったほか、スポーツ施設を設け、さらに外食事業にも参入した。
 多摩田園都市で培ったノウハウを活用して国内各地の地域開発にも取り組み、北海道札幌市や新潟県新潟市、神奈川県厚木市、愛知県知多市、そして静岡県裾野市でも大規模な宅地造成を行い、「デベロッパー東急」の名を全国に知らしめた。
 1970年代に大きく進展したのが流通事業と観光サービス事業である。まず流通事業では、第一次オイルショックに伴う品不足や物価高騰の影響はあったものの、東急百貨店と東急ストアが共に新規出店を進め、売場面積の拡張と多店舗化による規模的成長を図った。また観光サービス事業では当社直営ホテルとして「東急イン」の展開を開始。国内各地の「東急ホテル」の一元的な経営をめざした東急ホテルチェーン、旅行斡旋業の東急観光も含めて、国内旅行需要の拡大に応えた。
 さらに海外進出が具現化し始めたのも1970年代の大きな動きである。五島昇社長は、グアムを手始めに環太平洋地域の各所にホテルを「点」として設け、いずれは航空路線の「線」で結ぶことで観光を切り口とした海外展開を推進し、さらには「面」への展開につなげていくことを将来的な東急グループの成長の源泉とする考えであった。とくに1972年には、ドルショック後の円切り上げ(1971年12月)と1970年後半から続いていた金融緩和を好機として捉え、ハワイや豪州、北米、太平洋の島で開発用地や現地ホテルを買収、海外への大型投資に打って出た。そして海外ホテルのマネジメントを担うべく、東急ホテルズ・インターナショナルを設立した。
 当社の本拠地である渋谷では、西武(セゾングループ)の商業施設拡充によって公園通りに若者が集まり始め、新たな時代の節目を迎えた。渋谷の活性化を図ることを企図していた当社および東急百貨店は、東急百貨店本店方面にも人の流れを導くため、地元地権者と共同で道玄坂と本店通りに挟まれた三角地帯の再開発に挑み、ここに「ファッションコミュニティ109」を開店。さらに東急不動産は東急百貨店本店と公園通りの中間に取得した土地の有効活用を検討し、新業態の「東急ハンズ渋谷店」を開店した。これらは渋谷の街全体の回遊性を高める役割を果たした。
 一時は交通事業や不動産事業の暗転で先行きが見えない時期はあったものの、運賃値上げや駅業務の効率化、新玉川線の開通などにより交通事業の収支は徐々に好転、東急インの展開も新たに加わったことで、当社の営業収入は1970年代の10年間で約3倍に増加。東急グループの総収入も10年間で約3倍となった。
 その一方で、1970年代には多くの課題も生まれた。その一つは、国の土地政策の転換によって、東急土地開発に起因する膨大な未稼働資産を抱え込んだことである。宅地開発が困難と思われる土地も数多く含まれており、この問題は新設の広域開発本部が処理にあたることとなる。また海外の長期大型投資からいかに収益を生み出すかも、次の時代の懸案事項に残された。

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