第4章 第6節 第2項 東急ストアの拡大政策

4-6-2-1 オイルショックへの対応とショッピングセンターの出店

東光ストアは1969(昭和44)年を初年度とした実行3か年計画に基づき、①首都30km圏内の人口急増地域、②東急線沿線を中心とした地域、③高所得者が住む湘南地区や人口急増の神奈川県中央部、④首都100km圏内および東海地区、の4つのエリアで積極的な店舗展開を図り、1971年末までの3年間で、24店舗を出店した。併せて不採算店のテコ入れや閉鎖を行い、1972年には50店舗体制を構築した。

1973年末の第一次オイルショックは日本経済に大きなインパクトをもたらし、なかでも小売業の現場では、物価高への対応や商品の安定供給が求められた。東光ストアでは、オイルショックの発生直後からキャンペーンや衣料品を中心とするバーゲンを実施、また関東民鉄系のチェーンストア9社に働きかけて、商品の安定供給と良品廉価販売に関する申し合わせを行った。

同社は1972年度~1974年度にかけて、積極的な出店をいったん手控え、従来の拡大政策に伴う企業体質の歪みの是正や財務体質の転換など、体質改善に重点を移した。具体的には、大型店など新設店での早期の利益計上に向けた取り組み、出店用地などの一時転用や売却による資金を活用した既存店の改装や活性化などである。1972年からの3年間で26店舗の改装を実施した一方、新規出店は5店舗にとどめた。

1974年3月には大規模小売店舗法が施行され、新設店出店の可否は地元商業者らで構成する商業活動調整協議会の判断に委ねられることとなった。そのため、各地では大型スーパー進出に伴う紛争がたびたび新聞などで報じられることもあったが、東光ストアは大型店の出店調整がすでに一段落しており、問題が生じることはなかった。また同法により、売場面積1500㎡以上の店舗の営業時間や休業日数についても、地元との調整が必要となった。東光ストアでは17店舗がこれに該当したが、結果として営業時間や年間休業日数の変更を求められる店はなかった。

1976年には売場面積5000㎡前後のショッピングセンターを、いずれも東急線沿線外に5店(調布、厚木、水戸、大和、鎌倉)出店した。なかでも地下1階地上8階建てのビルに開店した水戸店は、売場面積が1万㎡を超える同社最大規模(当時)の店で、従来型の店舗で品揃えの中心となっていた食料品や日用品に加え衣料品や雑貨の商品構成を大幅に拡大、新たに家具売場を設け、家電・電化製品とのコーディネートを提案する趣向も盛り込んだ。他の4店と同様にテナント(58店)を誘致した。

「東光ショッピングセンター」水戸店オープン
「東海東光ショッピングセンター」(1971年1月)

また1969年からは東海地方(愛知県、伊豆半島)や北海道地区の当社やグループ会社の地域開発と連動した出店も進めたほか、1970年には株式会社長崎屋からの要請を受けて、同社のショッピングセンター内に出店することとし、小金井、鶴見など4店を開業した。

4-6-2-2 東光ストアから東急ストアへ

東光ストアは、北海道での多店舗展開をめざし東光ストア完全子会社の北海道東急ストアを1974(昭和49)年7月に設立、同年10月に道内1号店として「東急ストア宮の森店」を出店した。

これは、定鉄商事(1972年設立、出資比率:じょうてつ66.6%、東光ストア33.3%)がすでに展開していた「札幌東光ストア」(のちの札幌東急ストア)とは別の流れであった。結果として東急ストアの名称は本州より先に北海道で使われることとなった。

これに次いで東光ストアは1975年3月に社名を東急ストアに変更した。食料品を中心としたスーパーマーケット店(以下、SM店)の名称を同じく「東急ストア」に改め、名実共に東急グループの一員としての看板を掲げることとなった。

東急ストアへの名称変更を経て、1976年以降は再び出店を加速。同年に大型店を含む4店を出店したほか、日魯(にちろ)漁業(現、マルハニチロ)の関連会社が展開するスーパーマーケット「ジョイマート」の内6店(馬込、松が丘、大谷口、久が原、清水台、目黒西口)を買収した。

1975年度に売上高を1000億円台(営業利益12億3800万円)に乗せた東急ストアは、さらなる企業基盤拡大のため、ゼネラル・マーチャンダイジング・ストア(以下、GMS)の開発を柱とする基本方針を掲げた。具体的には、①衣料品や住文化関連商品の拡大でバランスのとれた経営体質を獲得し、SM店を支えとしてGMS店を積極的に展開する、②SM店とGMS店の両輪で店舗展開を図り、店舗開発と店舗運営にかかわるノウハウを蓄積する、③消費者ニーズを捉えた商品政策で既存店の活性化を導き、SM店では食料品や最寄品の充実により競合店との差別化を図る、④売場面積の拡大が可能な店舗では機を見てその実現に努めること、である。

鷺沼駅から望む「さぎ沼とうきゅう」(1980年)

この方針に基づいて、1977年以降、13店舗で全面改装を実施すると共に、次代の成長を担うGMSとして、多摩田園都市エリアでの当時の象徴的な商業施設とした「さぎ沼とうきゅう」と、都心型GMSの「五反田とうきゅう」開業準備を開始。それぞれ1978年9月と1980年2月にオープンした。

GMS1号店となる「さぎ沼とうきゅう」は、多摩田園都市の開発に合わせて1967年に平屋建て(売場面積373㎡)の鷺沼店として開店したのが始まりで、その後の人口急増に伴って地域住民のニーズには応えられなくなり、大型店の出店を望む声が高まっていた。過去最大規模(延床面積1万9270㎡、売場面積9492㎡)の「さぎ沼とうきゅう」は、多摩田園都市の全域を商圏と捉え、住民の所得や家族構成に合わせた売場づくりを図った。とくにテナントミックスによる幅広く豊富な品揃えは、のちのGMSに先例を示すものとなった。衣料品には、従来のスーパーマーケット業態では取り扱いが難しかった著名ブランドも揃え、近場で「都心の買い物」ができる売場とした。同店は開店3年目の1980年度(42期)に、東急ストアでは初めての年商100億円を達成した。

オープン当日の「五反田とうきゅう」

都心型GMSとしてオープンした「五反田とうきゅう」は、第1章で述べた池上電気鉄道の五反田駅ビルに開店した白木屋の五反田分店をルーツとしている。1957年に東光ストア五反田店となり、以降高い収益性を維持していた。しかし、建物の老朽化が著しいため、1977年にいったん閉鎖し、全面改築により、地下2階・地上8階建てのターミナルビル(東急五反田ビル)に生まれ変わり、東急ストアが当社から一括賃借してオープンした。地下に食品売場、1階に有名店で構成するのれん街を設けてストアイメージの向上を図り、2階以上のフロアでは婦人・紳士用のブランドものを中心とする衣料品などを対面販売、8階は東急ストア関連会社のレストランなどで構成する食堂街とした。売場面積は旧店の約3倍に相当する6446㎡で、開店翌年度には早くも年商100億円を達成した。地元商店街とも協調を図り、五反田界隈の発展に貢献する店づくりとしたのも特徴である。また、これと並行して既存の伊勢原店を拡張し、GMSとして開業した。

この時期(1968年~1979年)の東急ストア(東光ストア)は同業他社との激しい競争環境があったが、店舗の拡大を図り、1978年には75店舗を擁するチェーンストアとなった。

表4-6-4 東急ストア 店舗数と売場面積の推移(1957年~1989年の推移)
注:『東急ストア50年史』をもとに作成
※:46期までの売場面積は「大規模小売店舗法」に基づく面積、47期以降は「大規模小売店舗法」に基づく面積に食堂・喫茶などの兼業事業面積を加算
表4-6-5 東急ストアの出店一覧表(1989年時点)
注:『東急ストアのあゆみ』をもとに作成

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