第4章 第6節 第1項 東急百貨店の拡大政策

4-6-1-1 既存店の拡張と地方進出へ

三角錐体の1面である流通事業は、1970年代に大きく伸張した。グループ誌『とうきゅう』1980(昭和55)年12月号には、東急グループ全体の1980年度の売上1兆6502億円の内、関連会社とその傘下会社を合わせた流通事業の売上が6584億円であったとあり、流通事業が売上の約4割を占めていたことになる。1970年代はドルショックや2度にわたるオイルショックで高度成長の終焉が指摘されたが、流通事業を支える二本柱、東急百貨店および東光ストア(現、東急ストア)は、売場拡大、新規出店などの政策をとり、業績を伸ばした。

東急百貨店は、1967年11月に開業した本店にシースルーエレベーター設置などの増築をし、1970年10月に竣工した。これと同時に東横店は、新築の渋谷駅西口ビルを南館として売場を拡張。これにより日本橋店も含めた3店舗合計の売場面積は過去最大となった。また、日本橋店は正面玄関を人通りの多い日本橋交差点側に移すと共に、外壁を灰色から白色に替えるリニューアルを1972年10月に実施するなど、既存3店の充実を図った。

表4-6-1 東急百貨店本店開店時の売場配置
出典:東急百貨店社内報1967年10月号
増築完成直後の東急百貨店本店(1970年10月)
表4-6-2 東急百貨店 売場面積の推移(1970年代前後)
注:東急百貨店「有価証券報告書」をもとに作成

さらに長野市に出店し、1964年7月から経営指導にあたっていた株式会社ながの丸善を正式に系列下に置き、1970年9月1日付で社名を株式会社ながの東急百貨店に変更した。

ながの丸善は、1958年に設立され、善光寺に近い昭和通りで、2400㎡規模の店構えだった。しかし規模の問題もあって経営は伸び悩み、長野駅前へ進出することで体質改善を図ることとしたが、取引銀行である太陽銀行(現、三井住友銀行)は、経営を都市百貨店に委託することを再出資の条件とした。そこで、東急百貨店に話が持ち込まれた。東急百貨店は検討の末、経営指導にあたることを決定し、専務1人、取締役2人、監査役1人、ほか3人を送り込んだ。1966年11月、ながの丸善は、待望の駅前進出を果たした。1970年時点で売場面積は7768㎡となり、地方百貨店にはない品揃え、店内レイアウトなど、都会のセンスを盛り込んだ同店の売上は順調に伸びた。

ながの東急百貨店(『とうきゅう』1972年1月号)

4-6-1-2 [コラム]サンジェルマン

「サンジェルマン」は、東急百貨店や東急ストアをはじめ、多くの商業施設に出店しているベーカリーである。これを運営している会社はかつて東急百貨店の子会社であった。

「サンジェルマン」の歴史は、1934(昭和9)年10月、東横百貨店の製菓工場として目黒区上目黒に創業したことに始まる。1948年9月に㈱東横食品工業として独立し、東横百貨店の和洋菓子の製造販売を担ってきた。そして、1970年10月、増築リニューアルされた東急百貨店本店に、百貨店では国内初のインストア・ベーカリーと洋菓子の専門店「サンジェルマン」1号店を開業した。手作りによる出来立ての商品が大当たりし、店舗を次々と拡張。1979年にはパンの本場フランス・パリのシャンゼリゼ通りにも出店。1982年に国内外100店舗を、最盛期は140店舗を超えるまでに成長した。

今も昔も看板商品であるのがオリジナル食パンの「エクセルブラン」。冷凍生地は使用せず、粉から生地を仕込んで焼き上げるまで店内で行うというもので、開店当時は業界ではごく一部しか採用されていなかった。現場の職人作業は大変ではあったが、これがお客さまから評判を集め続けることにつながった。

同社の経営は堅調であったが、第7章で後述する東急グループの再編成に伴い、2002(平成14)年に日本たばこ産業㈱(JT)に譲渡された。

「サンジェルマン二子玉川店」(1972年5月)

4-6-1-3 東急百貨店が札幌と吉祥寺に新店

東急百貨店は、長野への進出に続き、沿線外での出店を進め、北海道札幌市と東京都武蔵野市吉祥寺に出店した。

「さっぽろ東急百貨店」オープン

「さっぽろ東急百貨店」(現、東急百貨店さっぽろ店)は、国鉄札幌駅前に竣工したビルのキーテナントとして、1973(昭和48)年10月に開業した。札幌市は人口増加が著しいとはいえ、すでに4社4店舗の百貨店が営業しており、商業激戦地への後発参入であった。それまで市内の商業地域は、業界トップの三越、地元の老舗百貨店である丸井今井と池内の3百貨店を擁する大通公園付近がにぎわいの中心となっており、さっぽろ東急百貨店のある札幌駅南口は老舗百貨店の五番館(のちの札幌西武)がある程度であった。

オープン当時は売場面積が1万5000㎡で、商品構成を衣料品中心に絞っていたが、他の売場も徐々に取り込んで1978年6月には売場面積を2万5432㎡に拡大した。これに伴って売上高は、1974年度124億円から1979年度330億円へと大きく伸張した。1978年、同じ北四条エリアにそごうが新規参入し、商業地として活性化したことも幸いしていた。

「東急百貨店吉祥寺店」は、オリンピックビルからの打診を受けて、同ビルのキーテナントとして出店することを決定、1974年6月に開業した。吉祥寺は、所得水準が高いとされる武蔵野市の玄関口にあたる街で、商業地として再開発が進む途上にあった。駅の北側に市開発公社による公社ビルが1971年11月に竣工し、キーテナントとして伊勢丹が出店、さらに1974年5月、東急百貨店よりも一足早く近鉄百貨店も駅の北東側で開業しており、東急百貨店吉祥寺店は同地の百貨店としては3店目となった。

開業当日の「東急百貨店吉祥寺店」(『とうきゅう』1974年7月号)

吉祥寺店は、地元商店街との協調を重視しながら店づくりに取り組んでいたが、これについてグループ誌『とうきゅう』1974年6月号には、次のような記述がある。

地元商店街も東急百貨店開業によって、いっそうの発展をと全面的な協力体制をつくり、6月20日オープンに合わせて、ダイヤ街商店街ではアーケードを建設、その名を“東急チェリーナード” “東急ローズナード”と命名、すでに改名した東急通り商店街をはじめ、他の商店街とも共同歩調をとり、街ぐるみの商業活動は、他地区の注目を集めているところである。

吉祥寺店は売場面積3万3000㎡と競合他店を上回る規模で、第一次オイルショックの影響が色濃く残る時期のオープンにもかかわらず、開店当初から多くの来店客数と売上を記録した。国鉄中央線で新宿に流れていた買い物客を吉祥寺で吸引することをめざして、都心店と同様の品揃えに努め、中元・歳暮などの贈答品やまとめ買いの需要を取り込むことができたのが好調の要因であった。その後も1975年度261億円、1976年度310億円超と売上を伸ばし、吉祥寺における地域一番店となった。

表4-6-3 東急百貨店店舗別売上高の推移(1969年度〜1981年度)
注:東急百貨店「有価証券報告書」をもとに作成

4-6-1-4 [コラム]北海道での「東急」の知名度不足を補え!

「さっぽろ東急百貨店」(以下、さっぽろ店)が開業した1970年代、北海道では「東急」は馴染みの薄いブランドであった。そこで、さっぽろ店で働く新規採用の社員360人はすべて北海道内で採用し、「私たち北海道育ち。あすから私たちがオープンのごあいさつに伺います」という見出しの全面広告を北海道新聞に掲出した。この広告には、新入社員全員の顔写真をコラージュし、出身地、出身校も紹介したものだった。掲載紙は、新入社員の親戚縁者が多くの部数を買い込み、知人などに配ったため、瞬く間に売り切れとなった。また、この新聞広告の効果として、自分の子供や知人が働く職場を見たいという、道内の各地からの来店客を呼ぶきっかけにもなった。さらに、開店に先立って札幌市内約20万戸にチラシと記念品を宅配。これが話題になり、口コミで「東急」の名が一気に広まっていった。

北海道新聞に掲出した全面広告(1973年8月17日夕刊)

4-6-1-5 [コラム]東急ファミリークラブでファンづくり

東急ファミリークラブ(東急百貨店東横店)

1968(昭和43)年6月、当社により「東急ファミリークラブ」が発足し、会員募集が始まった。当時主要百貨店では「友の会」「サークル」などの名称で顧客の会員組織化に着手していた。東急ファミリークラブは、東急グループの会員組織とし、東急百貨店だけでなく、グループ各社の割引や催物などのサービスを受けられることや、会員の家族なら誰でも特典を利用できるのが特色だった。会員は月々1000円(1976年から2000円)の会費を支払って積み立て、積み立て終了後に積立金を金券(TFCチケット)として戻す仕組みであった。

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