第4章 第8節 第2項 加速する東急グループの海外進出

4-8-2-1 東急ホテルズ・インターナショナルによる海外ホテル展開

前節でも述べたように、1968(昭和43)年以降ホテル事業の海外展開を図っていたが、1972年3月には、東急グループ各社の出資により東急ホテルズ・インターナショナルが設立され、以降同社が海外ホテルチェーンの拡大を担うこととなった。設立時の出資比率は当社40%、東急ホテルチェーン20%、東急観光15%、東急不動産と東急建設がそれぞれ10%、東急百貨店5%の割合で、海外ホテルの展開を突破口に、各関連会社の海外進出の足がかりとする目的も含んだ出資比率となった。

ハワイアン リージェント ホテル全景 ※カラカウアタワー(右手前)とクヒオタワー新館(左奥)

東急ホテルズ・インターナショナルは、すでに開業していたグアム東急ホテル、ソウル東急ホテル、ハワイアン リージェント ホテルの運営(以下、マネジメント)受託業務を引き継いだ(この他に琉球東急ホテルの業務も引き継いだが、沖縄返還後の1973年7月、東急ホテルチェーンの業務受託に変更した)。

これら3ホテルの内、とくに好調に推移したのがハワイアン リージェント ホテルである。同ホテルは1972年2月に開業したホテルで、観光客でにぎわうオアフ島のワイキキビーチに面した絶好のロケーションにあり、東急ホテルズ・インターナショナルの子会社であるリージェント ホテルズ インターナショナル社がマネジメントを受託していた。1972年末に、同ホテルを米国レジャー会社から75億円で取得し、資産保有会社として設立したTHIハワイ社が保有した。1973年8月に東急ホテルズ・インターナショナルへマネジメントを譲渡し、1974年には増築に着手し、33階建てのタワー棟を新設して合計で客室数1346室となった。さらに当社は1973年12月、南太平洋に位置するニューヘブリデス諸島(英仏共同統治領・バヌアツの独立前の呼称)エファテ島ポートビラのホテル ル ラゴンを所有する現地法人を傘下に収めて、東急ホテルズ・インターナショナルが同ホテルのマネジメントを受託した。

東急ホテルズ・インターナショナルは各地のホテルマネジメント受託を拡大し、現地への投資を要する案件については当社海外部が受け持つ体制であった。

開業直後のソウル東急ホテル

グアム、ソウル、ハワイ、ニューヘブリデスと海外に「点」を打ったあと、次の展開を模索したのが東南アジアである。海外進出に意欲的だった当社には、観光収入増による経済発展を志向する国や地域から直接、ないしは商社などを通じてホテル建設やホテルのマネジメント委託にかかわる話が持ち込まれていた。タイ、インドネシア、フィリピンなどである。

バングラデシュの首都ダッカでは、日本政府のODA(政府開発援助)プロジェクトの1つとしてホテルを建設することになり、東急グループは、日本政府代表団の一員として技術支援と経営管理を任された。これにより、1981年にショナルガオン ホテルを開業した。

タイでは、リージェント ホテルズ インターナショナル社(1973年8月からは東急ホテルズ・インターナショナル)が、1971年11月、バンコクに開業したインドラ リージェントホテルのマネジメントを受託していたが、現地資本と連携して新たなホテルをつくることになった。

タイでは外資が50%を超えることができなかったため、現地企業のパタヤ マリーナ ホテル社の増資にあたって、東急ホテルズ・インターナショナルと三菱商事が出資し、共に持株比率20%の資本参加となった。

同社が、リージェント パタヤホテルを建設し、東急ホテルズ・インターナショナルがマネジメント受託して1975年2月に開業した。

インドネシア・ジャカルタのホテル計画は1970年10月に東急ホテルチェーン(のちの東急ホテルズ・インターナショナル)と日商岩井(現、双日)、現地のサリナ百貨店の3社合弁事業で始まり、1976年11月にホテル サリ パシフィック ジャカルタが開業した。

サリ パシフィック ジャカルタ
韓国 慶州東急ホテル

さらに1979年4月には、韓国の国家的観光事業として進められた慶州普門湖リゾートに慶州東急ホテルが開業した。

こうして東急ホテルズ・インターナショナルは海外ホテルチェーンの草分けとしての地位を築いていった。

一方、最初の海外ホテルとなったグアム東急ホテルは、開業5年に満たない1974年6月に休業となった。観光客は急増していたが、現地の生活環境に近しい質素な2階建てのホテルは、後発の設備の整ったホテルに太刀打ちできなかったからであった。

4-8-2-2 東急不動産、東急建設による海外進出

この時期、東急不動産、東急建設の2社も海外進出を図っている。

東急不動産は海外不動産投資の自由化を契機に、米国や東南アジアなどに社員を派遣して海外進出の可能性を探っていたが、最初の投資としてグアムで4.7haの土地を取得。1972(昭和47)年9月1日、同社100%出資による海外子会社としてトウキュウ ランド コーポレーション マイクロネシア社を設立して、1973年までに3地区で合計40haの土地を取得し、住宅建設事業に乗り出した。同年11月に開始した分譲販売は好調な滑り出しを見せ、第一次オイルショックの影響で売れ行きが鈍った時期もあったが、1978年4月までに総戸数266戸の販売を完了した。

同社はこれに続いて、インドネシアのバンドン市郊外でも住宅建設事業を進めることとしたが、現地では資本参加による合弁企業の設立が認められないため、現地企業との共同事業形式を採用した。現地企業が事業主体となって開発許可を取得し、東急不動産は資金や技術、人員を提供し、利益を折半するという方式であった。バンドンでのプロジェクトは17.2haの土地に377戸を建設するもので、1980年4月には全戸の販売を完了した。その後同社では、バンドンでの第2プロジェクトをスタートすることとなる。

東急建設は、これまで当社史に登場することは少なかったが、主に当社や東急グループ各社の建設需要に応えて、鉄道分野などの土木工事からビル・マンション、商業施設、戸建住宅などの建築工事に携わってきており、東急グループの会社別の売上高では東急百貨店と首位を争うほどの規模に成長していた。建設業界では名だたるゼネコンを追走して、上位10社圏内に食い込もうとする勢いであった。

同社では、1970年に海外事業班を発足させて海外進出の機会をうかがい、1971年12月、グアムでホテル建設や宅地造成を目的とする現地法人パシフィック東急コンストラクション社(PTC)を設立した。1973年には自ら開発事業に乗り出し、グアム近郊で戸建て住宅やツインタワーのマンション建設に着手したが、オイルショックの直撃を受けて販売不振となり、手痛い海外進出となった。その後現地法人は、開発事業から手を引いて工事専門業者に立ち返り、米国海軍省発注の火力発電所煙突工事、グアム住宅局発注の住宅工事などを手がけた。

当社との連携ではマウナ ロア リゾート計画に参画し、ハワイに100%子会社の現地法人パン パシフィック デベロップメント社と、現地施工業者との共同出資によるパン パシフィック コンストラクション社を、共に1979年8月に設立。とくに工事専門業者である後者は、その後の東急グループによるリゾート開発や宅地開発で大きな役割を担うこととなる。

4-8-2-3 その他関連会社の海外進出

東急車輛製造コンテナ

開発事業関連以外では、東急車輛製造が製品輸出で海外との接点を拡大した。同社は鉄道車両業界の先陣を切ったステンレス車両や特装自動車と並行して、1959(昭和34)年から国鉄のスチール製コンテナを製造していた。1960年代末期には米国大手コンテナリース会社からの発注により、海上コンテナの分野に進出した。アルミ製コンテナ(1個1500ドル)に比べスチール製は1個1100ドルと価格競争力に優れていたことから、主に米国の船舶会社などの需要が拡大し、横浜と大阪の両工場で生産体制の拡充を図り、スチール製海上コンテナでは世界のトップメーカーとなった。

鉄道車両や特装自動車の東南アジア向け輸出も含め、売上高に占める輸出比率は1977年度上期には約65%に達した。またコンテナ用資材などの安定的調達をめざして、1980年にはトウキュウ カー シンガポール社を設立した。

観光サービス事業では東急観光がニューヨーク、ロサンゼルス、グアム、ハワイなどに現地法人や駐在員事務所を設け、日本からの観光客の受け入れ業務や、日系企業を中心とした旅行斡旋を進めた。

流通事業では前述したが、東急百貨店子会社のベーカリー店「サンジェルマン」が海外進出を図り、米国やフランスに現地法人を設立して現地での店舗展開を図った。また東光ストアは東急百貨店と連携して商品調達力強化を進めたほか、東急百貨店や東光ストアの食肉卸販売を担う東急百貨店子会社の中央食品(現、セントラルフーズ)と豪州の現地企業との合弁でトウキュウ フィード ロット社を設立し、肉牛飼育の牧場経営に乗り出した。

このように五島昇社長の構想を起点として東急グループの海外進出が活発になり、海外の関連会社や関連会社の海外子会社なども増えてきたことから、1974年7月、当社の提案により主要13社の出席を得て東急グループ海外懇談会が開催された。海外展開にかかわる情報共有や情報交換を目的としたものであった。

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