第4章 第4節 第2項 転機を迎えた土地区画整理事業

4-4-2-1 開発規制を受けて

多摩田園都市の開発は、1969(昭和44)年12月の段階で、12の土地区画整理事業が完了し、施行面積は合計で818haに達した。1970年1月の時点では16の土地区画整理事業が進んでおり、これらの施行面積は1274ha(16区画の事業終了時)となっていた。

このころから土地区画整理事業を取り巻く環境は大きく変化した。まず挙げられるのが、1968年9月に適用された横浜市の宅地開発要綱である。

横浜市の人口は、1960年の137万人から1965年の179万人へと5年間で42万人増加し、そののちも年間10万人近い規模で増え続けていた。あまりに急激な人口増加のため、公共公益施設の整備が追いつかないという悩みを抱えていた。その最たるものが、前章でも取り上げた学校用地問題である。校舎の建設には国の補助があるが、用地の取得に補助はなく、地価の高騰により用地取得がままならない状況にあった。このほか消防署やごみの焼却場、上下水道施設、遊水池、取付道路の整備など財政需要は旺盛であったが、市の財政には余裕がなかった。そこで政令指定都市では初めて宅地開発要綱を制定し、開発事業者に対して公共公益施設整備に関する相応の負担を求めることとしたのである。

ほぼ同時期の1968年6月には都市計画法が改正され、翌1969年6月に施行された。この法律の特色は、秩序ある市街地形成を図るため都市計画区域を2つに分け、優先的に市街化を行う「市街化区域」と市街化を抑制する「市街化調整区域」を設定した点にあった。これにより2つの区域を区分けする作業、すなわち線引きが都道府県単位で始められ、神奈川県では1969年11月に線引きの素案が公表された。その内容の一部は、開発を計画していた地元地権および当社の期待に反するものであったが、地元地権者からの要望により一部区域で市街化調整区域から市街化区域への変更が行われた。

市街地開発を許容する区域が定まったことで、宅地開発要綱も本格的に適用され、土地区画整理組合は相応の公共公益負担を担うこととなった。これにより減歩率は上昇した。1960年代に事業が完了した地区では減歩率が20〜30%台の範囲であったが、1970年代に事業が進められた地区は大半が40%台となり、後述する市ヶ尾第二地区では減歩率が50%を超えた。

公共公益施設の整備に多くの費用負担が生じたことや、1973年末の第一次オイルショックに伴う原材料の高騰も相まって、土地区画整理事業の事業費は膨れ上がった。1㎡あたりの事業費は、野川第一地区では371円だったが1977年ごろには7285円(鴨志田第二地区)となっていた。

1970年前後に大きな社会問題に発展した公害問題も、事業の進捗に少なからず影響をもたらし、以前は関心が薄かった植樹地の保全について各地で要望が出された。このほか、1975年の文化財保護法改正に伴って遺跡群や古墳群の取り扱いが厳しく規制され、発掘調査などにより事業完了まで歳月を要する地区もあった。

こうして国や地元自治体による開発規制が厳しくなり、多摩田園都市では従来以上に制度に適した対応に努めた。

4-4-2-2[コラム]宅地開発要綱ができるまで

人口増加に伴い学校用地確保などの問題が生じ、横浜市と当社が時に対立しながらも折衝を重ね、問題解決に向けて努力したことについてはすでに第3章で触れた。1968(昭和43)年に実施された宅地開発要綱はこの延長線上にあるともいえる。

飛鳥田一雄横浜市長(当時)の回想録でも、この宅地開発要綱について触れられている。そのなかで、当社の開発に伴う公共施設確保の必要性がいかに横浜市を困惑させたか、横浜市は当社に対していかに厳しく負担を求めたか、意見が対立するなかでも横浜市と当社の担当者が、互いに尊重しながらどれだけ真摯に協議を続けたか、などの歴史を見ることができる。

宅地開発要綱 「市民のためだったら強盗にでもなります」

昭和四十年前後はすごい開発ラッシュでね。市の人口が年に十万人も増えるんだよ。市役所全体、まさにてんやわんやさ。なかでも学校建設。こればっかりはほっとけないからね。あらゆるものを犠牲にして、取り組んだよ。

そのうちに、東急が今の田園都市線沿線を開発して、大々的に売り出そうとしているのを知った。いや、計画は分かっていたけど、それがどんなものか実感できてなかったんだ。ところが、東急の「田園都市展」っていうのを見た鳴海君があわててね。完成予想模型には学校や消防署なんかの施設がちゃんと建ってて、見に来た人たちが「あら、あの辺を買えば学校にも近いわ」なんて話してるって言うんだよ。みんな東急が建ててくれるんならいいよ。でも、横浜市に用地を買わせて、建てさせるんだからね。ふてえ野郎だと思ったよ。本当。開発する以上、自分たちで用意するのが当たり前だというのが、ボクの考えだった。

で、交渉が始まるわけさ、向こうは、「開発が進んでいる地区から早く用地を買って学校を建てて欲しい」という。こっちは、「そんなこと出来っこねえ。開発する側の責任をどう考えてるんだ」と言う。話はなかなか進まなくてね。どっちも強情だった。(中略)

東急とは二年ぐらいもんでね。両方が歩み寄る状況になった。それで四十二年のクリスマスの日に五島さん(五島昇東急電鉄社長)と会って、この問題を検討する協議会をつくることにした。この時点でまあ、実質解決さ。五島さんと会ったのは、クリスマスの時と、次に覚書を結んだ時の二回だけさ。彼に、「私の父親は強盗慶太と言われましたけど、飛鳥田さんはそれ以上ですね」なんて言われたよ。だからこっちも「市民のためになるなら強盗にでも何にでもなりますよ」ってね。(中略)

[メモ]四十三年六月五日、四校分の用地を「東急」が市に無償提供、残る十六校分についても時価の約六分の一にあたる開発前の価格で譲ることを内容とする覚書が調印された。

出典:飛鳥田一雄著『飛鳥田一雄回想録:生々流転』朝日新聞社、1987年9月

注:本文中の「東急」「東急電鉄」は、当社(東京急行電鉄)を指す

4-4-2-3 ブロック別に見る土地区画整理事業の進展

多摩田園都市の土地区画整理事業は、1960年代は主に駅予定地周辺や線路沿いの地区で進められていたが、田園都市線の開通を経た1970年代は、徐々に沿線から離れたところへと事業地域が広がっていった。

図4-4-1 1965年~1975年に組合を設立した第1ブロックの区画整理施行地区
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

第1ブロックでは1960年代前半に土地区画整理組合を設立したにもかかわらず、地元住民間の考え方の相違などから未同意者との協議が暗礁に乗り上げた地区もあった。土橋地区と宮崎地区では1969(昭和44)年に、組合による直接施行のやむなきに至った。この直接施行は、土地区画整理事業区域内の権利者から建物など移転の協力が得られない場合に、土地区画整理組合がその移転または除却を法に基づいて実施することである。

その後は直接施行をできる限り避けるべく、両地区と隣接する有馬第二地区や小台地区では未同意者との話し合いに重点が置かれ、事業の進捗は好転した。こうして1979年までに第一ブロックの土地区画整理組合はすべて解散を迎えた(2000〈平成12〉年に土地区画整理組合を設立して事業を実施した犬蔵地区を除く)。

1970年代に開発地域が飛躍的に拡大したのが第2ブロックである。1960年代末に元石川第二地区や元石川大場地区で大規模な事業が始まったことが刺激となって、1970年代初頭には、嶮山第一・第二地区、早野地区、元石川第三地区、小黒地区で事業着手に至り、開発面積は大きく拡大。第一次オイルショックの影響で開発を見合わせた時期もあったが、1975年以降は開発再開の機運が高まり、市ヶ尾川和地区、市ヶ尾第二地区、荏子田地区、保木地区、池尻地区、富士塚地区、泉田向地区で組合が設立され、合計12地区で新たに土地区画整理事業がスタートした。

図4-4-2 1965年~1975年に組合を設立した第2ブロックの区画整理施行地区
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』
注:図の「元石川第四地区」は計画時のもので、その一部を本文にある「荏子田地区」として事業がなされた

第2ブロックは大半が横浜市内に位置していることから、前述の宅地開発要綱により多くの地区において公園や上下水道、治水状況によっては洪水を防ぐための緩衝地帯となる遊水池などを整備したほか、多くの取付道路の完全舗装や、小中学校の用地提供を行った。また市ヶ尾川和地区には遺跡群、市ヶ尾第二地区には横穴古墳群があり、現況保存が求められたため公園のなかに取り込むこととした。

なお第2ブロック内の小黒地区では、日照など将来にわたって環境が優れた住宅街の形成を望む声が多く、地元の発意により建築協定(良好な住環境を守るため、建築基準法などに定められた以上の厳しい基準を設ける地域独自の取り決め)が結ばれ、換地処分後の土地利用について敷地の狭小化などを禁じることが自主的に定められた。これに続いて市ヶ尾第二地区、荏子田地区などでも建築協定が結ばれたほか、泉田向地区では建築協定が組合設立の前提条件となった。

図4-4-3 1965年~1975年に組合を設立した第3ブロックの区画整理施行地区
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

第3ブロックでは第一次オイルショックまでに上谷本第二・第三地区、奈良恩田地区、恩田第五地区、鴨志田第二地区の合計5地区で土地区画整理組合が設立された。この内恩田第五地区では、遊水池の設置を要請していた横浜市との協議が長引いたことに加え、1975年6月の集中豪雨に伴う出水被害の原因を巡って市側と対峙する格好となり、事業期間は長期化。組合と当社は異常降雨による災害との立場を取りながらも、下流の被災者に見舞金を支払った。また、この災害を引き金に横浜市から河川改修費用の一部負担が求められたほか、すでに区画整理を完了した隣接地区でも新たに遊水池の設置が要請された。

第4ブロックでは新たに南町田第一・第二地区で事業着手に至った。この内南町田第一地区は田園都市線の延伸を念頭に1961年以降当社が買収を先行させてきたところである。当初から都市計画公園(鶴間公園)を設けることが決まっており、結果的に南町田第一地区の15%を都市計画公園が占めることとなった。

南町田駅前予定地については、商業業務地区と中高層住宅地区からなるスーパー街区(通常よりも区画を大きくとった街区)を設定した。南町田第二地区も含め1979年までには組合が解散となり、第4ブロックでの中規模以上の土地区画整理事業は完了した。

なお当社は南町田第一地区のスーパー街区の利用方法を検討したが、景気後退の影響により、東急ストアの開店のほかは、駐車場や住宅展示場など暫定利用の状態が長く続いた。本格的な商業利用の開始は2000年4月の「グランベリーモール」の開業を待つことになる。

図4-4-4 1965年~1975年に組合を設立した第4ブロックの区画整理施行地区
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

4-4-2-4 [コラム]「桜台コートビレッジ」が日本建築学会賞を受賞

当社は、第3章で述べたように鷺沼東急アパート(1967〈昭和42〉年)以来「東急ドエル」シリーズとして集合分譲住宅を手がけてきたが、いずれも地元地権者の土地活用を兼ねた地上権対価付きの分譲住宅であった。そして、現在の一般形である所有権付きの分譲マンションの第1号物件となったのが1970年9月に竣工した東急ドエル桜台コートビレッジ(以下、桜台コートビレッジ)である。

「桜台コートビレッジ」は青葉台駅の北西約1.2kmの社有地であるが、35~45度の傾斜地であり建築に際してさまざまな工夫がなされた。整地はほとんど行わず、丘陵の傾斜面をそのまま生かす形で各戸は2階建てにして外部に面する部分を大きく採ったほか、各戸を碁盤の目の対角線上に配置することでプライバシーを確保、よりよい居住環境と美しい外観を作り出した。

この物件の特徴が評価されて1971年には日本建築学会賞を受賞したほか、竣工後20年以上経過した1992(平成4)年には優れた都市景観の創造、保全に寄与したとして、横浜市から横浜まちなみ景観賞を受賞した。

日本建築学会賞を受賞した「桜台コートビレッジ」全景
ユニークなデザインが施された

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