第4章 第5節 第1項 全国に広がる地域開発

4-5-1-1 日本列島を駆け巡った開発競争

戦後日本の国土開発の方向性を示すため国は1962(昭和37)年に「全国総合開発計画」を策定し、その構想は、1969年の「新全国総合開発計画(以下、新全総)」へと受け継がれた。首都圏や東名阪といった都市の一極集中を緩和して地域間の均衡が取れた発展をめざした点は共通するが、とくに後者は成長著しい石油化学などの産業集積地を全国に分散させることや、全国主要都市を結ぶ交通ネットワーク(高速道路や新幹線)整備の構想が盛り込まれた。「地方の時代」到来に向けて実効的な施策が打ち出されたことが印象づけられ、地方部での土地買収が盛んになり始めた。

これに拍車をかけたのが、自民党総裁選を控えていた田中角栄(当時、通商産業大臣)による『日本列島改造論』の上梓(1972年6月)である。内容的には新全総と重複する部分が多かったが、その後の時代変化を踏まえつつ、人やモノの流れを地方に分散させる具体例をわかりやすく示した点に特徴があった。同書は瞬く間にベストセラーとなり、1972年7月に田中角栄は内閣総理大臣に就任。全国で「列島改造ブーム」が沸き起こった。

すでに国内では、1971年8月のドルショックによる急激な円高に伴って、景気対策のために戦後最大ともされる金融緩和がなされていた。しかし、景気の先行きが不透明ななかで、資金は必ずしも設備投資に向かわず、余剰資金は出口を求めて土地に向かい始めていた。こうした時勢に列島改造ブームが起こったことから、全国的に土地投機が過熱し、大手不動産会社のみならず、にわか不動産業者や個人までもがこれに加わり「一億総不動産屋の時代」とも呼ばれた。

土地の買いあさりによって地価公示価格は全国平均で1972年に30.9%、1973年に32.4%(各前年比)と大きく上昇した。なかでも地方部では、これまで見向きもされなかった山林原野までもが土地投機の対象となるなど、土地ブームが過熱し、地方平均の地価公示価格変動率は1973年に43.5%を記録した。資金の過剰流動性に伴う地価上昇であった。

このため国は金融引き締めに転じると共に、地価抑制策として1973年度税制から新土地税制を施行。1974年12月には土地取引に許可制と届出制を導入した国土利用計画法が施行された。これらと並行して、1973年10月に第一次オイルショックで景気が低迷、諸物価は高騰し、宅地や住宅の需要も冷え込んだ。1974年の地価公示価格は全国平均で9.2%のマイナスとなり、「土地を買っておけば必ず値上がりして儲かる」という土地神話は瓦解した。開発事業者にとって1970年代前半は激震に次ぐ激震で、東急グループもまた、この荒波に無縁ではなかった。

関連会社については後述するが、当社においては1971年6月の業務組織改正で地域開発部が新設され、首都圏以外での地域開発が本格化した。その狙いは、多摩田園都市の開発で得られた経験やノウハウを展開する点にあった。なお、他の大手デベロッパーは地方都市のオフィスビルなどに旺盛に進出していた時代であった。

図4-5-1 地価の対前年変動比率の推移
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

以下、1970年代に当社が進めた主要な開発案件について概要を記す。

4-5-1-2 知多市・知多西谷地区──地元大手企業と東急グループの連携

多摩田園都市の開発で培った、土地区画整理事業の経験やノウハウを生かした他の地域開発への参画の手始めとなったのは、愛知県知多市の知多西谷地区である。

図4-5-2 知多市知多西谷・知多西谷第二・知多八釜地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

きっかけは、関連会社の東急鯱バスが、東海製鐵(現、日本製鉄)から、名古屋製鉄所の従業員のためのバス運行の依頼を受け、1967(昭和42)年1月に通勤輸送特定バス契約を締結し、同年4月に運行を開始したことである。同社は、地元の東海市や南側に隣接した知多市などに従業員用の住宅建設を進めており、これら住宅地と名古屋製鉄所を結ぶものだった。1970年の時点で合計22系統、稼働車両数は54両にも及んでいた。この間、東海製鐵は2度の合併を経て新日本製鐵となり、東急建設は新日本製鐵の社宅や健保センターなどを建設、東光ストアは住宅地に出店し、東急レクリエーションがボウリング場を展開するなど、新日本製鐵と東急グループのつながりが広がった。

東光ストア宮津店
東急鯱バスが運行した特定バス(新日本製鐵名古屋製鉄所前の特定バスターミナル、1970年4月)

こうしたなか、従業員の持家制度を推進する新日本製鐵は、知多西谷地区(39ha)で宅地開発を計画し、多摩田園都市開発で実績のある当社に協力の要請があった。当社はこれに応じて、東急鯱バス、新日本製鐵の子会社である日鐵企業(現、日鉄興和不動産)との共同で土地区画整理事業を進めることとし、土地の買収を開始した。

事業実施前の知多西谷地区

1973年8月には知多西谷地区土地区画整理組合の設立が認可され、前述の3社で構成する西谷土地区画整理事業共同体が工事施行業務を一括代行した。事業費の負担は当社と東急鯱バスがおのおの40%、日鐵企業が20%であった。同地区は名古屋市の南方20kmの位置にあり、最寄り駅の名鉄(名古屋鉄道)常滑線朝倉駅からはバスで5分、名古屋市中心部までは電車で約30分という地で、開発前は大半が山林と農地であった。

同地では、「東急」の知名度が低く、また愛知県で初めての業務一括代行方式による土地区画整理事業であったため、当局の指導は厳格で、多摩田園都市とは異なる困難があったが、粘り強く事業を推進し、1976年9月に竣工を迎えた。完成した512区画の大半は一般公募により販売し、一部区画は新日本製鐵の社員分譲に充てられた。

なお同時期に隣接地域の開発も計画していたところ、当該地区が1975年に市街化調整区域に指定されたため、愛知県に対して指定範囲の見直しを求めて陳情を重ねた。当該地域で土地区画整理事業が始まるのは1980年代である。

4-5-1-3 新潟市・新崎地区──市街化区域への変更で開発が加速

新潟市新崎地区土地区画整理事業

国鉄白新線新崎駅の北側に位置する新潟県新潟市新崎地区(20.8ha)の開発は、当社が同地区内の土地を1972(昭和47)年に取得したことに始まる。当時、新潟では既存の新潟港のほかに、対岸諸国などとの貿易専用の港として東港区の建設が計画されており、東港区周辺では工業団地の建設も計画されていた。新崎地区はこの工業団地の後背地にあたり、ベッドタウンに格好の地として開発計画が浮上していたのである。しかし、当時は市街化調整区域であったため実現には至らなかった。

新潟市新崎ニュータウンの建売住宅

1978年6月に市街化区域に変更されたことから、開発計画は一気に動き出し、同年9月、新崎地区土地区画整理組合の設立が認可された。同地区は阿賀野川と新井郷川に挟まれた平坦地で、地下水の水位が高かった。このため排水勾配を得ることも兼ねて、地区全体に2.5mの盛り土を行ったのが大きな特色である。同地区は「東急新崎ニュータウン」の名称で1979年10月から一部区画の分譲を開始した。その後、同地の地名は「濁川」から「つくし野」に変更となり、1982年5月に土地区画整理組合は解散した。

図4-5-3 新潟県新崎地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

なお同地区の開発に先立って、国鉄白新線新崎駅から2駅東側の豊栄駅を最寄り駅とする「東急豊栄ニュータウン」が、東急グループの東急土地開発による土地区画整理事業で竣工していた。同社による区画分譲は1977年2月に始まり、その後を当社が引き継いでいたが、市内で住宅地不足が顕在化しつつあったため、豊栄地区(全500区画)も新崎地区(全610区画)も売れ行きは好調であった。

当時、新潟は上越新幹線が1982年に開通する予定となっており、北陸自動車道の整備も進むなど日本海側の主要都市として発展しつつあり、1981年10月には新潟駅前に新潟東急インも開業を迎えた。

4-5-1-4 札幌市・上野幌──東急グループ5社による開発

1972(昭和47)年2月の札幌冬季オリンピック開催を間近に控え、札幌市営地下鉄南北線や地下街の整備が進みつつあった札幌は、開発の余地を十分に備えた街であった。北海道札幌市では、都市化の進展に備えて中心部南東側に厚別副都心が計画され、国鉄千歳線の新札幌駅や上野幌(かみのっぽろ)駅の予定地(※)の近辺では、1965年から下野幌団地などの住宅団地整備が始まった。とくに上野幌周辺は市内中心部にも近いことから宅地開発には好適で、丸紅飯田(現、丸紅)や三菱地所なども開発に乗り出していた。

  • 国鉄千歳線の複線化、線路移設により、1973年に新札幌駅が新設され、上野幌駅は移設開業している。

当社では、地元で不動産事業拡大に努めていた定山渓鉄道、東急不動産、東急建設、東急観光との5社で構成する上野幌開発共同企業体を1971年10月に組成し、上野幌駅予定地にほど近い68haを開発対象地域として事業に着手した。

共同企業体方式は、参加各社が事業費を分担し合い、販売業務による収益を事業費の分担割合に応じて配分する方式で、当社、定山渓鉄道、東急不動産の3社が各25%、東急建設が20%、東急観光が5%を分担した。東急グループで共同企業体方式を採用するのは、これが初めてであった。

「東急上野幌ニュータウン」の看板

本開発事業においては、総括管理と宅地造成の設計を当社が、工事監理を定山渓鉄道が、販売・宣伝を東急不動産と定山渓鉄道が、それぞれ共同企業体から受託することとした。開発地区の買収はすでに定山渓鉄道によって9割方を終えており、開発方法は土地区画整理事業方式ではなく、一団地造成(一括買収方式)としたのも特色である。

上野幌地区は厚別副都心計画の圏内にあると同時に、札幌市東部地域開発構想の一部となっていたため、市当局はもとより周辺地域の開発を行う他企業との連絡も密にし、周辺地域との調和を図った開発を行った。宅地造成はおおむね円滑に進み、1975年5月に「東急上野幌ニュータウン」として一部分譲地の販売を開始し、1979年の夏には全1360区画の販売が完了した。

図4-5-4 札幌市上野幌地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

この時期の東急グループの北海道での事業展開をまとめると、次のようになる。1973年6月には札幌東急ホテルが、同年10月にはさっぽろ東急百貨店が共に札幌駅前に開業した。定山渓鉄道の関連会社である定鉄商事(1972年設立)は、札幌市内で札幌東光ストア(のちの札幌東急ストア)の店舗展開を加速しており、1979年9月には「東急上野幌ニュータウン」内に上野幌店を開店した。東急ストアも北海道内で独自の店舗展開をめざし子会社を設立し、1976年10月に札幌市に隣接する北広島市の北広島駅前に「北広島とうきゅう」を開業。さらに、東亜国内航空が1975年3月、東京(羽田)~福岡と共に、ジェット機DC-9を用いて東京(羽田)~札幌(千歳)1日1往復の就航を開始したほか、1972年に定山渓鉄道の傘下に入ったニッポンレンタカー北海道(ニッポンレンタカーの北海道エリアのフランチャイジー会社)は、1970年代末までに北海道内全域に店舗を構えた。グループ全体での北海道の市場開拓と軌を一にするように、東急グループが冠スポンサーとなった「札幌とうきゅうオープンゴルフトーナメント」が1973年に開催され、1998(平成10)年まで毎年恒例の大会となった。

「´86札幌とうきゅうオープンゴルフトーナメント」

なお、1973年5月に定山渓鉄道は、社名を「じょうてつ」に変更した。同社は1969年の鉄道線廃止に続いて、1972年にバス路線の一部を札幌市に譲渡するなど、交通事業中心の会社から不動産事業、流通事業およびレジャー事業中心の地域開発会社に変わりつつあった。それは五島昇社長の「とうきゅう構想」の北海道版ともいえる進展であった。

4-5-1-5 厚木市・厚木毛利台──過去最大の一団地造成

神奈川県央の中心地である厚木市では、1960年代末から工業団地が造成され、それに伴って周辺地域で人口増加が進み始めた。同市の人口増加率は1970(昭和45)年までの5年間で35%に達しており、神奈川県の平均23.5%を大幅に上回る勢いであった。当社が厚木市愛名、長谷、温水(ぬるみず)で土地買収を始めたのは1967年で、厚木第一地区を含めてこれらを厚木毛利台地区として一団地造成で開発することを計画し、都市計画法に基づく開発許可を神奈川県に申請していた。

「東急ニュータウン厚木毛利台」全景

1973年5月に許可が下りたため、当社は厚木都市建築事務所を現地に設置、宅地造成工事に着手した。厚木毛利台地区の開発面積は42.7haに及び、当社単独による一団地造成としては最大規模で、宅地販売ではなく建売住宅として販売することとした。主たる購入者に想定したのは、周辺地区の集合住宅に入居していて、一戸建てへの住み替えを検討中の世帯である。分譲にあたっては、その8割を県民に優先するよう指導を受けた。

同地区は境界線まで市街化の波が迫っており、近隣農耕地への悪影響も懸念されていたため、開発にあたっては、道路、水路、下水道、公園などの公共公益施設を整備改善し、併せて生活環境を整えた「健康で魅力ある住宅地」を目標とした。具体的には、交通公害防止に配慮した道路配置を行うと共に、歩道や歩道橋を設置して、通学路の安全性を高めるようにした。さらに地区内の植生調査を実施し、その結果を踏まえて森林公園の整備を進めたほか、法面や街路、宅地内には周囲の緑地と調和する樹種を選んで植えるなど、緑の保全に努めたことが特徴として挙げられる。

「東急ニュータウン厚木毛利台」土地利用計画図
「東急ニュータウン厚木毛利台」販売看板

土地利用については、低層独立住宅による個人住宅地域と、中層共同住宅の建設を目的とした集合住宅地域の2つに分け、個人住宅は東急不動産の東急ホーム(1060戸)、集合住宅は神奈川県住宅供給公社による集合住宅(440戸)となった。また公共公益施設として学校用地、幼稚園用地、公園9か所、集会所用地3か所を整備し、快適な住宅地としての環境を整えた。1976年9月に「東急ニュータウン厚木毛利台」として、個人住宅50戸の販売を開始。住民が増えつつあった翌1977年6月には、毛利台ショッピングセンターを竣工させて東急ストアなどに賃貸し、利便性の向上を図った。

図4-5-5 神奈川県 厚木市・平塚市・伊勢原市竣工地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

1978年には一団地造成事業を完了。コミュニティスペースとして図書室や談話室、遊戯室などを備えた木造平屋の児童館を整備して、厚木市に寄贈した。

なお厚木毛利台地区の最寄り駅は小田急線本厚木駅で、同駅までは神奈川中央交通の路線バス(所要時間15分)が運行されていた。当初はバスの本数が少なく、停留所の位置も居住者には不便があったため、同社と協議のうえで停留所を2か所増設、運行本数も1日60便に増便することとなった。

当社はのちにこの厚木毛利台地区の隣接地区や平塚市でも土地区画整理事業を進めたが、これについては次章で述べる。

4-5-1-6 裾野市・千福地区──富士高原都市開発から生まれた景観良好な住宅地

静岡県裾野市千福地区の開発は、1968(昭和43)年に計画した「富士高原都市」の建設構想に端を発する。裾野市の千福と葛山、御殿場市の境の尾、神山、永尾の5地区合計1046.4haを開発対象とし、これまでの住居中心の都市とは異なる、余暇を満喫できる都市を建設するという壮大なプロジェクトであった。裾野市と御殿場市は共に開通間もない東名高速道路沿いにあり、都心まで100km圏内にあることから、週末のセカンドハウス、あるいは自宅としての需要も見込んだ。

図4-5-6 富士高原都市の建設構想全体図
出典:『清和』1975年11月号

1970年11月には御殿場市内で、開発の拠点となる富士高原都市建設事務所および宿舎の建設に向けて地鎮祭を行った。用地買収はすでに1968年4月から開始しており、地鎮祭の時点で、御殿場市北側の小山町も含め合計600ha弱を買収済みであった。

この内千福地区は、定住地区、レクリエーション地区、週末住宅地区で構成することとし、定住地区は「千福ニュータウン」として、開発面積83.2㏊に景観に配慮した1071区画の住宅地を計画した。1975年12月に千福地区の開発工事が静岡県土地利用対策委員会に承認され、1976年5月に定住地区の開発行為の認可を取得、同年10月に工事を開始した。

富士高原都市開発 千福地区用地部御殿場分室

5年の歳月をかけて開発を進め、1981年3月に定住地区建売住宅の第一次販売(34戸)を開始、1982年2月には現地に東急ストア千福店をオープンし、幼稚園、小学校、集会所、公園などの公共公益施設も順次整えていった。高品質な街づくりを標榜し、富士山の眺望や箱根外輪山の山並の景観、周囲の斜面緑地などとの調和を図るため、陸屋根の規制、建物の色彩のコントロール、テレビアンテナをなくしてCATVを導入したほか、建ぺい率や容積率の制限、壁面線の後退などによって、ゆとりのある街並みを確保した。さらにブロック塀をやめて生け垣とし、シンボルツリーの導入、宅地内の植栽を豊かにするなど緑の創出にも努めた。とくに地区北側のガーデンウォーク街区では、地区全体の取り決めに加えて環境協定を導入、幅4ⅿから6ⅿの環境緑地帯を設置して通りの景観を個人の庭から演出する技法を採り入れるなど、良質な景観を形成するためのさまざまな工夫を凝らした。

「千福ニュータウン」の街並み

こうした街づくりが評価され、「千福が丘地区」として1992(平成4)年度の都市景観大賞を受賞、地元の裾野市に表彰状が授与された。

レクリエーション地区では、ゴルフ場「ファイブハンドレッドクラブ(500クラブ)」が先行して1980年に開業した。週末住宅地区では、当初の計画を変更し、43.6haの広大な森に企業向けの研修所、保養所、別荘用地として、17区画を整備した「ファイブハンドレッドフォレスト(500フォレスト)」が1989年10月に竣工した。

「ファイブハンドレッドクラブ(500クラブ)」

「富士高原都市」の建設構想の内、千福地区以外の4地区については、開発行為にかかわる事前審査で了承を得られていたものの、採算性の問題や社内の資金事情などから先送りとなり、そのまま未稼働資産として残された。富士高原都市の構想は、結果的には部分的な完成で中断することになった。

また富士高原都市と同時期に計画されていた東急ターンパイク沿いの箱根湯河原(奥湯河原)開発は、地元の意向をくんで計画を断念し、同地でも多くの未稼働資産が残されることとなった。

4-5-1-7[コラム]ファイブハンドレッドクラブ・ロッジ

「富士高原都市」プロジェクトの一環として開発が進められたファイブハンドレッドクラブであるが、開業にあたっては、メンバー(最大500人)に日本の各界を代表する人物を集め、その人々の「フランクな社交の場」としてスタートした。

五島昇社長は自らを「東京大学ゴルフ部卒業」と称するほどのゴルフの名手だったが、かねて自らも設計に加わったスリーハンドレッドクラブ(茅ヶ崎市、1962〈昭和37〉年開業)には政財界のメンバーが集い、サロン的なゴルフクラブとなっていた。ファイブハンドレッドクラブもそれに倣い、そうそうたるメンバーを得てクラブがスタートしたのである。

1989(平成元)年10月10日、「ファイブハンドレッドクラブ・ロッジ」がオープンした。五島昇社長は日本プロゴルフ協会の名誉会長だったが、中村寅吉氏(プロゴルファー、日本女子プロゴルフ協会の初代会長)が五島昇社長に対して

これからどんどんプロゴルファーを作りたい。ただ、プロテストに合格しても、(若い選手は)社会人としては『まだまだ』だ。プロテストに受かった若い選手を1週間缶詰にして、社会人としての勉強・教育を受けさせたい。

との意を受け、生前の五島昇社長がその社会人研修の場所として、この施設を作ったものである。

ファイブハンドレッドクラブ・ロッジ

ロッジ開館直後、研修にはプロテストに合格したての丸山茂樹氏も研修生として滞在し受講した記録が残っている。2015年12月に、ロッジは老朽化を理由に閉館し、ほどなく取り壊された。このように、富士高原都市から生まれたファイブハンドレッドクラブではあるが、茅ヶ崎のスリーハンドレッドクラブと並び、数あるゴルフ場のなかでも独特の地歩を築いていた。

4-5-1-8 その他の地域開発

1970年代には、ほかにもさまざまな地域開発計画が持ち上がったが、その内南福岡(福岡県小郡市・筑紫野市)と神奈川県平塚市について、主な動きを記しておく。

南福岡については、1972(昭和47)年4月に福岡県が、1985年を目標とした長期ビジョンと中期計画(第1期)を発表し、そのなかで福岡都市圏における大規模住宅地として「中九州ニュータウン構想」の「小郡・筑紫野ニュータウン」建設が提言された。これに『日本列島改造論』の発表(1972年6月)に伴う列島改造ブームが加わり、福岡市の中心地から20〜25km圏内は通勤圏として著しい人口の伸びを示し、宅地需要は増加の一途をたどっていた。住宅地の拡大が急速に進むなかで、環境や交通、生活用水の問題が生じており、総合的な観点から良好な宅地の整備を進める必要があった。

小郡・筑紫野ニュータウンは福岡都市圏の南端に位置し、国鉄鹿児島本線と西鉄大牟田線(現、天神大牟田線)に挟まれた交通至便な適地として選定された。小郡・筑紫野両市は、1972年5月にニュータウン総合開発協議会を設立し、共同で中九州ニュータウン建設基本方針をまとめたうえで、1974年12月に財団法人都市計画協会にマスタープラン作成を委託。同協会から提出された報告書について両市議会や県関係部署の意見を集約し、1976年9月に「中九州ニュータウン計画基本構想」が発表された。

図4-5-7 筑紫野市原田地区・小郡市苅又地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

一方当社は、1972年11月に九州開発事務所(1973年南福岡都市建設事務所と改称)を博多駅前に開設し、用地の取得を進めて、独自に街づくり計画の立案作業に入っていた。しかし、第一次オイルショックの影響などで計画は停滞。1976年5月に、当社、東急不動産、西日本鉄道、西鉄不動産の4社が両市と開発について合意し、公共公益施設の整備に応分の負担をする覚書を締結して事業推進の枠組みは定まったものの、開発対象地域が市街化区域に線引き変更されたのは1981年8月のことであった。小郡・筑紫野ニュータウンの一部として、当社が筑紫野市の原田(はるだ)地区、小郡市の苅又地区で土地区画整理事業に着手するのは1983年以降である。

もう一つの平塚市については、当社田園都市部用地課が中心となって用地買収を進めてきた地区で、当初は厚木毛利台と同様に一団地造成による開発を計画していた。しかし、地区内に未登記の公共用地があるなどの理由から、全面的な用地買収を進めることが難しかったため、開発手法を土地区画整理事業に変更、1971年10月、田園都市部の組織として平塚都市建設事務所を設置(事務所の開所は翌年)し、組合設立は1979年であった。

図4-5-8 平塚市日向岡土地区画整理竣工図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

小郡・筑紫野ニュータウンと平塚市(日向岡地区)のその後の進捗については次章で触れる。このほかにも宅地開発以外に、北海道大滝地区のスキー場開発、熊本県天草・大矢野島でのレジャー開発、沖縄県宮古島でのリゾート開発などの計画が1970年代初頭に持ち上がった。北海道から、本土復帰間もない沖縄まで、全国各地で地域開発に乗り出した勇猛果敢の時代であった。

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