第8章 第6節 第1項 海外での「街づくり」

8-6-1-1 海外事業の整理

海外ホテル事業は、1995(平成7)年6月に当社100%出資により設立したパン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ社(以下、PPHR)に一本化し、北米・アジアのホテル運営を受託するかたちで、事業を継続した。

しかし2000年後半からの米国発のITバブル崩壊、2001年9月の米国同時多発テロ事件の影響により業績が低迷、ホテルのオーナーから課せられていた業績保証も重荷となり、ホテル事業を取り巻く環境が悪化した。2000年4月に決定された東急グループ経営方針により、渋谷をはじめとする東急線沿線に経営資源を集中していくこととなったため、海外事業は幕引きを図る方向となり、これに伴い2003年から海外事業単独の部署はなくなった。

まず1985(昭和60)年に購入し、自然環境と観光の両立を探るために20年は手を入れないとしたフィジー国ラウ諸島のマンゴ島を2005年に譲渡した。

2007年3月、当社は保有するPPHRの全株式をシンガポールの不動産開発会社であるUOLグループに譲渡することを発表した。UOLグループはアジア、オセアニアで積極的にホテル事業を展開しており、パン パシフィック ホテル チェーンの取得に強い意欲が示されたことから、当社はパン パシフィック ホテル チェーンのさらなる発展のために、同社に事業を託すことが最善と判断し、合意に至ったものである。

これに合わせ、インドネシアでホテルを所有・経営するサリニトウキュウ ホテル インターナショナル社の当社が保有する全株式を、UOLグループに譲渡することした。

また、シンガポールで「パン パシフィック ホテル シンガポール」を所有・経営するホテル マリーナ シティの、当社が保有する全株式については、合弁先であるマリーナ センター ホールディングスに譲渡した。

図8-6-1 2006年現在のパン パシフィック ホテル チェーン運営体制
注:社内資料をもとに作成

なお第6章で述べたパン パシフィック ホテル横浜は2007年6月から名称を「パン パシフィック 横浜ベイホテル東急」と改め、東急ホテルズが賃借し経営にあたることとなった。

この時点で、当社が展開する海外事業は、マウナ ラニ リゾート(ハワイ島)によるリゾート開発事業と、ヤンチェップ地区(西豪州)の土地開発事業が残るのみとなった。

この内マウナ ラニ リゾートは当社海外事業のシンボルであったが、とくにホテルは開業後30年以上を経過して塩害などによる老朽化が目立ち始め、修繕に多額の費用を要することや、現地の競合ホテルの台頭が著しいことも懸念となっていた。

マウナ ラニ ベイホテル&バンガローズ

こうしたなか設備投資と営業改善に取り組み、収⽀均衡を⾒込める状況にはなっていたが、リーマンショック前の収⼊レベルには回復していなかった。2013年ごろから、マウナ ラニ リゾートに関心を抱く複数の米国不動産会社から、同リゾートの譲渡に関する打診が寄せられ始めた。当社では2016年1月、事業や従業員の雇用継続を条件とした打診には応じることを申し合わせ、最終的には2017年、五島昇会長の開発理念に共感を寄せる米国企業へ事業譲渡を決断した。

ホテルを核とした海外事業を整理する一方で、その後、当社の新たな成長戦略の検討過程では、日本市場が縮小基調であるのに対して、アジアを中心とした海外の経済力隆盛、市場拡大に目を向ける必要があると認識されるようになってきた。そして、インバウンドビジネスや街づくりのノウハウを海外展開していくことなどに舵を切っていくことになる。

8-6-1-2 西豪州ヤンチェップ地区の開発が本格化

西豪州ヤンチェップ地区は、西豪州政府との協働事業として、開発を進めてきた。 2000年代に入るとパースとヤンチェップを結ぶ高速道路や幹線道路、鉄道などのインフラ整備が大きく進んだ。

高速道路(ミッチェルフリーウェイ)がパースとの中間地点にあたるジュンダラップまで開通、ジュンダラップからヤンチェップ地区南部まで続く幹線道路(マミオン道路)が2008(平成20)年11月に開通した。また鉄道(トランスパース)の整備も進み、2014年にバトラー駅(ヤンチェップの南約11km)まで開通。さらにヤンチェップへの延伸も計画された。

図8-6-2 ヤンチェップ地区近郊のインフラ整備の状況(2020年)
出典:社内資料

第7章で述べたようにインフラ整備の進展と並行して、1999年7月に州政府と締結した戦略的協調合意書(SCA)に盛り込まれた宅地開発と都市開発を、現地企業との合弁で進捗させた。

ヤンチェップ サン シティ社は豪州資本の不動産投資会社カプリコーン社の合弁で、ヤンチェップ南部地区を中心とした宅地造成と宅地販売を2004年度にスタート。2013年3月にはこの宅地開発合弁事業が「UDIAナショナルアワード」の大規模住宅開発部門で全豪最優秀プロジェクトに選出され、豪州全州のなかで最もバランスのとれた優良な住宅開発であると評価された。

また、雇用促進プロジェクトにおける企業誘致を進めるため、当社100%子会社としてセント アンドリュース プライベート エステート社を2006年1月に設立。同社とシンガポール資本の不動産開発会社ニュー オリオン社の合弁で、都市開発事業を2006年度からスタートさせた。

州政府から受託していた、ボンド社が設置したツーロックスマリーナの運営を2014年契約終了に伴い返還、また1985(昭和60)年より営業していたロッジ(クラブカプリコーン)は2015年、宅地合弁事業地内の事業化に伴い閉鎖することとなった。

ヤンチェップの開発は、都市開発事業と宅地開発事業を推進しつつ、地域の価値向上のための「Clean Green Sustainable City」(環境共生・循環型街づくり)を実現し、将来のサステナブル成長をめざしていた。こうしてヤンチェップ地区は着々と新しい都市の骨格形成へと向かった。

かつて当社は東京西南部の約5000haを対象に多摩田園都市の開発を進め、良質な郊外住宅地の形成で高い評価を受けたが、ヤンチェップ地区は開発対象面積が約8000ha(面積はいずれも当初計画値)にも及ぶ広さで、しかも日本とは法制度やビジネス習慣も異なる。ヤンチェップ地区では他の開発事業者に土地を譲渡した資金により道路などの社会インフラ整備を進めながら地区全体の価値を向上させていった。

8-6-1-3 ベトナム・ビンズン新都市で「東急」の街づくり

ベトナムは社会主義共和制の国家ながら1986(昭和61)年にドイモイ政策を打ち出して社会主義型市場経済への転換を図り、1995(平成7)年の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟、2007年の世界貿易機関(WTO)加盟などを経ながら、著しい経済発展の道をたどってきた。アジア新興諸国のなかでもGDP成長率が安定的かつ高い水準で推移しており、国民の平均年齢が20代後半と若く、生産年齢人口が多いことも特徴であった。

同国最大の都市であるホーチミン市の北部に隣接するビンズン省は、日本企業を含めた外資企業による工業団地進出などで急速に発展しており、ホーチミン市の北側約30kmに位置するエリアに「ビンズン新都市」の建設が進んでいた。

2011年10月、当社はベトナムの開発会社ベカメックスIDC社との間で、ビンズン省をはじめとした同国内の都市開発に関して共同で事業検討を行うことで合意した。

ベトナムは、今後も経済成長が見込まれる市場であり、当社が多摩田園都市の開発や生活サービスの提供など、これまでに蓄積してきたノウハウを活用した新たな事業機会となると判断したのである。街の成長に合わせて住宅分譲、商業施設開発を実施すること、また付加価値向上施策として公共交通、ICT・通信、教育、医療、エンターテイメント、企業誘致を並行して推進することなどを目標とした。

2012年3月、当社65%、ベカメックスIDC社35%の出資で、ベカメックス東急有限会社を設立した。

図8-6-3 ベトナム・ビンズン新都市 位置図
注:社内資料

合弁相手のベカメックスIDC社は、ビンズン省100%出資の会社として1976年に設立された会社で、ベトナム国内でインフラ整備、工業団地開発、都市開発で数々の実績があった。ベカメックスIDC社トップが来日して多摩田園都市などを見学し、当社の街づくりを評価したことが、両社の協議のきっかけとなり、越村会長ら当時の当社経営層が開発対象地を視察、多摩田園都市の開発が始まる1960年代の息吹を感じ取り、新たな都市づくりに貢献できると考えたことから、速やかに合弁会社の設立に至ったのである。

開発前のベトナム・ビンズン省

ベカメックスIDC社はビンズン新都市1000ha全体の開発で主導的な役割を担っており、ビンズン省新庁舎を含む行政センターのほか、住宅、商業、オフィス、金融センター、国際会議場、総合病院、大学などの整備を進めることで、将来の居住人口12万5000人、雇用人口40万人の創出をめざしていた。

ベカメックス東急が担うのは、この内110haに、住宅、商業、業務施設などからなる「東急ビンズンガーデンシティ(TOKYU BINH DUONG GARDEN CITY)」の開発である。開発計画は、ビンズン新都市のホーチミン市側からの入口であり顔となる「ゲートシティ」、新庁舎に隣接し新都市の中心部に位置するオフィス・商業ゾーンの「コアシティ」、広大なエリアの住宅ゾーン「ガーデンシティ」、の三つの街区に分かれており、ベカメックス東急は、ゲートシティの高層住宅群「SORA gardens」、コアシティの商業施設「hikari」、ガーデンシティの戸建ておよび高層住宅群の整備に着手した。

図8-6-4 ベトナム・ビンズン新都市 計画図
出典:社内資料

ビンズン新都市開発における「東急ビンズンガーデンシティ」の名称は、いうまでもなく田園都市の創出を意味している。当社が沿線開発で培ってきた街づくりのノウハウや東急グループのネットワークを活かしていくことを意図したものである。かつて海外投資で辛酸をなめた経験から、当社内では本事業を危ぶむ声もあった。しかし一方で、国内での事業にとどまっている限り、当社の成長は見通せないという考え方もあった。ビンズン新都市における都市開発は、当社にとって、アジアの成長を取り込むための、海外事業(国際事業)の再スタートであった。

8-6-1-4 タイで不動産事業に参入

当社はベトナムでの開発事業を契機に、成長著しい東南アジア諸国での事業展開を探っていくなかで、タイ王国(以下、タイ)に着目した。

タイについては、1975(昭和50)年にホテルを開業したほか、1981年に東急建設が現地企業と合弁会社、チョウカンチャン・トウキュウ コンストラクション社を設立して建設事業を展開、1985年にバンコクに東急百貨店を開業した経緯があるが、不動産事業での本格的な進出はこれまでになかった。

タイは当時、アジア通貨危機やリーマンショックに伴う世界同時不況、国内での大洪水などに見舞われながらも、短期間でV字回復を果たしており、クーデター発生時も底堅いGDP成長率を維持するなど、安定的な経済発展を遂げていた。タイには7000社を超える日系企業が進出し、在留邦人の数は5万人を超えていた。多くの企業の進出先はバンコク北部のアユタヤであったが、2011(平成23)年の大洪水で操業停止が相次いだことから、バンコクの南東約100kmに位置するチョンブリ県シラチャが新たな進出先として選ばれ始め、シラチャ周辺では日本人駐在員向け住宅需要が増えていた。

図8-6-5 タイ・シラチャ 位置図
出典:社内資料

シラチャには同国2校目の日本人学校が2009年に開校し、生徒数も急増していた。当社は、この日本人学校を含む周辺土地を所有し、その活用方法を模索していた現地の大手財閥サハグループが募集する開発コンペに応募。コミュニティの形成に重点を置いた当社のプランが選ばれ、日本人学校の対面に位置する区画で現地日本人駐在員家族向けの賃貸住宅事業を行うことで合意した。同国は外国人事業法の外資規制により、不動産事業において外資企業の出資を49%以下に規制しているため、サハグループ(4社合計)50%、当社45%、チョウカンチャン・トウキュウ コンストラクション社5%の出資により、合弁会社サハ東急コーポレーション社を2014年10月設立し事業に着手した。さらに同社、当社、別の現地不動産開発会社との3者合弁事業により分譲住宅事業も開始することになるが、これらも含め以降の進展は第9章で述べる。

8-6-1-5 [コラム]ハワイ開発 マスター・デベロッパーの権限と責務

1970年代のハワイ土地取得から間もなく、マウナ ラニ リゾート社は行政府からマスター・デベロッパーとしての地位を与えられた。この地位はDeclarant(デクララント、Declaration<憲章>の派生語)と呼ばれ、登記されるものである。Declarantは開発エリアのデザインガイドラインを定めることができ、開発の許認可権者として、開発行為を行う者に設計図面の提出を求め、デザインなどを決める権限を持った。

マウナ ラニ リゾート社は土地取得後、環境調査、史跡調査を丁寧に実施したことから、現地では模範的な開発として行政が認める存在になっていた。Declarantの地位をすぐに与えられたことは行政府からの信頼の証であったともいえる。開発地はハワイの王族に由来する土地であり、現地の文化的な背景も含めてこれを保護したうえで「世界中の人が集まるリゾートを作りたい」という五島昇社長の思いは、現地の人々の理解を得ていた。そのため、ハワイでデベロッパーが、開発を計画すると、行政府は「まずマウナ ラニを見に行きなさい」と案内していたほどであった。

現地の歴史や文化を尊重した開発を行ったハワイ島の海岸に立つトーテムポール(1972年)

1990年代後半、マウナ ラニ リゾート社の解散に伴い、新しく設立したマウナ ラニ サービス社(当社100%子会社)がDeclarantの地位を承継した。Declarantには前述の通り行政府から権限が与えられる一方で、責務を課されていた。その一つにはリゾート内の公共用地の維持管理があり、その維持管理の一環として飲み水は自前で賄う必要があった。雨が降らない土地柄のため大変に重い責務であった。そのほかには、人口定着に合わせた住宅や学校用地の整備、リゾート全体のアソシエーション(※)における意見調整などがあった。マウナ ラニ サービス社は行政府に対してDeclarantとしての責務を果たすと共に、業務にあたった。

  • 日本におけるマンションの管理組合のイメージ。Declarantは過半数の議決権を持っている。

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