第5章 第9節 第2項 東急グループの渋谷での新展開

5-9-2-1 東急百貨店本店・東横店のリニューアル

1980年代、東急グループが渋谷で展開する商業施設では、それぞれ適宜リニューアルが進んだ。街を訪れる人々の嗜好やライフスタイルは刻一刻と変化しており、これに合わせて各施設をアップデートする必要があったからである。

リニューアル後の東急百貨店本店(Bunkamura開業に合わせ、帆船をイメージする白の外壁に統一)

まず東急百貨店は本店と東横店の役割をいっそう鮮明にすることとし、東急百貨店開業50周年の節目にあたる1984(昭和59)年に、まず本店のリニューアルに着手した。本店は1967年の開業以来、これまでも小規模な改装は随時行ったが、このリニューアルでは、高所得層の顧客の満足度を高めることに重点を置き、8階建ての内1階から7階までを対象に各階ごとの魅力づけを一から見直し、「グレードの高い大人の百貨店」としての個性を打ち出して、1984年9月にリニューアルオープンした。

東横店は、ターミナル立地であることから幅広い年代の客層があり、長年通い続けている固定客も多いことが特徴であった。同店のリニューアルは、こうした利点をさらに強化することを主眼とし、多くの顧客に親しまれてきた地下食料品売場や東横のれん街を増強し、上層階は、東横劇場を閉鎖(1985年7月)してフロア構成を見直した。多くの人が行き交うターミナル百貨店ならではの利便性を追求し、1985年11月にリニューアルオープンした。

5-9-2-2[コラム] 駅上の名門劇場「東横劇場」

東急百貨店東横店西館(旧東急会館)9〜11階には、かつて多くの観客を魅了した「東横劇場」があった。1954(昭和29)年11月、東横店の売場拡張に合わせて「東横ホール」の名称で開場した、観覧席数1002席の劇場である。

東横ホール落成時(1954年)出典:東急会館竣工記念誌『東急會舘 1954.11.15』

1967年に東横ホールは東横劇場と改名するが、若手役者による歌舞伎公演をはじめ、新劇、落語などの上演で知られ、都内では銀座の三越劇場と並び称される名門劇場とされていた。駅上にある利便性でも親しまれていたが、設備の老朽化、電車の運行回数増加による上演中の振動・騒音問題もあり、以前から処遇が検討されていた。

東急百貨店東横店のリニューアルに合わせて東横劇場が閉鎖となったのは、1985年7月のことであった。

東横落語会のさよなら公演(1985年6月28日)

5-9-2-3 東急プラザのリニューアル

東急不動産の渋谷東急プラザは、民間による初めての専門店複合商業ビルとして1965(昭和40)年に誕生した。当初は4階までだったショッピングフロアを5階まで広げるなど、充実に努めてきた。だが1970年代半ばに同規模のショッピングビルが近隣に登場したほか、公園通りや道玄坂、センター街など街の北側に消費の中心が移り、南側エリアは苦戦を強いられるようになった。

このため同社では、渋谷駅南口におけるにぎわいのシンボルとするべく、商業施設としての魅力づけについて検討し、「精神的な若々しさと、成熟した大人の知性や感性を備えた女性のためのビル」をコンセプトにリニューアルを図ることとし、1985年2月に着工した。石造りとアルミパネルを組み合わせたファッションビルにふさわしい外装を整え、内装も一新。入り口の間口を大きくとった真新しい姿で同年9月にリニューアルオープンした。

このリニューアルに合わせてフロアごとの店舗構成も大きく見直し、レディスファッションを強化、地下1階には新たに生鮮食料品売場「丸鮮渋谷市場(丸鮮は〇の中に鮮の文字)」を設けた。

『とうきゅう』1985年11月号では「渋谷東急プラザの改装」が特集された

5-9-2-4 「109」の新規出店

1979(昭和54)年4月に「ファッションコミュニティ109」を開業した株式会社ティー・エム・ディーは、同店の好調を受けて、渋谷での新規店舗の展開を進めた。

まず1986年4月29日、東急本店通りのほぼ中央に「ワン・オー・ナイン(ONE・OH・NINE)」を開業した。ファッションコミュニティ109よりも少し上の年代を主たる客層と想定した店舗構成の商業ビルで、1990年には大型音楽ソフト店のHMV国内1号店が出店した。

ワン・オー・ナイン(ONE・OH・NINE)

1987年10月には、渋谷駅前スクランブル交差点に面した好立地に「109-②」を開業した。ファッションコミュニティ109よりも若いティーンズ世代を客層とした商業ビルである。

「109-②」開業日の様子(赤い風船が飛ぶ)

さらに1988年4月には、ワン・オー・ナインの東急百貨店本店寄りに「ワン・オー・ナイン・サーティーズ(ONE・OH・NINE 30')」を開業。大人のラグジュアリーストアをめざし、海外ブランドのショップやレストラン、レンタルブティック、エステサロンなどで構成した。

ワン・オー・ナイン・サーティーズ(ONE・OH・NINE 30')

ティー・エム・ディーはさらに地方都市においても店舗展開を図り、金沢香林坊、富山に合計3店舗を出店し、7つのファッションビルを運営する会社となった。

中核店舗であるファッションコミュニティ109は、渋谷道玄坂のランドマークとして存在感を示してはいたものの、競合する渋谷パルコ、丸井に比べてDCブランド(デザイナーズ・アンド・キャラクターブランド)の話題性が乏しいなどの課題があった。そこで同社は1989(平成元)年9月にビル名称を「SHIBUYA109」に変更し、店舗構成の見直しに着手する。これが功を奏して、再び流行の発信地となるのは1990年代半ばのことである。

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