第5章 第10節 第1項 流通事業の拡大

5-10-1-1 店舗拡大を図る東急百貨店

株式会社東急百貨店は、1978(昭和53)年8月の「さっぽろ東急百貨店」の直営化により、本店、東横店、日本橋店、吉祥寺店、札幌店の5店舗体制となった。1979年度の売上高合計は2300億円超で、百貨店業界では三越、大丸、髙島屋、西武百貨店、松坂屋に次ぐ6番手につけた。

表5-10-1 1979年度百貨店別売上高
出典:『とうきゅう』1980年11月号

東急百貨店は1981年8月に組織改革を行い、地方も含めた国内店舗拡大を継続すると共に、海外にも店舗を展開する姿勢を打ち出した。また、1983年には中期営業3か年計画を策定し、「地域内顧客の絶対的支持」「地域内競合他店との絶対的優位」「利益重視」の3つを目標とし、「地域性」(地域内競合を踏まえた地域密着型から地域主導型へ)、「時代性」(時代への素早い対応)、「原則性」(良質で値頃な商品を安定的に供給)を重視することを掲げた。

1980年代に、国内では町田、北見、たまプラーザに、海外では香港、タイ、シンガポールに新規出店した。これにより、東急百貨店は株式会社ながの東急百貨店などの同社子会社が運営する百貨店業態の店舗も含め、国内で10店、海外で3店舗(ハワイシロキヤを含めると7店舗)を擁する大手百貨店となった。主要な新規出店の経緯については別節でも記述した通りであるが、ここで改めて要点だけを記しておく。

香港東急百貨店(東急百貨店社内報1982年7・8月号)
表5-10-2 1980年代の東急百貨店の主な動き
注:東急百貨店社内報をもとに作成

町田では、再開発事業において地域発展の起爆剤となる百貨店の誘致が図られることとなり、百貨店3社による公開プレゼンテーションの結果、東急百貨店が選ばれ、1980年10月に本館とスポーツ館の2館からなるまちだ東急百貨店が開業した。その後JR町田駅周辺に建設された「町田ターミナルプラザ」には東急ハンズ町田店が出店しており、東急グループにとって縁の深い地域となった。

たまプラーザでは、「たまプラーザ東急ショッピングセンター」の核テナントとして百貨店出店が計画され、田園都市線沿線では最大級の郊外型百貨店として開業した。開業当日は、朝6時半から来店者が並び始めるなど期待は大きく、1日で約15万人が訪れた。また、株式会社たまプラーザ東急百貨店は、1987年に、隣接地にテナント型のショッピングビルを建設し、「プラザ・サウス・ウエスト」として開業した。

たまプラーザ東急百貨店(東急百貨店社内報1982年11・12月号)

北見では、東急グループを挙げた道東地域開発の一環として、東急インと同時期の開業となった。開店日の1982年8月23日は月曜日であったが5万人が訪れた。また、株式会社きたみ東急百貨店は、地元の要請により、経営不振に陥った老舗の「まるいいとう百貨店」を買い取り、1986年に新たな商業施設「駅前プラザHOW」を開業した。

きたみ東急百貨店(東急百貨店社内報1982年7・8月号)

一方、地方出店の第1号である「ながの東急百貨店」は、長野県内最大の百貨店として、売上高、経常利益共に着実に上昇カーブを描いていた。来店客による売上比率が高い(外商の比率が低い)ことが特徴で、日常生活に身近な百貨店として親しまれていた。こうした地元から得られた信頼や知名度を生かし、株式会社ながの東急百貨店は地域密着型の店舗展開を進めることとし、1983年11月に、小諸に「こもろ東急百貨店」を出店した。小諸では駅前商業施設が1981年に撤退したことで、駅周辺の商業集積力が弱まったため、地元から要請があり出店したものである。また、「ながの東急百貨店」では、長野駅前の商業活性化を促進すると共に、顧客の東京流出に歯止めをかけるなどの目的で、1986年11月に本館の増築と別館を完成させ、売場面積は1万6875㎡と約6割の増床になった。

ながの東急百貨店増築・別館開業時の写真(東急百貨店社内報1986年11・12月号)

5-10-1-2 既設百貨店の活性化をめざしたリニューアル

東急百貨店は、既存店についても随時リニューアルを進めた。

まず白木屋時代も含め最も長い歴史を誇る日本橋店は、周辺地域での商業施設急増の影響で、1970年代後半から売上の鈍化が目立ち始めていた。このため1987(昭和62)年から1988年にかけて、売場の配置替えや一部フロアの改装を実施した。従来の下町の顧客と、ビジネス街および広域地区からの来訪客という二面性があることを考慮し、都心店としての商品群の充実を図り、商品構成のフルライン体制を強化した。

札幌店は、1988年に3000㎡の増床を行った。そごう、松坂屋、大型スーパーなどが急テンポで出店したことに地元の商店街が危機感を募らせ、市議会で札幌市における大型店舗の新規出店および増床が凍結されていたが、札幌市営地下鉄東豊線の新駅を札幌店の地下に造る計画が具体化したことに合わせて、地元との調整を重ねての増床となった。1988年12月には地下鉄東豊線が開通し、地下3階2か所の連絡口と食料品フロアが直結した。

全館リニューアル・増床した東急百貨店札幌店(東急百貨店社内報1988年11・12月号)

吉祥寺店は、1974年6月の開業以来地域一番店の座を維持していたが、商業地としての発展が著しく、地域内での競争も激しくなってきたため、品揃えや販売、接客サービスの全面にわたる見直しを進めた。

また、東横店が1984年10月に開業50周年を迎え、他店も含めた大規模な催事を行うと共に、880社の取引先を招待した記念パーティをキャピトル東急ホテルにて開催した。本店も1987年11月に開店20周年を迎え、記念イベントをはじめ、Bunkamuraの開業を意識した文化催事などを実施した。

開業50周年謝恩セールのポスター(東急百貨店社内報1984年1・2月号)

なお東急百貨店ではコミュニケーションシンボルとして、新たなシンボルマークとロゴタイプを1989(平成元)年7月に制定し、同年8月25日の本店リニューアルオープンに合わせて使用を始めた。

図5-10-1 東急百貨店の新シンボルマーク
新しい包装紙とショッピングバッグ(東急百貨店社内報1989年7・8月号)

5-10-1-3 総合小売業をめざす東急ストア

1976(昭和51)年度に売上高1000億円の大台に乗せた株式会社東急ストアは、株式上場を見据えて企業体質の改善に着手し、財務体質の強化や出店計画の推進、不採算部門の見直しなどに重点的に取り組んだ。収益の改善が見込めない10店舗を閉鎖し、生鮮食品を扱う関連会社や大型店舗の不動産管理を行う関連会社の整理統合を行ったほか、当社や東急百貨店の債務保証を解消し、上場基準を満たすための諸条件を整えた。

1982年12月、東京証券取引所第二部に株式を上場。東急グループでは12社目の第二部上場であった。

東急ストア東扇島流通センター(川崎市)

同社は1984年9月に大森、1985年4月に中央林間、同年10月に取手と、大型店3店を続けて出店。この内取手店は、取手市による再開発事業の一環で完成した商業ビルのほぼ全館を賃借して開店したもので、同社最大の売場面積(1万3945㎡)を誇ると同時に、同社にとって最東北端の出店となった。また、多店舗化に伴う商品取扱量の増大や取扱商品の多品種小ロット化に対応するため、1985年9月に東扇島流通センターを開設した。

これらの計画は、これまでにない大型プロジェクトで、400億円にものぼる設備投資を要したが、株式を上場したことにより、外債を含めて資本市場からの資金調達ができるようになっていた。

これと併せて、競合激化の地域を中心にSM店(中型店)のリニューアルを実施した。特筆すべきは生鮮食料品部門の直営化である。すでに1979年、関連会社の吸収合併により青果・鮮魚部門の完全直営化を実現していたが、残る精肉部門についても直営化を模索。人材育成を最優先課題として、1979年から毎年4〜5人の若手社員を専門学校に送り出し、精肉ブロックを仕入れて自前でカットやプリパッケージ陳列が行える体制を1982年から整えたことで、生鮮食料品部門の強化が図られた。販売時点管理の情報システムとして業界で導入が進みつつあったPOSシステムを各店に導入し、東扇島流通センターとの連携を密にしていったのもこの時期であった。

東急ストア取手店

こうした取り組みにより、同社は1982年度以降、当期利益10億円以上を維持した。また1984年以降に出店した大型店の業績が好調に推移して投資回収が進んだ。とくに1987年度には中央林間店と取手店が年商100億円を突破、さぎ沼店、五反田店と合わせて4店が年商100億円超の店舗となり、増収増益の構図が固まった。同社は以前から東京証券取引所に第一部への指定替えを求めていたが、好調な業績推移が功を奏して、1987年8月に第一部上場企業となった。

1980年代の同社の新たな取り組みの1つは、小型店の業態開発に取り組み、「マインズ」の名称で店舗展開を開始したことである。マインズは売場面積250〜500㎡、半径500mを商圏とするミニスーパーである。既存の大型・中型店ではカバーできない商圏の隙間を埋めて、密度の濃いドミナントを形成すること、低投資の出店で多店舗戦略を加速させることが狙いであった。地域特性に合った多様な業態で商圏を面として押さえ、総合小売業としての骨格を整えることを意図したのである。マインズの第1号は田園都市線青葉台駅の北1.5kmに出店した「マインズ桂台」で、10時から21時までの長時間営業であった。

マインズ1号店のマインズ桂台

活発な店舗拡大と軌を一に、人材の採用と育成・定着化に向けた諸々の施策を講じた。すでに1975年から完全週休2日制を早々と導入したほか、1977年に女子寮と青葉台研修センターを完成させ、社内研修を計画的に実施する体制を整備。役割が増しつつあったパートタイマーについては労働条件や賃金を明確にした制度の充実を図った。さらに1987年には能力主義の徹底、実務能力とマネジメント能力の向上、昇格・昇進の適正化、中高年層の増加への対応、労働価値観の多様化への対応という5つの観点から人事諸制度を見直した。

また、関連会社を設立して事業多角化を推進した。GMS店などでインショップ展開を図る関連会社がほとんどだったが、川上から川下に至るまで幅広く事業展開し、東急グループ会社表彰で初配賞や経営賞を受賞する関連会社も相次いだ。

表5-10-3 東急ストアの子会社一覧(1989年時点)
出典:『東急ストアのあゆみ』

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