第5章 第6節 第2項 田園都市事業部などが着々と進めた開発

5-6-2-1 神奈川県県央・湘南地域での土地区画整理事業

当社は1970年代以降、多摩田園都市開発で培った土地区画整理事業の経験を生かして全国各地で宅地開発を行っており、神奈川県の県央および湘南地域でも複数の開発事業を進めた。それらは多摩田園都市の近郊であることから、開発事業本部田園都市部(1983<昭和58>年7月から田園都市事業部多摩田園都市部)が担当した。

図5-6-4 神奈川県平塚市日向岡地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』
平塚市日向岡地区の航空写真

平塚市日向岡地区(約37ha)は当初一団地造成事業で行う計画であったが、二線引畦畔(にせんびきけいはん)などの問題から土地区画整理事業で開発することとし、1979年4月に組合設立が認可され、同年11月に起工した。開発着手前の同地区は畑と山林が大半を占めており、人家はまばらであった。東海道新幹線に送電する鉄塔や地区内の高低差が課題となったが、鉄塔の移設は困難が伴うため断念し、高低差を生かしたひな壇形式の宅地造成を行うこととした。また地区内東西方向の都市計画道路は、隧道とする計画が決定され、出入口部分を組合が、隧道は平塚市が施工することとなった。同地区は「湘南日向岡ニュータウン」の名称で1987年1月に分譲を開始、丘の上にひな壇形式でパステルカラーの家々が建ち並ぶ光景は大きな関心を集めた。

湘南日向岡ニュータウン

厚木市長谷地区(約8ha)は、前章でも記した厚木第一地区(東急ニュータウン厚木毛利台)に隣接した地区で、地形的には東側と西側の標高差25mという、急勾配の丘陵地であった。土地造成で大量に発生する切土の処理が問題となり、一部は近隣の開発地区に盛土材として受け入れてもらうこととなった。また地区内に集合墓地を設け、点在していた個人墓地を移したことも特色である。小面積の地区であることから施行期間は4年4か月と短期で終了、1986年2月に竣工式を執り行った。

5-6-2-2 愛知県知多市での土地区画整理事業

愛知県知多市では、前章でも記した知多西谷地区に続き、3社(当社、東急鯱バス、日鐵企業)による共同企業体方式で、土地区画整理事業に取り組んだ。

図5-6-5 知多市知多西谷・知多西谷第二・知多八釜地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

知多西谷第二地区(約16ha)は、先行した知多西谷地区と共に1970年ごろに宅地造成の計画が持ち上がったが、1970(昭和45)年11月の線引きにより市街化調整区域に編入されたため、開発は頓挫していた。しかし、臨海工業地帯の拡張と共に周辺地域では住宅需要が高まっており、1976年10月に組合設立発起人会を結成して、市街化区域への編入を働きかけた。その結果1978年9月の線引き見直しで市街化区域に指定されたことから、健全な市街地形成に向けた開発計画の作成、地元説明会などを経て、組合設立認可申請書を愛知県に提出し、1982年2月に組合設立の認可を得た。3社連携による事業はおおむね順調に進み、1982年7月の起工式から2年10か月あまりで宅地造成が完了、1985年5月に竣工式を行った。

知多西谷第二地区

知多市ではもう一か所、名鉄河和線沿線の知多八釜(はちがま)地区(約15ha)で、1978年9月の線引き見直しで市街化区域に指定されたことを契機に開発の機運が高まり、1984年4月の組合設立に至った。同地区には愛知用水が通っていたことから、これの切り回し工事(移設工事)が必要であった。だが工事可能時期が冬期に限定されたことなどから、かなりの難工事となった。また未同意者との協議が長引く場面もあったが最終的には理解を得ることができ、1987年7月に竣工を迎えた。

愛知県は全国でも土地区画整理事業の先進地とされてきたが、当社が参画した知多市での3事業も、急激な都市化が進む1970年代から1980年代にかけて、その一端を担っていたのである。

5-6-2-3 北海道での東急グループの事業拡大

当社田園都市部が開発を進めた神奈川県県央・湘南地域、愛知県知多市とはやや異なるが、1970年代に始まった北海道札幌市・北見市での取り組みについても、ここでその後の進捗を記しておく。

北海道での事業展開は、たびたび触れてきたように東急グループの総力を挙げて取り組んできたものである。札幌周辺での展開に焦点を絞れば、札幌が営業地盤のじょうてつや当社などの5社で札幌市郊外の上野幌でニュータウンを開発、1975(昭和50)年に分譲を開始した。これと並行して、札幌市内では1973年に札幌東急ホテルとさっぽろ東急百貨店がオープン、とくに百貨店の進出は北海道における東急グループの本格的な事業展開を印象づけるものであった。

東急不動産は、札幌市内で最大の繁華街として知られるすすきのに、1980年6月、札幌東急ビルを開業した。ビルの敷地は東急不動産が1974年に取得していたもので、ビル事業の拡大を志向していた同社にとっては、新南平台東急ビルを1974年に竣工させて以来の大型ビル建設であった。同ビルはシティライフを満喫できる宿泊空間と飲食空間を組み合わせた複合ビルとして計画され、地下1階〜地上2階は飲食店街「プラザ109」として本格志向に応える飲食店16店が入った。中高層階(3階~12階)には、当社が展開する東急インチェーン21店舗目の札幌東急インが入った。開業時の客室数が422室で、東急インチェーンでは最大級の規模であった。

札幌東急ビルとオープンしたばかりの札幌東急イン

道東の中核都市、北見市でも新たな展開があった。東急グループと北見市の縁は、1958年に当社が北見バスの株式を取得した際に、北見市が国立工業短期大学(のちの北見工業大学)の誘致運動を展開していることを知った五島慶太会長が、市に1億円の寄付を申し出たことに始まる。

北見市では近代的な街づくりをめざして1973年に市街地再開発基本計画を策定した。第一期として駅舎および駅前広場の改造と、北見バスの社有地を中心とする区域に再開発ビルの建設を計画し、北見市は異例ともいえる「東急誘致」を市議会で決議した。これを受けて東急グループでは、再開発ビルの核店舗に東急百貨店と東急インを出店することとした。

北見駅前に完成した北見東急ビル
再開発ビル完成後の北見駅周辺

北見駅前再開発ビルは1979年9月に起工。1982年7月に北見東急ビルの名前で竣工し、きたみ東急百貨店と北見東急インがオープンした。当時の北見市の人口は約10万5000人で、百貨店の立地としては異色であった。

また、東亜国内航空が1980年5月に、道東の主要空港の一つである女満別空港と東京(羽田)を結ぶ定期航路を開設した。

このように1980年代は、北海道において東急グループの事業がさまざまな展開を見せた時期であった。

図5-6-6 北海道内の東急グループ主な会社
出典:『とうきゅう』1982年9月号をもとに作成

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