第5章 第9節 第3項 Bunkamuraへの道程

5-9-3-1 Bunkamura の開業

渋谷は東急グループの本拠地であり、東急線沿線に住む老若男女が楽しめる多様性を持った街であることが望ましい。そして将来的に高齢化社会の進展も予想されるなか、熟年以上の世代にも足を向けてもらい、本物志向の多種多彩な芸術が鑑賞できる文化施設が必要と考えられた。これがBunkamuraの発端である。

このころ、企業のメセナ活動(企業が行う芸術文化支援活動)が活発だった。大阪では朝日放送が開局30周年を記念してクラシックコンサート専用のザ・シンフォニーホールを1982(昭和57)年に開業、東京では森ビルが再開発したアークヒルズの一角にコンサート専用のホールを建設し、サントリーがこれを借り受けて1986年にサントリーホールとして開業した。また、主婦の友社によるカザルスホール、松下電器産業の支援による東京グローブ座などが続いていた。メセナ活動として、劇場やホールなど文化発信の拠点が作られていったのである。

こうしたなか「Bunkamura」は、異なるジャンルの芸術が一堂に集まる施設をめざし、国内最大規模の大ホール(オーチャードホール、2150席)、中ホール(シアターコクーン、747席)、映画館(ル・シネマ2館)、美術館(ザ・ミュージアム)、ギャラリーなどからなる複合文化施設として建設を進めることとなった。特徴的なことは、建物を造り、設備を整えてあとは貸し出すだけという従来型の運営ではなく、別途コラムに記したように、ソフト(企画や運営)の検討を先行させ、ソフトに合わせてハード(建物や設備)の設計を進めた点にある。

完成した「Bunkamura」
Bunkamura オーチャードホール

建設工事の進捗と並行して、Bunkamuraのオープニングを飾るにふさわしい演目の招聘活動を行い、オーチャードホールのオープン記念公演として、バイロイト音楽祭の引越公演が決定した。これは西ドイツのバイロイト祝祭劇場で毎年夏に超一流のアーティストによる世界最高水準のオペラが上演される音楽祭の、世界で初めての引越公演として、クラシック音楽ファンにとって垂涎の的であった。

運営会社として当社と東急百貨店の各50%出資により株式会社東急文化村を1988年11月に設立し、1989(平成元)年9月、Bunkamuraを開業した。

5-9-3-2 [コラム]文化の作り手の視点を設計に生かしたBunkamura

劇場施設を造る場合、まず建物を設計したうえで、上演内容に応じた設備を整えていくのが一般的であった。だがBunkamuraでは、早い段階から文化の発信者、作り手、アーティストの意見を反映させた施設づくりを志向。文化・芸術の各分野の著名人による、企画・運営のためのプロジェクト「プロデューサーズ・オフィス」を設けると共に、舞台関係の専門家をアドバイザーに迎えて、理想的な劇場空間の創出に努めた。

プロデューサーズ・オフィスに参加した指揮者の岩城宏之は、Bunkamuraオープニングの式典で、「コンサートホールができるときには、私作る人、私使う人という形で、音楽家の意見が取り入れられることはなかったと言ってよい。その点でBunkamuraは画期的だった」と語った。

5-9-3-3 [コラム]渋谷での東京国際映画祭

1985(昭和60)年5月31日から6月9日までの10日間、「第1回東京国際映画祭」が渋谷で開催された。同映画祭は、テレビに押されて斜陽化しつつあった日本の映画産業を活性化させるため、通商産業省が日本映画製作者連盟に対して、国際科学技術博覧会(つくば万博)との同時期開催を働きかけたのが発端である。パリに本部を置く国際映画製作者連盟が公認する国際映画祭としては、1970年の日本万国博覧会(大阪万博)開催時に大阪で日本国際映画祭が開催されたが、出品数がわずか20本という小規模なものにとどまっており、行政が関与した国内での本格的な国際映画祭としては、東京国際映画祭が最初であった。

第1回東京国際映画祭 109でも大きく㏚

同映画祭の開催に向けては、1984年2月に組織委員会と実行委員会が発足し、組織委員会会長には瀬島龍三、実行委員会会長には岡田茂が就任した。瀬島龍三は「昭和の参謀」とも呼ばれ、財界活動で活躍した人物で、1983年5月から亜細亜学園理事長に就任していた。岡田茂は、東映の社長で、映画制作配給大手4社で構成する日本映画製作者連盟の会長を務めており、1980年に東急レクリエーションの社長にも就任していた。また組織委員のメンバーには渋谷区長、NHK専務理事、東急百貨店社長、東急エージェンシー常務、西武百貨店社長が参加しており、早い段階で渋谷での開催が織り込み済みだったともいえる。渋谷にはNHKホールや渋谷公会堂のほか大小さまざまな映画館があり、映画祭の開催には最適という見方もあった。

東急グループでは、東急文化会館の映画館(渋谷パンテオンほか)などを提供したほか、東急広報委員会が協賛するなど全面的な応援体制を整え、開催前の告知期間から渋谷の街は映画祭一色に染まった。当初隔年で開催され1985年と1987年はNHKホールが主会場だったが、1989年の第3回からはBunkamuraが主会場となった。

映画祭の開催について五島昇社長は、グループ誌『とうきゅう』1985年3月号の巻頭言で、「今の渋谷は若者が闊歩するナウい街という印象が強いが、文化との結びつきは古くからある」と、東横劇場や東急文化会館などの取り組みを挙げた上で、「(東急グループに)直接的なメリットはない。東急グループが本拠地とする渋谷が、これによって活性化し、国際都市となる足がかりとなれば、それが東急グループにとって付加価値となる」と記した。

渋谷に文化的な側面が新たに加わった、記念すべき映画祭開催であった。

5-9-3-4 [コラム]東急百貨店が独自に立案「渋谷計画1985」

若者の来街者が増えて渋谷がめまぐるしい変化を遂げるなか、東急百貨店は1982(昭和57)年6月、有志からなる「渋谷計画1985」委員会を発足させ、渋谷の今後の街づくりについて検討を開始。都市計画コンサルタントの日本都市総合研究所の協力を得て、1983年6月にマスタープラン「渋谷計画1985」概要編をまとめた。

この「渋谷計画1985」で重点的な計画として描いた一つが、地形的に谷間になっている東急本店通りを軸に、地域の都市環境の整備や文化志向の施設設置を図り、個性豊かな文化・ショッピングゾーンを形成する「カルチャー・ヴァレー構想」である。そして、これに関連した小規模な文化施設を東急百貨店本店の北側に設置する案を盛り込み、東横劇場の移転先の受け皿とすることを想定していた。商業展開で地元と接点のある東急百貨店が、渋谷の将来を思い描いたものである。

「渋谷計画1985」 表紙

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