第5章 第2節 第1項 中央林間までの全線開通と「田園都市線・新玉川線」の基幹路線化

5-2-1-1 最後の1駅、中央林間までの開通

1978(昭和53)年8月1日に田園都市線・新玉川線・半蔵門線3線の相互直通運転が開始され、郊外と都心部をつなぐ大動脈が実現した。1979年8月には田園都市線つきみ野まで相互直通運転区間が延長し、あと1駅、中央林間までの全線開通が待たれた。

つきみ野〜中央林間間はわずか1.2kmの区間だが、つきみ野以遠の路盤工事に一部着手したところで工事は中断していた。三つの問題があったためである。

一つ目は、埋蔵文化財の問題である。これは、建設工事区域で埋蔵文化財の調査が必要となり、1979年11月から翌年6月にかけて発掘調査が行われ、この結果を踏まえた大和市との調整に時間を要したためである。

二つ目は、都心部に至るまでの輸送力が十分に増強できていなかった点である。小田急江ノ島線中央林間駅と接続すれば、乗り換え利用者により、田園都市線の乗客数が増えることが見込まれる。しかし、営団地下鉄半蔵門線は1979年に永田町まで開通したものの青山一丁目~永田町間は単線だったため、田園都市線・新玉川線から都心部へ向かう乗客に対しては輸送力が不十分と考えられたのである。その後、1982年12月に半蔵門線が永田町から半蔵門まで1駅延び、青山一丁目~永田町間が複線になると共に、青山一丁目駅のホームが10両運転に備えて延伸されることとなった。これに合わせて田園都市線でも10両編成に備えたホームの延伸工事を進めており、田園都市線・新玉川線・半蔵門線3線の10両直通運転の実施で輸送力を確保できるめどが立ってきた。

三つ目は、中央林間駅の位置についての小田急電鉄との協議である。当社は小田急江ノ島線直下に、十字状に交差するような位置取りで駅を設けたいと考え、そのために必要な土地も取得していた。しかし小田急電鉄との調整の結果、江ノ島線に突き当たる現在のような形で接続し、おのおのが独立した駅施設とすることとなった。

これらの問題が解決に向かい、1981年12月末には、つきみ野〜中央林間間の延長線建設の認可が得られたことから、1982年2月に着工。つきみ野駅構内の複線化工事も併せて行い、1984年4月9日に開業を迎えた。こうして、溝の口〜中央林間間の線路敷設免許を取得した1960年9月から四半世紀近くを経て、田園都市線22.1kmの全線がようやく開通した。

  • 田園都市線つきみ野~中央林間間開通
  • 中央林間駅発車間際の8500系半蔵門行き電車

横浜市営地下鉄の延伸に伴う、田園都市線との接続問題についても、この時期解決を見ている。横浜市営地下鉄3号線(現、ブルーライン)は、1985年3月に新横浜駅へと延伸するが、それに先立って、さらに延長先の田園都市線との接続駅の選定に入っていた。

都市計画審議会横浜部会が市営地下鉄3号線を答申したのは1966年で、この時の接続駅は元石川駅(のちのあざみ野駅)であった。しかしその後接続駅問題は、たまプラーザ、鷺沼、江田、市が尾などの案が出されるに至り、混沌とする。

横浜市より照会を受けた当社は、1971年9月、快速列車(1968年10月から運転開始)の停車駅であり、駅前に社有地が多いため接続施設に便宜を与えることができる、将来の発展を見込める、などのことからたまプラーザ駅での接続が最もよいと回答した。

一方、横浜市交通局は、路線延長が短く工事費が安価で、将来の小田急線方面への延長に好都合、さらに東名高速道路や国道246号線との交差が容易であるなどの理由から、元石川駅を接続駅と決め、1973年7月に新路線の免許を申請した。

その後両者の代表者による「六人委員会」を設置して調整が図られた結果、あざみ野駅で接続することに決定、1984年11月に当社は横浜市と共同記者会見を行った。横浜市営地下鉄の新横浜~あざみ野間は、1993(平成5)年に開業することとなる。

5-2-1-2 主力幹線に浮上した田園都市線・新玉川線

田園都市線と新玉川線は路線名こそ2つに分かれていたが、渋谷〜中央林間間の合計31.5kmを約60分で一直線に結ぶ路線であり、2路線合わせて、通称「田玉線(でんたません)」とも呼ばれた(2000<平成12>年に両路線が田園都市線に呼称統一)。

田園都市線が全線開通した時点で、路線別の営業キロ数は、以下の通りとなった。

表5-2-1 当社路線の概要
注:『会社概要』1984年をもとに作成

この内最長の東横線は、これまで主力幹線として当社の鉄軌道事業を支え、1942(昭和17)年以降は路線別の輸送人員でトップを独走してきた。田園都市線が全線開通した直後、1984年度の年間輸送人員を見ると、東横線は3億8285万人で、田園都市線の1億7887万人、新玉川線の1億6305万人を大きく上回っていた。

表5-2-2 1980年代前半の線区別輸送人員と増加指数
注1:『東急100年史』資料編をもとに作成
注2:増加指数は1980年度を100として算出
注3:線区別輸送人員は他路線との重複を含むため、その単純合計は全路線の輸送人員より大きくなる

しかし、多摩田園都市開発の進捗と人口定着により、田園都市線・新玉川線の輸送人員の伸び率は著しく、東横線と並ぶ主力幹線となっていく。

東横線、田園都市線・新玉川線の主力幹線を中心に、当社の輸送人員は着実に上昇カーブを描き、1981年度には全路線合計の年間輸送人員が7億6152万人を記録。1981年度以降は東武鉄道を抜いて大手民鉄トップになった。

表5-2-3 1987年度の大手民鉄各社の輸送人員
注:『清和』1988年7月号をもとに作成

当社路線は、営業キロ数が軌道の世田谷線を含めて合計100.7kmで、大手民鉄14社(当時)のなかでは中位であるが、輸送人員は上位にある。これは、人口が集中する都市部を走行し、主に通勤通学目的で利用されていることが、理由として挙げられる。

1980年代前半には二度の運賃改定(1981年5月、1984年1月)が認められたこともあり、こうした輸送人員の着実な伸びによって、鉄軌道事業の収益構造は徐々に改善に向かった。五島昇社長は1980年の賞与授与式で以下のように語っている。

相変わらず不動産業依存型の決算からはまだ脱しきれていません。しかし営業利益段階でみると、不動産業依存型が若干低くなってきています。これは、新玉川線が田園都市線との直通運転によって、対前年7%以上の増加を見たことも、大きく寄与しています。新玉川線・田園都市線にかけての一本の幹線ができたということです。いままで、当社線の路線網というものは東横線が幹線で、そのほかの線は培養線としての役であったと思う。そこに新玉川線・田園都市線という東横線と同じぐらいの輸送力があり、りっぱな後背地がある線型ができあがってきて、これが動き始めてきたということです。

その後も、東横線、田園都市線・新玉川線の利用者は増加基調が続き、次に混雑緩和が大きな課題となる。

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