第5章 第4節 第1項 バス事業の黒字化をめざして

5-4-1-1 輸送需要の変化に合わせた路線再編成

交通事業部門の内鉄軌道事業の収支が改善していく一方で、バス事業(自動車事業)は依然として赤字からの脱却に取り組んでいた。

1983(昭和58)年度の時点で、黒字を計上する民鉄系バス事業者が複数あったものの、当社のバス事業は1970年度から赤字が続いていた。運送収入は1970年代からおおむね上昇カーブを描いてきたが、輸送人員は玉川線の代行バスを廃止した1977年度に年間2億人を切ったあと、減少傾向が続いていた。当社の路線バス(乗合バス)は、人口密度の高い東京都内を中心に広げてきた経緯があり、1960年代後半以降のマイカーの急速な普及に伴う交通渋滞で定時性が失われ、利用客のバス離れが加速度的に進んだのである。また、他のバス事業者に比べて乗務員の平均年齢が高く、原価の内人件費が占める割合が高いことも課題であった。

こうしたなか、1981年6月に本格的な路線再編成に着手した。輸送需要と輸送力のバランス適正化を主眼として、都内を中心とする不採算路線を廃止したほか、長距離路線のため定時性が大きくそこなわれていた路線の分割、そして輸送需要の多い郊外地での新路線開設などを実施。さらに労働組合と協議のうえ、都内の中延営業所を同年6月、駒沢営業所を1984年3月に廃止し、1981年6月には横浜市に青葉台営業所を、1986年8月には川崎市内に虹が丘営業所を新設した。バス利用者が減少傾向にあった都内から人口増が期待できる神奈川県内へと、路線網の中心を移したのである。

1981年以降の路線再編成や営業所の統廃合により過剰気味だった輸送力は徐々に適正化が図られ、とくに1984年3月に大幅な路線廃止や営業車両数の低減を断行したことに加え、同年に運賃改定を実施したことが寄与し、1984年度のバス事業は1970年度以来14年ぶりに黒字に転換。同年度は約1000万円の営業利益ではあったが、翌1985年度には約1億9000万円の営業利益を計上するに至った。

開設時の青葉台営業所
青葉台営業所のバス
完成した虹が丘営業所

しかしながら1986年度以降、バス事業は再び赤字に転落した。神奈川県内の新規路線開設により輸送人員が若干の回復を見せたものの、全般的にはバス離れの傾向に歯止めがかからず、何よりも人件費の負担が重荷であった。

表5-4-1 路線再編成の状況(1976年度〜1984年度)
注:『清和』1985年6月号をもとに作成
表5-4-2 当社路線バス営業成績(1960年度~1990年度)
注:社内資料をもとに作成
※:貸切事業も含む自動車事業全体の営業利益

5-4-1-2 バスの利用促進に向けた取り組み

交通渋滞に伴って定時運行の確保が困難になったことは、都市部にバス路線を持つバス事業者にとって共通の課題であった。このため無線技術を使いバスの位置情報を把握して運行の適正化を促す「バスロケーションシステム」が、当社など一部バス事業者で試行されたほか、バス専用レーンの設定、停留所におけるバス接近表示装置の導入などが各地で試された。運輸省ではこれらの取り組みを「都市新バスシステム」と定義し、1983(昭和58)年度に施設整備への助成を開始した。

新交通システムのバス停案内板

当社においては1986年3月に、目黒通りを走る3路線・4系統を対象に「東急バス新交通システム」の運用を開始した。これは、バスに搭載した車載器と主要停留所の感知器で運行状況を常時把握し、その時点での最適なダイヤを作成、これを運転席のディスプレイに表示して等間隔運転を促すシステムで、停留所の案内板にはバスの到着予定時刻や運転間隔を表示した。1970年代に試行したバスロケーションシステムでの実験結果を踏まえて新たに開発したもので、同等のシステムを導入するバス事業者はほかにもあったが、到着予定時刻を表示するシステムは国内初であった。「次のバスがいつ到着するかわからない」といったイライラを解消し、バスの有用性を回復することをめざした。

これにより、都内の路線全体では1986年度の輸送人員が対前年度比で5.3%減少であったのに対し、新交通システムを導入した目黒通りの路線では同比で2.2%増加となり、一定の効果を上げたことがうかがえた。

なお新交通システムの導入にあたって、目黒営業所内の事務処理もコンピュータ化し、乗務員の出退勤管理、収入金管理や部品の在庫管理など後方業務も効率化を図った。一連の設備投資は、停留所の案内表示システム導入なども含め総額6億7000万円であった。

1975年に営業を開始した「東急コーチ」は一般路線よりも割高な運賃設定であったが、その後も輸送人員が着実に増加した。1981年9月には東急コーチ青葉台線(青葉台駅〜藤が丘駅)の営業を開始。途中のみたけ台と柿の木台の2か所にデマンド区間を設け、初めての試みとしてコールボックスでの音声自動案内サービスを採り入れた。

さらに1987年には2路線の営業を開始し、「東急コーチ」は合計5路線となった。

東急コーチ美術館線

同年3月に営業を開始した東急コーチ美術館線(二子玉川園駅〜<世田谷>美術館)は世田谷区からの要請もあって開設した路線で、コールボックスを玉川病院、NHK技術研究所、大蔵病院に設置。通院での利用も念頭に、座りやすい三方シートを採用した。続いて4月には東急コーチ市が尾線の営業を開始した。市が尾駅から泉田向を経由して市が尾駅に戻る循環ルートで、通常は基本ルートを走るが、コールボックスを設置した荏田西四丁目から呼び出しがあればデマンドルートを走る。途中のフリー乗車区間(約1.3km)で自由に乗り降りできるのも大きな特色であった。

深夜バスの運行を開始

また、1984年11月に青葉台駅を起点とする2路線で「深夜バス」の運行を開始した。最終バスが出発したあとはタクシー待ちの長い行列ができ、長時間歩いて帰宅する人も多かったことから、従来よりも1時間ほど終車時刻を延長して深夜の帰宅の足を提供することにしたものである。運賃は普通運賃の倍額としたが、とくに週末は朝のラッシュ時並みの混雑となった。

この「深夜バス」が好評を博したことから、田園都市線や東横線の主要駅を起点とする路線に順次拡大し、1987年からは都内の渋谷、目黒、五反田、大森の各駅を起点とする路線でも運行した。1989(平成元)年末には合計20路線に達した。

深夜急行「ミッドナイトアロー」

さらに1989年7月に、渋谷駅〜青葉台駅間26.3kmで、全国初の「深夜急行バス」を、「ミッドナイトアロー」の名称で、運行開始した。鉄道の終電後、深夜の1時および1時半に渋谷駅を出発して、首都高速3号線と東名高速道路を経由し、鷺沼駅とたまプラーザ駅に途中停車、青葉台駅までを所要時間約50分で結ぶ路線である。青葉台駅まで2000円と、タクシーよりも割安の運賃を設定し、必ず座ることができる座席定員制を採用したこともあって、大いに評判を呼んだ。

なおこの「ミッドナイトアロー」は、2020(令和2)年からの新型コロナウイルス感染症拡大を受け、2020年3月30日より運休となり、2022年3月31日付で、残念ながら廃止となっている。

高速夜行バス「ミルキーウェイ」(和歌山東急イン前の乗り場)

また新たな長距離路線として、1988年10月から南海電気鉄道との共同運行により、東京〜和歌山間の都市間高速バスを、「ミルキーウェイ」の名称で運行した。夜間に出発して、目的地に翌朝到着するという行路で、ゆったりと仮眠がとれるよう座席は1人掛けリクライニングシート、定員30人に限定、トイレやカード式電話機を備えたデラックスな車両を導入した。この和歌山線を皮切りに、出雲線(一畑電気鉄道、中国JRバスと共同運行)、酒田線(庄内交通と共同運行)、姫路線(神姫バスと共同運行)と路線を広げた。鉄道に比べて安価で、眠っている内に目的地に到着するという時間的な効率のよさも受け入れられた。

貸切バスの部門では、白馬観光開発との共同企画で、1979年12月に運行開始したスキーバス「東急白馬号」が好評を得ていたが、これに加えて、1982年に、草軽交通や上田交通との共同企画で、夏の観光客をターゲットとした「東急そよ風号」の運行を開始した。

また、貸切バスの営業と運行を統合し、業務効率化と営業力強化を図ることを目的に、1987年に観光バスセンターを設置した。

このほか回数券・定期券にかかわる新たな取り組みも進めた。1984年4月に東京都区内のバス運賃改定を行った際に、併せて東京都交通局および民営事業者9社の路線バスで使える共通回数券の発売を開始。また1984年に、国内で初めて磁気記録方式を採用したバス定期券発行機を東芝と共同で開発し、同年11月、三軒茶屋駅案内所に1号機を導入した。

1980年代は、当社のみならず他のバス事業者でも生き残りを賭けて、バスの利用動機を新たに発掘するための諸施策や、利便性の向上に向けた取り組みが進んだ。

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