第5章 第11節 第2項 60歳定年制への移行と人事制度

5-11-2-1 人事・総務関係──60歳定年制へ

生活環境や所得の向上、医療技術の進展などにより日本人の平均寿命は戦後一貫して延び続けてきたが、1980年代半ばには平均寿命が女性は80歳、男性は75歳を超え、「人生80年時代の到来」といわれた。

長寿命化が進む一方で出生率は低下傾向を示しており、若年労働力の確保が今後困難になっていくと見られたことから、当社は1980(昭和55)年、労使合意により、57歳の定年年齢を60歳まで延長することを決定。1981年度から3年に1歳ずつ定年年齢を引き上げて、1987年度から60歳定年制とした。

定年年齢の引き上げと併せて、定年後の生活を安定させることを目的に、1981年4月には適格退職年金制度を創設した。社員の退職金の内半分を原資として年金化し、60歳から15年間はこれをもとに年金を支給、その後の終身部分は会社が追加で負担することとしたものである。

過去には退職金を住宅ローンの返済に充てる例も多かったが、1964年に持ち家制度を創設してからは退職金の用途も徐々に変化しており、私鉄の退職金基準が他の産業界に比べて高水準にあることも、適格退職年金制度創設の背景にあった。なお退職金の全額支給を希望する社員のために、年金と一時金のどちらかを選択できるようにした。

また1980年10月には東急グループ労働組合協議会が結成された。すでに東急グループでは相当数の企業で労働組合が結成されていたが、この内37組合が参加。総評系、同盟系、無所属の組合が結集した点に大きな特色があった。これを受けて五島昇社長は社内報『清和』1980年12月号巻頭言の「社長室の窓」で次のようなメッセージを寄せた。

安定した労使関係が今日の東急グループの礎となっているわけだが、これは一朝一夕に築かれたものではない。今後、労使が力を合わせ、これを東急グループの貴重な含み資産として育てていきたい。

■その他の出来事(1980年~1989年)

1980年4月1日 統一定年日(年2回)の導入

これまで社員個人ごとに設定していた定年退職日を、本人が満60歳に達してから最初に到来する3月15日または9月15日の年2回に集約した。

1980年10月1日 東急グループ終身保険制度の開始

在職中の死亡保障を目的としたこれまでの「グループ保険」とは別に、定年退職後の死亡保障と医療保障を目的としたもの。収入の安定している在職中に掛金の積み立てを完了し、定年退職後は掛金なしで、終身の死亡保障か70歳までの医療保障のいずれかを受けることができる制度。

1989年6月 財形貯蓄制度の導入

社員が金融機関に定期的な貯蓄を行うことにより、貯蓄から生ずる利子などが非課税とされ、社員の資産形成、退職後の生活の安定に役立つ、財形貯蓄制度を導入した。

5-11-2-2 [コラム]実業団陸上競技と東京急行陸上部

■東日本実業団陸上競技連盟・日本実業団陸上競技連合の発足

1957(昭和32)年5月27日、7年後の東京オリンピックで活躍できる選手の育成を主目的として、五島昇社長が初代会長となり「東日本実業団陸上競技連盟」が設立された。またその4日後には「日本実業団陸上競技連合」が設立され、川崎重工業の手塚敏雄社長が初代会長、五島昇社長が同副会長に就任した。

そのころの日本の陸上競技の実業団の状況は以下の通りである。

表5-11-1 1957年の実業団陸上連盟の一覧
出典:日本実業団陸上競技連合『日本実業団陸上競技連合50年史』

その後、「日本実業団陸上競技連合」においては、第二代会長に五島昇社長、第三代会長に当社専務の山田秀介、第四代会長に東急建設の五島哲社長が就任した。1990(平成2)年に事務所を池尻大橋に構えるまでは、当社人事部内に事務局が置かれ、歴代事務局長も当社社員が務めるなど、この時期当社は日本の実業団陸上競技の中核企業の1つとして、陸上競技の発展に一定の役割を果たした。

■当社の陸上部

当社は、1958年から対外試合を目的に選手採用を開始し、1960年4月に「東京急行陸上部」を正式に創部し、競技選手育成を本格的に始動した。初代監督には中村清(のちにマラソンの瀬古利彦選手のコーチとしても著名)を招へいし、以降の監督は現役を引退した競技部員が務めた。東京・メキシコシティーの両オリンピック大会をはじめ、アジア大会などの日本代表選手を輩出した。やり投げでは、1962年のアジア大会金メダルのほか、日本陸上競技選手権7回優勝、日本記録更新9回を数える三木孝志、砲丸投げでは、1962年のアジア大会金メダルのほか、日本陸上競技選手権2連覇を達成した糸川照雄、走り幅跳びでは、日本人初の8メートルジャンパーとなった山田宏臣も当社所属選手であった。

全日本実業団対抗選手権(団体戦)では1965・1966年に2連覇を達成、全日本実業団対抗駅伝競走大会では1961・1963年に優勝するなど好成績を重ねてきたが、1980年前後から有力選手の採用が思うように進まず、競技成績も低迷が続いた。選手採用は1996年が最後となり、1998年3月をもって対外試合への出場を断念し、事実上の廃部となった。陸上部の部長は歴代の人事部長・厚生課長が務め、競技選手として採用された社員は延べ220人を超えた。

第13回東日本実業団対抗陸上競技大会での当社陸上競技部員(1971年5月)

■オリンピック出場選手
☆東京オリンピック(1964年)
○東京急行電鉄
【男子】8人
・山口 東一 1500m(1960年入社)
・船井 照夫 10000m(1962年入社)
・奥澤 善二 3000m障害(1960年入社)
・蒲田  勝 4×100mリレー(1963年入社)
・山田 宏臣 走り幅跳び(1964年入社)
・笠原 章平 ハンマー投げ(1962年入社)
・三木 孝志 やり投げ(1962年入社)
・糸川 照雄 砲丸投げ(1963年入社)
【女子】1人
・鳥居 充子 走高跳び(1964年入社)
○その他
・吉田 正美 4×400mリレー(1968年入社)
・清水 洋二 水球(東急不動産)
・柴田 征二 フェンシング(東急観光)
☆メキシコシティーオリンピック(1968年)
○東京急行電鉄
【男子】2人
・阿部 直樹 走り幅跳び(1968年入社)
・山田 宏臣 走り幅飛び(1964年入社)

5-11-2-3 [コラム]東急ボーイスカウトの発団と活動

1954(昭和29)年10月、五島慶太会長は静岡鉄道の「聖一国師堂」の落慶式に出席し、同社の子弟で組織されたボーイスカウトの凛々しい奉仕ぶりを目の当たりにして深く感動し、帰社するとすぐに企業内ボーイスカウト隊を作るように当時の専務に命じた。ボーイスカウト経験のあった社員を中心に、当初2人を隊長として東急ボーイスカウトを発足させた。家庭円満で社業に励めるように、社員の子弟を対象とした隊(東京130隊)と、当時、中学卒業の社員も採用していたため、その社員教育の一環としての社員隊(東京131隊)が1955年9月に誕生した。

第3回日本ジャンボリーでの東京130団(1962年8月)
出典:『はやぶさ』東急ボーイスカウト発団35年記念誌

歴代の育成会長は人事担当役員、団委員長は厚生課長が務め、事務局を厚生課内に置いて活動を続けた。※連盟規約改正により1958年には、東京131団、東京130団、1978年には渋谷4団(旧東京130団)と団号が変更された。

1955年9月に小学校6年~中学生を対象としたボーイ隊、1962年に高校生を対象としたシニア(現、ベンチャー)隊、1965年に小学校3年生~5年生を対象としたカブ隊、1980年に18歳~25歳を対象としたローバー隊、1994年に小学校1年生~2年生を対象としたビーバー隊が発隊した。

入団式の様子

共同募金活動・ハイキング・キャンプなどを通じて健全な青少年を育成するために活動し、日本ジャンボリー・世界ジャンボリーにも多数のスカウトや指導者を派遣した。企業内にボーイスカウトの団を持つ企業はソニー・当社など、ごく少数であったが、1983年にはスカウト総数が160人を超え、東京でも有数の団として活動していた。しかしその後少年野球・少年サッカーなどの振興により徐々にスカウト数も減り始め、1999(平成11)年に休団となり、44年に及ぶボーイスカウト活動が幕を閉じた。

なお2022(令和4)年現在も、髙橋和夫社長がボーイスカウト東京連盟維持財団の理事を務めている。

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