第5章 第5節 第2項 生活サービス機能の充実

5-5-2-1 たまプラーザ東急ショッピングセンターの開業

多摩田園都市の成長過程において、人口の定着と商業施設の拡充を同期させるのは至難であった。どの地域から、どのようなスピード感で人口増が進むのか予測が難しく、先行投資での出店協力を求めた東急ストアなど東急グループの流通部門各社も、当初は小規模の店開きとならざるを得なかった。そして、人口が急増したときにはもはや周辺の土地が手当できず、売場面積の拡大がままならないケースもあった。

一方、玉川髙島屋ショッピングセンター(世田谷区玉川、1969<昭和44>年開業)など、周辺の大型商業施設が消費意欲旺盛な住民の受け皿となっていた。そのため、田園都市線やマイカーで買い物に出かける住民が急増し、とくに耐久消費財や趣味品のような高額の買い回り品については、半分以上が多摩田園都市以外で購入しているとの調査データも明らかになっていた。このため1973年発表の「アミニティプラン多摩田園都市」では住民の生活を充足させることを主眼に、必要な都市機能の拡充を図った。なかでも商業施設の整備に優先的に取り組むことをめざし、鷺沼に1978年9月にショッピングセンターが開業した。しかし、同時期に計画していた、たまプラーザの商業施設は着工までに紆余曲折を経た。

たまプラーザはもともと、元石川第一地区の土地区画整理事業を進めるなかで、地区内南端に鉄道駅(計画当時は元石川駅)を設け駅北側の広大な土地を、当社が有効活用することを前提に、保留地として取得した経緯がある。たまプラーザを多摩田園都市の中心地として発展させることを企図していた当社は、駅北側のこの社有地に、多摩田園都市全体の住民を吸引できるほどの一大商業施設を構想していた。しかし、1974年3月に大規模小売店舗法(以下、大店法)が施行され、また社有地西側にイトーヨーカ堂が一足先に出店の名乗りを上げたことから同一商圏内の大型商業施設の総面積を規制する総量規制がかかるなど、事態は混迷した。

全体の構図としては、公園緑地化を求める地域住民、イトーヨーカドー(店舗面積7600㎡)に加えて当社のショッピングセンター(店舗面積合計3万2660㎡)が出店することに異論を唱える地元商店会、これとは反対に街の活性化に商業施設の整備を歓迎する声などが渦巻く格好となり、協議はなかなかはかどらなかった。

横浜商工会議所による事前調整により、1978年11月、当社は、ショッピングセンターの核テナントとなる東急百貨店と共同で、地元商店会の役員20人の参加を得て本格的な出店計画説明会をようやく開催することができた。これを機に話し合いはおおむね順調に進み始め、1979年6月に大店法第3条に基づく大型店出店の届出を行った。ショッピングセンターの商圏が横浜市のみならず川崎市にもまたがることから、両市の商工会議所は、全国で初となる広域商業調整協議会を設置し、1980年5月に開かれた第2回広域商業調整協議会で計画が承認された。また、住民側との協議はその後も続き、建物北側と駅前を結ぶ通行路の確保や、文化的な催事を行うプラーザホールの設置などで住民側の要望に応えた。

こうして「たまプラーザ東急ショッピングセンター」は1981年2月に着工、東急百貨店と専門店70店舗で構成される大規模ショッピングセンターが1982年10月に開業した。開業式典であいさつに立った五島昇社長は「多摩田園都市の流通拠点の画竜点睛(最後の大切な仕上げを意味する)」と形容し、今後は文化施設やスポーツ施設の充実にも取り組んでいくことを表明した。

たまプラーザ東急ショッピングセンターオープン日の様子
地元関係者も招待し開業のテープカットが行われた
たまプラーザ東急ショッピングセンター開業時には多くのお客さまが来館した

5-5-2-2 当社商業施設の「標準モデル」に

当社は、「たまプラーザ東急ショッピングセンター」の建設を進める一方で、多摩田園都市の住民の期待に応えられる商業施設とはどうあるべきか、1976(昭和51)年ごろから検討を重ねてきた。核テナントとして東急百貨店が入ることを前提とした計画であったが、都心立地の百貨店とは来店動機や来店頻度、購買行動も異なると見られ、その他のテナント誘致や施設全体の運営も含め、ゼロベースで考える必要があった。

そこで、当社が従来展開してきた商業施設のような不動産賃貸業における大家の立場にとどまることなく、デベロッパーとしてコンセプトの立案やテナントの選定・出店要請から着手して準備を進めることとし、プロジェクトチームを組成した。プロジェクトには、国内外で話題を集めている商業施設、都市周辺部で集客力を発揮している商業施設を視察・研究してきたメンバーや、多摩田園都市に暮らす住民のライフスタイルを熟知しているメンバーらが集結。東急百貨店の知見だけに頼ることなく、多摩田園都市におけるセンター施設の役割にふさわしい店づくりを志向した。

テナントの選定にあたっては、東急グループ各社と縁があるかないかに関係なく、多摩田園都市の商業施設にふさわしいと思われれば積極的にアプローチし、商業には明るくなかった若手のメンバーも飛び込み営業を繰り返しながら、新規のテナントを発掘していった。

開業後は、地域に溶け込んだ商業施設として末永く愛され、利用されるよう、地道に販促活動を展開した。なかでも1階に設けたプラーザホールでは、クラシック演奏会「月例コンサート」を日曜日に定例開催し、定員100人規模の小ホールながら、生の演奏が間近で楽しめると好評を博し、「たまプラーザ東急ショッピングセンター」ならではの特色ある販促活動となった。また全テナントの売上増進を支援すべく、各店との対話を重ねて販売現場の活性化に努めるなど、テナントとの共存共栄を図りながら商業施設そのものの価値を向上させる「たまプラーザ東急ショッピングセンター」の取り組みは、その後の当社の商業施設づくりの標準モデルとなった。

  • 1985年からスタートした「たまプラーザ夏まつり」では地域の皆さまと共に協力
  • たまプラーザ東急ショッピングセンター恒例のクラシック演奏会「月例コンサート」

5-5-2-3 その他、商業施設などの整備

多摩田園都市における1980年代の商業施設整備で、たまプラーザ東急ショッピングセンターに続く大型案件となったのが中央林間での東急ストア(GMS店)開業である。

当社は、田園都市線の西側終着点であり、小田急線との結節点ともなる同地にふさわしい地域開発を行うべく、社有地約2万5000㎡を活用して、大型商業ビル(東急中央林間ビル)、中央林間駅ビル、集合住宅の3つからなる駅前総合開発計画を立案。1980(昭和55)年12月、同計画と田園都市線延長計画(つきみ野〜中央林間間)を地元の大和市に提出し、具体的な協議を進めた。さらにこれと並行して、地元商店会との話し合いを急ぎ、1981年10月の出店協定書調印を経て、大規模小売店舗の届出を提出した。

ところが、大型店出店計画に伴う紛争が全国各地で頻発していた時節柄、通商産業省から出店自粛通達が出され、届出の受付は見送られた。その後、鉄道計画と一体的な出店計画であることを力説すると共に、範囲を広げて相模原地区商店会とも話し合いを行い、同商店会との出店協定書調印をもって再度届出を提出。1983年4月、大和市商店会の商業調整協議会の調整により、開店日を1984年10月以降とすることとした。

田園都市線中央林間駅開業時(右の東急中央林間ビルはまだ建設途中)
完成した「中央林間とうきゅう」東急中央林間ビル

こうした手続きの遅れから、中央林間駅ビルと東急中央林間ビルの同時竣工とはならなかったが、まず1984年4月に駅ビルが完成、東急中央林間ビルは翌年に完成した。両ビルは、ペデストリアンデッキで結ばれ、東急ストアが運営する「中央林間とうきゅう」が、1985年4月に開業した。併せて集合住宅「中央林間エクシード」2棟(合計102戸)が竣工し、中央林間駅周辺の風景は大きく変わった。この間には東急バラエティストア市が尾店が1980年4月に、東急ストアあざみ野店が1981年4月に開業した。

東急ストアあざみ野店(1982年)

また、文化施設の整備も検討されており、青葉台駅の改良工事に伴って駅ビルに文化ホールを開設する案が持ち上がったが、列車運行に伴う振動の影響が問題になると考えられることから見送られ、のちに同駅周辺で別途計画が進行することとなった。

5-5-2-4  CATVの開局と営業放送開始

当社は多摩田園都市の住民サービス向上と地域の付加価値づくりの一策としてCATV事業に参入することを決め、1983(昭和58)年3月に東急有線テレビ株式会社(1986年9月、株式会社東急ケーブルテレビジョンに商号変更)を設立した。これが現在のイッツ・コミュニケーションズ株式会社である。前述した3C戦略の一翼を担う事業であった。

CATVは、山間辺地のテレビ難視聴対策として、山頂などに設けた共同アンテナで放送電波を受信し、同軸ケーブルという電線で周辺家庭に分配するシステムで、1948年に米国で始まった。日本国内でも1955年ごろから一部地域で導入されてきたが、地理的条件などで電波が届きにくい難視聴環境を解消することが主目的で、配信内容の大半は、NHKや民放番組の再送信であった。

当社がCATVに着目したのは、有線放送に関する法律が議論され始めた1970年ごろである。多摩田園都市における地域コミュニティの形成に、将来的に双方向通信の可能性を秘めたCATVを活用することを企図し、サービス開始に向けた準備を開始した。

当時は土地区画整理事業が進行中であった嶮山早野地区を未来都市のモデルケースとして、モノレールや地域冷暖房システム、CATVの導入などを計画し、この内CATV導入計画が実現に向けて動き出した。具体的には、1970年に分譲開始した江田ビレジの208世帯を対象に、実験放送(無料)を行うこととし、江田ビレジ3棟の内1棟にテレビスタジオを設置。1972年10月に、空きチャンネルの第5チャンネルを使って、地域生活に密着した情報の放送を開始した。大都市近郊で民間企業が行う試みとしては国内初であった。

実験放送は3か月間行われ、地域住民に好評を得たが、当時の通信ケーブル(同軸ケーブル)が高価なうえに、伝送速度などの性能が十分でなく、技術的にも課題があり、有料化した場合の採算性も疑問視されたことから、事業化は見送られた。

1980年代に入ると、通信技術の著しい進展に伴って、CATVは多チャンネルが高画質で楽しめ、双方向通信も可能なニューメディアとして脚光を浴び始めた。こうしたなかで当社は、CATVによるネットワークが多摩田園都市全域の情報化への対応や、地域としての魅力づくりに資すると判断。東急有線テレビが、1983年5月に有線テレビジョン放送施設設置許可申請を行い、1984年2月に「渋谷区のほぼ全域」と「横浜市緑区(現在の横浜市青葉区と緑区)のほぼ全域」「町田市の一部」を対象として許可を取得した。

施設整備については、当社がたまプラーザ駅前に中心拠点となるたまプラーザ放送センターを、渋谷および青葉台にサブセンターを設け、同社に一括賃貸し、サブセンターから各戸への同軸ケーブル配線は同社が行うこととなった。これと併せてコンテンツの開発にも着手し、東急エージェンシーの関連会社である日本番組供給株式会社などと協力して、コンテンツの制作や購入などの準備を進めた。

こうして1987年10月に、東急ケーブルテレビジョンによる営業放送が始まった。当初のチャンネル数は30チャンネルで、VHFやUHF(以上は現在の地上波に相当)とNHK衛星放送の同時再送信が14チャンネル、CATVオリジナルとして映画やスポーツ、音楽、地域情報など16チャンネルを用意した。開局当時の料金は、加入金5万円、各戸に貸与するホームターミナル保証金2万円、宅内工事費2万円、月額利用料3900円で、別途追加料金を必要とするチャンネルもあった。

図5-5-3 1987年当時のサービスエリア
出典:イッツ・コミュニケーションズ『30th ANNIVERSARY  iTSCOM COMMUNICATION BOOK』
  • 東急ケーブルテレビジョンたまプラーザ放送センター
  • 東急ケーブルテレビジョン放送センター内 多チャンネル放送が開始された

放送開始当時の東急ケーブルテレビジョンの社長は『清和』1987年10月号で「スポンサー収入も予定通りいき、ペイチャンネルも思った通りいくとするならば、七年くらいで黒字になるという目算」と語っており、しばらくは赤字事業であることを覚悟のうえでの放送開始であった。

開局当初は、双方向サービスを提供することに主眼を置いていたため、双方向サービス用の装置が設置できる戸建住宅や新築の集合住宅のみに、サービス対象が限られていた。ようやく1989(平成元)年から既存の集合住宅にも設置することになり、加入件数増加の転機となった。また営業地域も1988年10月に世田谷区と川崎市宮前区の一部、1989年12月には目黒区と大田区の一部が加わった。

なお放送開始直後の反響としては、多チャンネルの楽しみもさることながら、画質が鮮明であることが喜ばれた。CATVになることで映像の解像度が変わるわけではなかったが、隣接するビルや集合住宅などの影響で電波障害を受けていた世帯や、多摩田園都市が丘陵地帯であるという地形的な影響からテレビが映りづらい世帯が少なからずあったからである。

5-5-2-5 [コラム]地下鉄1キロ分!

イッツ・コミュニケーションズ株式会社の創立30周年に発行された『30th ANNIVERSARY  iTSCOM COMMUNICATION BOOK 』にはこんなエピソードが書かれている。

1982年の暮れに、都市型ケーブルテレビ事業検討のためのプロジェクトチームがわずか3人で発足。 ~略~ そこで立てた事業計画は、240億円の投資をして10年後にも黒字にならないというものでした。
「240億円か、地下鉄1キロ分だな」

この計画を見た五島さんはこのように仰いました。
「東急はこの沿線に、鉄道を敷き、宅地を開発し、百貨店をつくり、ストアをつくってきた。いろいろな形で開発を進めてきたが、最後の総仕上げは『情報』だ。我々はこの沿線に『責任』がある。240億、いいじゃないか、やろう!」

この一言で、東急のケーブルテレビ事業は始まりました。

東急100年史トップへ