第5章 第7節 第1項 全国各地に広がる観光・レジャーの「点」

5-7-1-1 東急インチェーンの拡大と収益改善

1979(昭和54)年7月、当社は観光サービス事業本部内のイン事業部を分割してイン計画部とイン営業部を新設した。事業スタートした1973年に「5年以内に全国へ50店、客室数1万室」としていた目標は、1979年に「年間5店出店、1985年までに合計50店、1万室」と改められたが、これまで以上に新規出店を加速させる必要があることから、出店計画を専門部署とするイン計画部を設けたのである。将来の安定的な収益確保に向けた体制強化であった。

帯広東急イン

このあと、1980年に札幌、1981年に佐賀、蓼科、新潟、そして1982年には高松、帯広、いわき、北見、松本第二、吉祥寺と一挙に6店をオープン。合計で30店、客室総数5360室のホテルチェーンとなった。この内高松は四国で初めての出店で、松本は市内で2店舗目の出店であった。

いわき東急イン

積極的なチェーン拡大によって、イン事業は開業5年目の1977年度以降、営業利益を伸ばしていたが、1981年度に大幅に利益が縮小した。1982年度には新規出店の開業経費がかさんだこともあるが、初めて事業部門の営業赤字を計上し、1985年度には営業赤字が10億円超になった。ホテルの収入は客室収入と料飲収入に大きく分かれるが、東急インの場合は両方に課題を抱えていることが明らかとなった。

客室部門については、同価格帯のホテル新規参入により競争が激化した地域が少なからずあり、平均の客室稼働率が1980年度をピークに低下し始めたことが課題であった。後発ホテルの客室は、最新設備を備えるので、宿泊費が同等なら新しいホテルに宿泊客が流れがちであった。一方、料飲部門の収入は着実に増えて、1985年度には客室収入とほぼ同水準を占めるまでになったが、店舗を個別に見ると地元に浸透して収益を伸ばしていくまでに時間を要していた。

イン事業の立て直しに向けては、競争が激しい地域を中心に客室のリニューアル、宿泊客や宴会客誘致のための営業活動強化、直営店の事務作業を効率化するオンライン情報システムの導入など、さまざまな対策を講じた。また、店舗見直しとして、1974年に開業した鹿児島東急インを1985年1月に閉鎖し、至近に、大宴会場、結婚式場、レストランなども備え、重装備化した新たな鹿児島東急インを1987年7月に開業したほか、和歌山東急インは増築と全館リニューアルを行って、県内最大の宴会場設置と料飲施設充実、客室増設(28室)し、1985年10月に完成した。なお、松本市内では2店舗を運営していたが、1977年に開業した1号店を1986年5月末に閉鎖し、同年6月1日から松本第二東急インを松本東急インとした。しかし以上のような取り組みも、イン事業の抜本的な黒字化に向けた処方箋とはならなかった。

1987年4月に店舗単位での収支を本社で一括して把握、管理できるオンラインシステムが完成し、稼働したことから、店舗ごとの事業性の検証、不採算部門の再建策検討が可能になった。1988年1月の業務組織改正では、これに取り組むプロジェクトチームや、インチェーン全体の新たな運営体制を立案、実施するための部署が設けられた。こうした動きと共に、客室のグレードアップや客室管理の強化で単価向上を図り、また販促を強化し、折からの景気拡大にも助けられて、黒字に復帰。1989(平成元)年度には7億5900万円の事業部門の営業利益を計上した。

表5-7-1 東急イン事業1980年代の推移
注1:社内資料をもとに作成
注2:1980年度、1981年度、1987年度~1989年度は収入内訳が不明のため営業収益合計額のみ記載
表5-7-2 1980年代の東急インチェーン開業店舗、客室数、付帯施設
注1:「会社概要1989-1990」をもとに作成
注2:客室数・主な付帯施設は開業時点のデータ
注3:1986.6.1 旧松本東急イン(1977.10.8開業)の閉店により、松本東急インに名称変更

5-7-1-2 東急ホテルチェーン国内ホテル網完成とキャピトル東急ホテルの誕生

東急インと共に東急グループのホテル事業の中心を担う株式会社東急ホテルチェーンは、引き続き国内主要都市での、グレードの高いホテルの展開をめざした。当時は新設のホテルは採算ベースに乗るまで一般的に5~6年を要するとされていたが、同社では3年ごとに自社所有ホテルを建設し、その合間に他社からの賃貸物件でホテルを開業することで、会社全体の財務内容を健全に保ちながらホテル網の拡大を図ることを計画した。

1980年代最初の新設ホテルは、仙台東急ホテルである。同社は東北の拠点ともなる仙台での開業をめざして、10年余りにわたって適地を探していたが、仙台市内のメインストリートである青葉通り沿いに決定し、1980(昭和55)年10月25日に開業した。客室数は302室で、1500人収容の大宴会場をはじめとする大小宴会場や結婚式付帯設備などを備え、高級料理店やブティックなどのテナントも入り、東北随一の国際都市ホテルとなった。東北新幹線の開業が遅れたため、客室部門は予算未達であったが、開業決定時から地元企業や市民の期待は大きく、料飲部門は好調にスタートした。そして、1982年6月の東北新幹線(大宮〜盛岡間)開通後は、観光客やビジネス客が増加し、客室部門も予算を超える稼働となった。

仙台東急ホテル

1981年9月25日には都市ホテルと海浜リゾートホテルの性格を併せ持つ鹿児島東急ホテル(客室数206室)が開業した。当社が、旧鹿児島空港跡地を鹿児島県から取得し、ホテルとして建物を建設、賃貸したものである。東急不動産による赤坂東急ビルにみられたように、当社が建築主となり、設計は東急設計コンサルタント、建築は東急建設、内装は東急百貨店、ホテル経営は東急ホテルチェーンと、グループが結集した案件であった。しかしビジネス需要が強い西鹿児島駅や市街地中心部からは離れており、観光客の鹿児島での宿泊先は温泉地である指宿や霧島が多く、苦戦を強いられた。そこで、当社も連携して温泉の掘削に取り組み、1989(平成元)年1月に湧出に成功、温泉大浴場を備えるホテルとして活路を見いだすこととなった。

鹿児島東急ホテル

日本を代表する観光都市である京都でもホテルの適地探しが続いていたが、1980年12月に、西本願寺北側の堀川通りに面した閑静な一角を東急ホテルチェーンが取得し、京都東急ホテル(同437室)を建設、1982年10月15日に開業した。総工費120億円は同社始まって以来の大規模投資であったが、京都の街並みにふさわしい趣向を凝らした設計で、京都美観風致賞のほか建築業協会賞を受賞した。1985年7月に京都市の条例に基づいて古都保存協力税(古都税)の徴収が始まった影響により観光客が減少し、客室稼働率の低迷に苦しんだ時期もあったが、1988年3月末の条例廃止を受けて客足が戻り、同年度は開業以来最高の収入を上げた。

京都東急ホテル(2003年)

1983年11月10日には岡山東急ホテル(同240室)、1985年9月には金沢東急ホテル(同250室)が開業した。前者は野村不動産からの一括賃借、後者は金沢香林坊の市街地再開発事業(前述)に伴い当社が取得したホテル棟を一括賃借したものであった。

金沢東急ホテル(2003年4月)

東急ホテルチェーンは五大都市の一つ、名古屋でも早くから自社所有ホテルの候補地を探していたが、中心街に近い広小路通りに面した中京女子大学跡地を適地とし、1984年1月に取得した。東急インが近隣の栄地区に進出(1984年9月)する時期にも重なったことから、地元資本の同業者による反対運動に遭い、折衝には歳月を要した。名古屋に不足していた国際会議が可能な機能を設けることや、客室の稼働部屋数を最初は少なく設定し、段階的に拡大すること、などで合意に至り、1987年8月に名古屋東急ホテルを開業した。同ホテルは地下2階地上16階建てで客室数は568室、2000人収容の大宴会場など11の宴会場、室内温水プール、アスレチックルームなどを備えた豪華仕様で、総事業費は土地代を含めて300億円であった。中世欧州の宮殿を思わせる格調の高さは現地で大きな反響をもって迎え入れられ、1988年には市内のホテルで最高の収入を上げた。また、1989年には、京都に続いて建築業協会賞を受賞した。

名古屋東急ホテル
名古屋東急ホテル(ロビー)
名古屋東急ホテル(宴会場)

これをもって東急ホテルチェーンは北海道(札幌東急ホテル)から沖縄(那覇東急ホテル)の主要都市への出店を果たし、日本列島を結ぶことができた。

また、開業以来20年が経過した東京ヒルトンホテルが、ヒルトン・インターナショナル社との運営受委託契約の満了に伴って、1984年1月にキャピトル東急ホテルと名称変更し、東急ホテルチェーンの直営に移行した。東急ホテルチェーンが運営していたことは、一般的に、また現場従業員にもあまり知られていないという状況にあったため、1983年5月以降、PR活動を開始すると共に、同年6月には海外からの送客を担う海外セールスセンターを設置、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドンにオフィスを構え、同年7月、当社も含めて準備委員会を立ち上げて、開業準備を本格的に進めていった。新しいホテル名については、引き続き世界中の人たちに利用してもらいたいという願いから、一般公募とし、3万4778通の応募のなかから、同年6月に決定した。一方、サービスなどは変えることなく、すべてヒルトン・インターナショナル社から引き継ぐ方針とした。1984年1月1日午前0時を迎えると同時に、正面玄関のネームプレート、屋上のネオンサイン、食器、メニュー、爪楊枝、マッチ、石鹸に至るまで150種以上のすべての表示を、「キャピトル東急ホテル」に替える作業を開始し、営業を中断することなく朝を迎えるまでにいっさいの引き継ぎを完了させた。

キャピトル東急ホテル(2003年)

キャピトル東急ホテルとして開業した直後は、ヒルトン側からの送客がなくなったことで外国人宿泊客が減少し、さらに1984年9月に東京ヒルトンホテルインターナショナルが新宿に開業したことや、近隣に高級ホテルが出店したことも痛手となった。しかし東急ホテルチェーンは、外資系企業はもとより国内企業への営業活動に努めるなどして挽回を図り、国内利用客が増加した結果、1988年には、東京ヒルトンホテル時代にも達成できなかった総収入100億円超を達成した。のちのちまで、東急ホテルチェーンのフラッグシップの役割を担うホテルの誕生であった。

ヒルトン・インターナショナル社から学んだホテル経営は大きな財産となった。とくに収支管理における「部門別、勘定科目別の利益管理」「料飲原価の日別コントロール」「会計処理のマニュアル化による均一化」といった手法は、当時の日本のホテルではほぼ採用されていなかった。赤坂東急ホテルを皮切りに、他のホテルへもこうした収支管理のシステムの展開を進めた。 

その後、1990年5月2日にこれまでで最大規模(客室数704室)となる東京ベイホテル東急を、テーマパーク隣接地に開業した。同ホテルは、不動産会社から運営受託したものである。

なお、再開発に伴うビルオーナーの要請により博多東急ホテルアネックスが1987年8月に閉店したため、東急ホテルチェーンは全19ホテルとなり、これ以降はしばらく、既設ホテルの充実に注力することとなった。

東京ベイホテル東急

5-7-1-3 拡大する観光サービス事業

東急観光は、前章で述べた国鉄特選商品の販売(1979<昭和54>年)に続き、国鉄個札(普通乗車券など)の発売を当面の大きな目標としていた。国鉄の普通乗車券を取り扱うことは、旅行代理店としての格が上がる意味を持っていたとされており、売上面のみならず社員の士気向上にもつながると考えられた。日本交通公社、日本旅行、近畿日本ツーリストに続く4社目として1981年4月に認可され、ようやく大手他社と肩を並べることができた。

これまで東急観光の営業所では、カウンターを訪れた個人客の旅行手配を行う際、飛行機や宿泊施設の予約はその場でできたものの、旅行先への交通手段として国鉄を使う場合は、近くの国鉄の駅や先行3社の代理店へ取り次ぎするか、申込者本人が別途手配する必要があった。国鉄個札の発売認可は営業所ごとに判断されていたため、1981年4月時点では12か所、1982年8月に16か所となったが、同年10月についに国鉄のマルス(座席指定券類の予約・発券システム)と東急観光のシステム(TOPS-TCⅡ)のコンピュータ結合が実現し、取り扱い営業所は一気に40か所に拡大した。これにより、カウンターに居ながらにして国鉄の乗車券や特急券、座席指定券、寝台券などが発券できるようになり、旅行代理店窓口にふさわしいワンストップサービスの体制を整えることができた。

1978年からは商品名に「トップツアー」を正式にホールセール商品として採用した。さらに1979年以降順次ロゴタイプとブランドマークを制定し、ブルーのコーポレートカラーを用いてそれまでのイメージを一新するCIを採用した。

ブルーを基調としたブランドロゴ
出典:『旅路30年-東急観光30年史-』

なお、国鉄とのコンピュータ結合については、1975年10月開発に着手した。営業と経理のオンライン化をめざした「TOPS-TCⅠ」は、これまでのシステムとは比較にならない規模であり、担当者は徹夜作業の連続であったが、1978年1月に稼働を開始した。

そして、同年10月には国鉄からマルスとの結合認可を受け、国鉄と航空券予約システムとのオンライン結合も進め、1979年11月に東亜国内航空との結合が完了。1982年7月のマルスとの結合に対応するために更新した「TOPS-TCⅡ」が稼働を開始し、さらにその1週間後に日本航空、全日本空輸の航空券予約システムと結合を完了、同年10月に国鉄マルスとのシステム結合が完了した。

新型のC型端末機
出典:『旅路30年-東急観光30年史-』

この間には、東急グループの情報化の拠点となる「東急市ヶ尾情報センター」が1982年4月に竣工している(詳細は後述)。東急市ヶ尾情報センターは、主に当社、東急不動産、東急観光の3社の情報処理を念頭に置いて設置した施設で、「TOPS-TCⅡ」の稼働を控え、同年5月からコンピュータ機器、電算室を渋谷東急プラザ7階から順次、市ヶ尾情報センターに移転した。

図5-7-1 「TOPS-TCⅡ」稼働開始に伴う従前の旅行予約手配の変化
出典:東急市ヶ尾情報センター「TOPS-PCⅡ概要」

こうしたオンラインシステム化は同社の成長に大きく寄与した。1977年10月に「プロジェクト55」と題した3か年中期計画を、1980年1月に「プロジェクト80」と題した長期計画を策定して、上位3社に迫っていくことを明確に出し、団体旅行から小規模グループ、家族へと小口化していく旅行スタイルの傾向に合わせた諸施策を講じると共に、新たな市場の開拓でシェア拡大を狙った。そして取扱額は、1979年12月期決算で1000億円を達成し、国鉄マルスと結合した翌年度の1983年度決算で1500億円、1986年度には2000億円を達成した。急成長を遂げるなかで、東急観光は1981年7月に東京証券取引所第二部に上場、さらに1987年6月には同第一部に昇格を果たした。旅行業界で第一部上場は近畿日本ツーリストに次ぐ2社目であった。

しかし、この後事業者間の価格競争激化により利益率が悪化し、当期純利益は1986年度の736百万円をピークに下降線をたどり、1990(平成2)年度決算では営業赤字に転落、当期純損失を計上するに至った。

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