第5章 第8節 第1項 着々と実現し始めた環太平洋構想

5-8-1-1 ハワイでゴルフ場とホテルが開業

五島昇社長の提唱する「環太平洋構想」の下、1970年代から本格化した海外進出のなかでも、ハワイは重要拠点であった。ハワイでの展開は、オアフ島のワイキキビーチに面したハワイアン リージェントホテルと、ハワイ島北西部コハラ地区の総合リゾート開発が2本柱になっていた。

まずハワイアン リージェントホテルは、THIハワイ社が資産を保有し、東急ホテルズ・インターナショナルがマネジメントを受託していた。第一次オイルショックの影響などから一時は年10億円単位の赤字を出し、ちょうど新土地税制で日本国内の開発業が岐路に立たされていた時期であったことから、社内では売却論も出ていた。しかしその後、オイルショックからの立ち直りやハワイ人気の上昇に伴って持ち直し、1979(昭和54)年12月期にTHIハワイ社が初めて6%配当するまでに業績を回復した。とくに1981年12月期以降は好業績が続き、海外事業の稼ぎ頭となった。1981年12月には、商号をエメラルド ホテルズ コーポレーション(以下、エメラルド ホテルズ社)に変更した。

ハワイ島北西部コハラ地区の総合リゾートは、1978年6月、当社内にマウナ ロア ランド開発本部が設置されてから、現地での工事が本格化した。第一期分の事業地となったのは市街化開発区域に指定された330万㎡で、4ホテル(客室数合計2000室)、コンドミニアム2000戸、ショッピングセンター、ラケットクラブ、ビーチクラブ、レストラン、ゴルフコース2か所の建設を計画。この内、6階建てのホテル1棟とコンドミニアム80戸、ゴルフコース(18ホール)の建設を先行させた。

図5-8-1 マウナ ラニ リゾート案内図
出典:ファクトブック『天国に手が届く丘・・・マウナ ラニ リゾート』(2012年ごろ)
建設予定地のサウス・コハラ地区

1980年9月に、リゾートの名称を「マウナ ラニ リゾート」に決定した。これに合わせて、開発主体であるマウナ ロア ランド社の社名もマウナ ラニ リゾート社(MAUNA LANI RESORT,INC.)に変更した。マウナ ラニは「天国に手が届く丘」を意味する言葉で、ハワイを代表するリゾートになることを願って命名したものである。

各施設の先陣を切って、1981年7月にゴルフコースが開業した。名称は、五島昇社長が共に夢を語り合ったパートナーの名前を冠して、「フランシス・H・I'i・ブラウンコース」とされた。開業式典には五島昇社長をはじめ、現地の州知事、政財界の名士など約500人が列席した。同ゴルフコースはマリンブルーの海と雄大な山の景観が美しい本格的なチャンピオンコースで、ホノルル市長からは「ハワイで一番美しいコース」と絶賛された。とくに海越えでグリーンを狙う6番ホールは、ダイナミックなプレーが楽しめると評判を呼んだ。また1990(平成2)年1月には、「シニアスキンズ ゴルフゲーム」が開催され、A.パーマー、J.ニクラウスなどの往年の名選手がプロのテクニックでギャラリーを楽しませ、全米に放映されるなど注目を浴びた。

ゴルフコースの案内
出典:ファクトブック『天国に手が届く丘・・・マウナ ラニ リゾート』(2012年ごろ)

ゴルフコースに続いて1983年2月にはマウナ ラニ ベイ ホテル(客室351室)が開業した。海に向かって矢印を描くような個性的なデザインで、大半の客室がオーシャンビューである。同ホテルは、マウナ ラニ リゾート社の完全子会社として1982年2月に設立されたマウナ ラニ ベイ ホテル社が所有し、運営はエメラルド ホテルズ社が担当した。また同ホテルの建設と並行してコンドミニアムの建設も進め、1983年マウナ ラニ テラス、1986年マウナ ラニ ポイント、1992年ジ アイランズ アット マウナ ラニがそれぞれ竣工した。1989年12月には超高級バンガローがオープンし、ホテルの名称がマウナ ラニ ベイ ホテル&バンガローズとなった。同ホテルは全米自動車協会から、ホテルとしては最も栄誉あるファイブダイヤモンドを受賞し高い評価を受けた。

ハワイ島 マウナ ラニ ベイ ホテルとコンドミニアム

5-8-1-2 カナダなど北米西海岸の拠点が4か所に

米国ワシントン州シアトル市郊外のミルクリークで、当社の関連会社であるユナイテッド デベロップメント社が1974(昭和49)年に開発に着手し、緩やかながら街づくりが着々と進んだ。人口が増し、1983年にはワシントン州から自治権を得てミルクリーク市となった。

米国でこれに続いたのが、カリフォルニア州・アナハイム市でのホテル開業である。エメラルド ホテルズ社が現地資本と共同で、有名遊園地近接地に建設を進めていたもので、1984年5月にエメラルド オブ アナハイム(客室508室)としてオープンした。米国本土でのホテル事業はこれが初めてとなった。これによりエメラルド ホテルズ社は、ハワイアン リージェントホテル、マウナ ラニ ベイ ホテルを含め3ホテル2205室を擁する海外ホテルチェーンとなった。

エメラルド オブ アナハイム(1984年)

1980年代には、ビル事業で海外展開にも踏み出した。そのきっかけとなったのが、カナダ政府の「カナダ・プレース・プロジェクト」への参加である。同プロジェクトは、1986年にバンクーバー市で開催される万国博覧会(バンクーバー国際交通博覧会)に向けて、桟橋を大改造し、カナダ政府館やホテル・オフィス複合ビル、クルーズシップ用ターミナルなどを建設するもので、博覧会終了後は政府館をトレード&コンベンションセンターに転用することが計画された。

このプロジェクトには世界各国から14社の参加応募があったが、カナダ政府による資格審査を、カナダ企業3社と、海外企業では唯一当社がクリア。4社によってホテル・オフィス複合ビル(地下2階、地上22階建て)建設のための空中権(ホテル15階とオフィス5階、合計20階分を建設するための権利)入札が行われ、当社が独占交渉権を取得した。当社は、カナダ ハーバー プレース コーポレーション(カナダ政府が設立した公社、以下、CHPC社)と1983年10月に本契約を締結。空中権の取得とCHPC社が建設する下層部分の一部取得(共に99年間リース)、ホテルとオフィスの建設費、開業費、建設中の利息も含め、総額1億3000万カナダドル(約260億円、当時)もの巨大投資であった。

この事業推進のための現地法人として、当社は全額出資(のちに当社81.2%、東急グループ18.8%)でトウキュウ カナダ社(以下、東急カナダ社)を1983年10月に設立。1984年5月に当社分の工事に着手し、ホテル部分がパン パシフィック バンクーバー(客室505室)、オフィス部分がワールド トレード センターとして1986年1月より順次オープンした。ホテルのマネジメントは東急ホテルズ・インターナショナルに委託した。

建設中のパン パシフィック バンクーバーとワールド トレード センター

1987年には、米国カリフォルニア州サンディエゴ市の再開発局が進めていたダウンタウン街区再開発のプロジェクトに参画した。同年7月に設立した現地法人サンディエゴ 109 インクと現地不動産開発業者と合弁(当社側の持ち分割合70%)して、ホテル棟(地上29階建て)とオフィス棟(地上30階建て)からなるツインタワー「エメラルド シェイプリーセンター」の建設を行うこととなり、1988年1月に着工した(所在地 サンディエゴ市 西ブロードウェイ、敷地面積5000千㎡、興業費110百万ドル<165億円、当時150円/ドル>)。オフィス棟の開業は1990年、ホテル棟の開業は1991年で、ホテルのマネジメントはエメラルド リゾーツ アンド ホテルズ社に委託することとした。

サンディエゴのエメラルド シェイプリーセンター(やや右の六角形が印象的な建物がホテル パン パシフィック サンディエゴ)

こうして1980年代、カナダを含む北米西海岸での開発は、先行したミルクリークを含め4か所に広がった。

5-8-1-3 中国、シンガポール、ニュージーランドに初進出

アジアおよび太平洋諸島諸国では、当社や東急ホテルチェーンなどグループ各社が出資していた東急ホテルズ・インターナショナル(以下、THI社)が、ホテルのマネジメント受託を進めていた。1970年代末の時点ではソウル東急ホテル(韓国)、ホテル ル ラゴン(ニューヘブリデス諸島、1980<昭和55>年7月に英仏共同統治より独立してバヌアツ共和国)、ホテル サリ パシフィック(インドネシア)、慶州東急ホテル(韓国)のマネジメントを受託。1980年代に入ると、1981年8月19日開業のショナルガオン ホテル(バングラデシュ)、1984年12月10日開業のパラオ パシフィック リゾート(パラオ)、1985年12月15日開業のパン パシフィック クアラルンプール(マレーシア)とマネジメント受託を拡大した。

パラオ パシフィック リゾート

マレーシアについては、マレーシア政府与党統一マレー国民組織(UMNO)が、国際レベルの会議ビル、オフィスビル、ホテルの開発を計画しているという情報を得て、1981年THI社はマハティール副首相(当時)に手紙を送って交渉を始めたものだった。五島昇社長も副首相と直接会談して交渉をサポートし、1983年に合弁契約書と運営契約書が締結された。1986年3月にホテルの全館開業式典が行われ、マハティール首相(当時)をはじめ多くの同国政府閣僚も出席した。クアラルンプールにホテルができたことでTHI社はのちに、マレーシア国内各地でのホテル運営につなげることができた。

1982年8月には、後発で大型ホテルが次々と開業した影響により、ソウル東急ホテルを閉鎖しており、アジア・太平洋諸島諸国でのマネジメント受託ホテル数は合計6となった。

さらにこのころ、中国、シンガポール、ニュージーランドにも事業を展開し始めた。

中国は、1979年9月に五島昇社長を団長とする「東急グループ訪中団」が中国各地を訪問し、各所の視察や要人との会談を行ったのが、縁の始まりである。1972年9月の日中国交正常化を機に中国を訪れる団体は数々あったが、中国政府に招かれた単独企業グループの訪中団はこれが初めてであった。以降、中国交通運輸訪日団による多摩田園都市の視察、中国道路技術調査団の受け入れなど交流を重ねてきた。

こうしたなかで五島昇社長は、同じ事業家として中国国際信託投資公司(現、中国中信集団公司)の栄(簡体字で草冠に宋、以下同)毅仁薫事長(のちの第6代国家副主席)と意気投合。当社と無錫市旅遊総公司、中国国際信託投資公司の3社合弁(当社49%出資)により、1986年6月10日に無錫大飯店有限公司を設立し、栄の出身地である無錫市(中国江蘇州)でホテルの建設・運営を行うこととなった。当社はもちろん東急グループにとって中国は初めての進出先であった。

中国経済使節団訪中時に握手を交わす栄毅仁薫事長と五島昇社長(1985年3月)

無錫大飯店は当初、中国国内客を対象として計画されたが、当社の参加により無錫市では初めての本格的な国際ホテルとして整備を進め、1989(平成元)年4月8日にグランドオープンした。1990年6月には中国国内のホテル格付けで4スター(最高は5スター)を獲得、江蘇州では最高グレードのホテルと評価された。

日中合弁ホテルの無錫大飯店

シンガポールに最初に進出したのは、東急不動産である。高級住宅地として知られるクレイモアヒルで、1980年初めから土地を取得した。地下1階・地上26階建てのコンドミニアム2棟(ザ クレイモア)を建設した。当時シンガポールはASEAN諸国のなかでも著しい経済発展のさなかにあり、進出には絶好機であった。また、シンガポール都市再開発局ではマリーナセンターと呼ばれる広大な埋立地を造成し、劇場などの文化施設、マリーナ、学校や住宅などを整備する計画を進めており、現地企業と米国企業の合弁により、1979年11月に設立された。マリーナ センター ホールディング社(以下、MCH社)が、この計画区域内の約9万2000㎡の土地の開発権を有し、3つのホテル(客室合計約2100室)、4つの百貨店のほか、スーパー、小売店舗、映画館の建設を計画していた。この情報をTHI社から得た当社は、シンガポール開発プロジェクトチームを編成し、シンガポール政府当局やMCH社との交渉を開始し、MCH社に出資することとなった。

その結果、3つのホテルの内最も大きなホテルのマネジメントをTHI社が受託すること、4つの百貨店の内1つに東急百貨店がテナントとして入居することについて合意が得られ、1981年に当社とMCH社の間で基本契約を結んだ。ホテルについては1987年2月にパン パシフィック シンガポール(客室800室)として開業。1000人を収容できる宴会場、500人を収容でき国際会議にも対応できる大会議場などを併設した、国際ホテルの誕生であった。

パン パシフィック シンガポール

ニュージーランドの進出先はオークランドである。THI社ではオセアニア地域におけるネットワークづくりの拠点を以前から探していた。豪州・ニュージーランド地域でのホテル開発への関心が高まったこともあり、1985年12月ニュージーランドの北部に位置するオークランドに、パン パシフィック プロパティーズ社を設立し、ホテル建設プロジェクトへ参加することとなった(1987年10月にパン パシフィック プロパティーズ社の株式は当社に譲渡)。

1990年オークランドのホテル開業当時、THI社のオセアニア地域のホテルは、ホテル ル ラゴン(ニューヘブリテス諸島)と、前年に開業したばかりのパン パシフィック ゴールドコーストであった。

5-8-1-4 [コラム]太平洋地域の発展に尽力した五島昇社長

五島昇社長が太平洋地域の発展について思いを寄せ始めたのは、戦後、軍務を解かれた元青年将校らにより青年懇話会が行われた時期にさかのぼる。日本が主権を失ってGHQの占領下に置かれ、かつてのリーダーたちは追放されて不在、労働組合運動が激化する混沌とした状況のなかで、懇話会は日本の将来について持論をぶつけ合い、議論を尽くす場となっていた。当時のメンバーは大半が官庁在籍者で、のちに首相となる中曽根康弘も常連の一人であった。

ここで、たびたび俎上にのぼったのが太平洋諸国との関係である。五島昇社長は、太平洋地域が、米国や欧州と対等なパワーバランスを持つ第三極になり得るのではないか、かつての大東亜共栄圏とは異なるアプローチで日本が指導的な役割を果たすことで地域全体の活性化に導くことができるのではないか、との考えを抱くようになった。

1953(昭和28)年にプロペラ機を乗り継いで初めてハワイを訪問した際、乗り継ぎで降り立った島しょ部にも興味を募らせた。グアム東急ホテルの開業(第4章)で触れたグアム島もその一つである。とくに環境や自然について、欧米とは異なる価値観を持っている点には大いに魅せられた。のちに、東急不動産がデベロッパーを務めたパラオ パシフィック リゾートは、「ヤシの木よりも高い建物を作ってはならない」というパラオ現地の規制に共鳴した好例である。また1985年末にはフィジーの首相からの働きかけで、フィジー国ラウ諸島マンゴ島(5411エーカー/2万1897千㎡)を購入し、20年間は手をつけないと言明した。環境保全と観光開発を両立させる手法を見出すには、それくらいの歳月が必要と考えたからである。

前章でも記したように、五島昇社長は1966年6月にバロン後藤(ハワイ大学農学部の外部教授として戦前からコナ地域のコーヒー農家の指導にもあたっていた日系二世、Baron Goto,日本名 後藤安雄)の案内により太平洋地域を歴訪して同地への造詣を深め、アジア、オセアニア、北米西海岸までを範囲とする環太平洋諸国での事業展開を脳裏に描いた。これと同時に、経済発展の可能性を秘めた太平洋地域諸国の横のつながりが重要と考え、1967年に各国経済界の重鎮によって発足した民間国際組織PBEC(太平洋経済委員会)に参加。1972年開催の総会で、人間と自然の調和という問題を「シャングリラ計画」として提案し、国際的にも注目された。1979年にロサンゼルスで開かれた年次総会では、PBEC日本委員会委員長としてあいさつに立ち、「PBECは、太平洋経済共同体(=PEC)の創設に向けて活動を開始すべき」と提案、満場一致で支持された。PECは、いわばEC(欧州共同体)の太平洋地域版である。この提案に呼応するように、五島昇社長と親交の深かった大平正芳首相が「環太平洋連帯構想」を提唱し、国際的な関心を集めた。

五島昇会長は1989(平成元)年3月に日本経済新聞で連載された「私の履歴書」最終回で、残りの人生を捧げる対象として、太平洋地域諸国の組織化に向けたPBECの活動をまず挙げた。人生の後年において、太平洋地域の発展は自身のライフワークでもあったが、この最終回が掲載された日、五島昇会長はすでに天上の人となっていた。

海外進出の音頭をとり続けた五島昇会長の喪失(1989年3月逝去)は、当社および東急グループにとってあまりにも大きなインパクトであった。

五島昇社長(「東急まつり」にて 1987年4月17日、五島美術館)

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