第5章 第4節 第2項 航空事業は待望の国際線就航へ

5-4-2-1 エアバス就航と東京〜大阪線への参入

航空業界の運営政策や、各社の事業領域のすみ分けを定め、航空憲法とも呼ばれた「45・47体制」の下、東亜国内航空は長らく、国内幹線と国際線を担う日本航空、国内幹線を中心に担う全日本空輸とは異なる道を歩んできた。それは東京(羽田空港)や大阪(伊丹空港)と地方空港を結ぶ路線、そして地方空港同士を結ぶ路線、いわゆるローカル路線で地力を発揮するという道であった。

国内の航空需要は1970年代に飛躍的に伸び、これに呼応するように日本航空と全日本空輸は大量輸送に適した大型機材を導入した。ローカル路線で利用者が増加している路線が少なくないことから、東亜国内航空は大型機材の導入を検討した。1978(昭和53)年3月に運輸省に大型機などの購入意向を説明し、複数機材の比較検討を経て、欧州5か国の共同組織体であるエアバス社のエアバスA-300型機の導入を決定した。

エアバスA-300型機は中・短距離路線に適した大型ジェット機(281席)で、滑走路の長さが2000m級の空港でも離着陸ができる機能を有し、低騒音・省燃費に優れた機材であることも決め手となった。1979年2月にはエアバス社と6機購入の契約を締結、1980年12月に1号機を受領したのを皮切りに、1983年にかけて全9機を購入した。

しかしこの間に、航空需要は1970年代のような急速な伸びが失速していた。1979年の第二次オイルショック、1982年に起きた羽田沖の航空機事故、同年の東北・上越新幹線開業(大宮駅起点)など、国内航空事業を取り巻く環境が変わり、1980年代に入ってからは輸送旅客数がおおむね横ばいとなったのである。このためエアバスA-300型機のフル稼働には至らず、1983年末の時点で9機の内2機が未稼働のままで、貨物輸送での稼働も検討されたほどであった。

こうした苦しい経営環境のなか、1983年6月には日本国内航空の前身の一つ、富士航空出身の新社長が就任し、不採算路線の見直しなどを実施して経営再建に注力。さらに国内最大幹線である東京〜大阪線への参入、1988年に第一期竣工が予定されていた羽田空港沖合拡張に伴う発着枠の確保など、将来の発展に向けた働きかけを積極的に行った。

過去をさかのぼれば、日本国内航空時代に東京〜大阪線の路線免許を有しており、1968年から深夜便限定で運航した実績がある。しかし、大阪空港周辺の騒音対策として夜間発着制限が実施され、1973年6月以降は運休となっていた。

東亜国内航空では、騒音対策の一環で設定されていた「大阪空港での1日あたりのジェット機発着枠200回制限」に若干の余裕があることに着目し、関係官庁や地元など各方面への働きかけを粘り強く行った。その結果、1983年10月に地元関係11市の了承を得ることができ、東京~大阪線への参入が決定した。同年11月からエアバスA-300型機で1日1往復の運航を開始、1984年1月からは1日2往復へ便数を増やした。

ビジネス利用が多くドル箱路線といわれていた東京〜大阪線の開業がもたらした業績インパクトもさることながら、これまで発着基地として分断されていた東京と大阪の連動が図られることとなり、機材のローテーションやコスト低減、乗務員の稼働効率の向上など副次的なメリットも得られることとなった。

5-4-2-2 社名変更と、国際定期便就航開始

国内の航空会社3社の事業割当を定めてきた「45・47体制」は、米国での自由競争時代の幕開けが発端となって見直しが必至となり、1985(昭和60)年12月の閣議決定により廃止となった。1986年6月には運輸政策審議会が新航空政策を答申。これにより日本航空の独占であった国際線の複数社制への移行、日本航空の民営化、国内線の競争促進がなされることとなり、自由競争の時代を迎えた。

折しも1986年ごろから国内の航空旅客需要が回復の兆候を見せており、東京〜大阪線の運航も軌道に乗り始めていた東亜国内航空の業績は好転、80億円まで膨らんでいた累積赤字を1986年度に一掃した。そして同社は、航空行政の一大転換の機を得て、国際線参入に向けた準備に着手し、2年後にソウルオリンピックの開催を控えていた韓国側との交渉を開始。まずはオリンピックのプレ大会として開催されるアジア競技大会での国際チャーター便の運航が決まり、1986年9月に第1便が飛び立った。

その後は香港やパラオ、グアム、シンガポールへの国際チャーター便でも着々と実績を積むと共に、国際定期便の就航に向けた体制固めを始めた。国際チャーター便は相手国の担当官庁の承認さえ得られれば就航できるが、定期便となると国家間の航空権益が絡んでくるため、政府間の交渉に委ねなければならない。これについては1988年初頭の日韓航空交渉で進展があり、両政府の合意を経て、東京〜ソウル間の国際定期便就航に道が開けることとなった。

こうした動きのなか、1987年3月には株式を東京店頭市場に登録した。売出価格7260円に対して3万円の初値を付け、一般投資家からの期待の大きさをうかがわせた。

本格的な国際線参入を間近に控えるなかで同社は、かつての大東亜共栄圏を連想させる「東亜」や、国際線就航にはふさわしくない「国内」が入っている社名を変更することを決定。すでに1986年12月に募集していた新社名案のなかから順次絞り込みを行い、1988年4月に株式会社日本エアシステム(略称JAS)に社名を変更した。

同年7月に、尾翼に「JAS」のマークを刻んだエアバスA-300型機が、東京〜ソウル間、週5便の就航を開始。宿願であった国際定期便運航会社となって、先行2社を追走する体制を整えた。

日本エアシステム初の国際定期便に使用されたエアバスA-300型機
出典:『とうきゅう』1988年9月号

5-4-2-3 [コラム]もう一つの翼、新中央航空

東急グループには日本エアシステム以外にも航空会社があった。

新中央航空株式会社は、当社が100%出資して1978(昭和53)年12月に設立した会社で、1979年2月に運輸省航空局から「不定期航空運送事業」の事業免許を取得した。

同年3月に解散する旧中央航空の資産および営業権を継承し、東京都調布市の調布飛行場と東京都島嶼部(伊豆諸島)の新島空港を結ぶ「調布〜新島」の路線を開設した。調布と伊豆諸島を結ぶ路線としては、1984年12月に「調布〜大島」も加えた。

さらに、新潟県や佐渡の市町村長からの要請に応えて、従来は日本近距離航空が運航していた「新潟〜佐渡」間の路線を継承し、1980年10月に運航を開始した。

伊豆諸島との路線には当初アイランダー双発機(9人乗り)を使用していたが、これに代わって1987年からノーマッド双発機(15人乗り)を就航させた。新島ではサーフィンなどのマリンスポーツが盛んで、生活路線のみならず、観光路線としても注目を浴びていたからである。

同社ではこうした不定期航空運送事業のほかに、航空機使用事業(航空写真、観測・測量、宣伝、東京湾パトロール、取材・視察、災害救援協力飛行)、クラブ飛行(操縦訓練)、飛行場および施設のサービス事業、航空機の整備サービス事業を行った。

調布飛行場~新島空港の新中央航空定期便で新島空港に降り立つ乗客
出典:『とうきゅう』1979年9月号

また、1983年7月に東亜国内航空の60%出資により日本エアコミューターが設立され、鹿児島県の奄美空港と周辺の群島を結ぶ路線を開設した。

大洋航空株式会社は、1974年に当社が買収した航空会社で、同社は航空路線を持たず、少人数での遊覧飛行や航空機使用事業、群馬県館林市に保有していた飛行場の管理をしていた。

鹿児島県・徳之島空港で乗客を乗せる19人乗りの日本エアコミューター西独製ドルニエ機
出典:『とうきゅう』1984年9月号

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