第5章 第9節 第1項 変貌を遂げる渋谷の街

5-9-1-1 東京オリンピックが渋谷に与えたインパクト

渋谷は戦後から現在に至るまで、時代の動きと共にさまざまな変貌を遂げてきた。東急グループにおいて渋谷の活性化に向けて長らく調整役を務めてきたのは東急百貨店であった。ここでは前章でも触れた國學院大學の「渋谷学研究」における知見を盛り込みながら、渋谷という街の形成過程について改めて振り返り、東急グループの展開を点描しておく。

『渋谷学叢書 2 歴史のなかの渋谷』(上山和雄編著)において上山和雄は、戦後から1960年代までの渋谷の変化を描写している。戦後間もなく形成された渋谷駅周辺の闇市が、1957(昭和32)年開業の「しぶちか」などに移転して戦後復興の一端を示したことなどにも触れているが、とくに関心を向けているのが東京オリンピック(1959年に開催地が東京に決定、1964年開催)が渋谷にもたらした影響である。

東京オリンピックの主会場が明治神宮外苑を中心とする明治公園に設定され、選手村も結果的に旧代々木練兵場跡、米軍将校用宿舎となっていたワシントンハイツに設けられ、さらにサブ会場の位置づけになる駒沢公園が渋谷駅から約六キロ、東急電鉄玉川線、放射四号線(国道二四六号線、厚木街道)の沿線であったことにより、渋谷はオリンピックの中心となり、大きな変容を遂げることとなった。

「シブヤ」が全国的に知られるようになった大きな要因の一つは、NHKテレビを通じて、渋谷の街かどが毎日のように流されるようになった点にある。

東京オリンピックの開催に向けた関連工事が、関東大震災からの復興、戦後復興に次ぐ「第三の東京改造」に相当すると上山和雄は指摘しており、とくに首都高速道路をはじめとする交通インフラの整備が都内で急速に進んだことは周知の事実でもある。とりわけ渋谷にとっては、主会場が集まったこと、初めての「テレビで観るオリンピック」の実現に向けて会場近くにNHK放送センターが移転され、その結果として「渋谷」が全国的な知名度を得るに至ったことに、注目しておきたい。

5-9-1-2 若者の街・渋谷の形成

上山和雄はまた、『渋谷学叢書 4 渋谷らしさの構築』(田原裕子編著)に収録された「第一章 首都圏整備と東京、渋谷」のなかで、行政の上位計画と渋谷の変遷について考察している。これによれば1956(昭和31)年に首都圏整備法が施行され、1958年に第一次首都圏整備計画が策定したものの、現下の急速な変化(東京の人口膨張、都市機能の東京一極集中化)とは必ずしも整合性がとれず、計画の改訂を模索するなかで、都市機能を分任する副都心の整備が構想として熟し、やがて新宿・池袋・渋谷を副都心とすることが定まった。

この内、新宿と池袋は、広大な面積の公共施設跡地を活用して開発が具体化していくが、渋谷では、第3章で記したように地元商店街や町内会、渋谷と縁の深い企業・団体が手を組んで渋谷再開発促進協議会を組織し、民間主導で再開発計画(1966年の「渋谷再開発計画66」および1971年の「渋谷再開発計画70」)を立案した。渋谷区が1973年に策定した「渋谷区長期基本計画」にも、この構想の大枠が継承された。

これらは渋谷の都市基盤(環状道路や歩行者専用道など)を一から見直すことを含んだ大がかりなもので、当時はさまざまな問題から全面的な実現には至らなかったが、構想の多くは、2000年代に進む渋谷再開発にも通底する価値観として受け継がれることになる。

さて、渋谷では広大な用地を一括で活用した副都心の形成には至らなかったが、高所得層の住民が多く居住する後背地を抱いていたことから、1967年以降、数々の商業施設が宇田川町一帯や神南方面に点在し始め、駅前に集中していたにぎわいが面としての広がりを持ち始めた。東急グループの商業施設展開では東急百貨店本店(1967年開業、1970年増築)、東急ハンズ渋谷店(1978年開業)、ファッションコミュニティ109(1979年開業)がこれに相当する。

こうしたなかで渋谷は多くの若者たちを吸引し始め、原宿を含めた「広域の渋谷」がオシャレな街、サブカルチャーの街という性格を帯びていき、渋カジファッションや「渋谷系」と呼ばれる音楽ジャンルなどが大きなトレンドに浮上した。

かつて若者の街といえば1960年代から1970年代初頭ごろまでは新宿が代表格であったが、公園通りの出現や原宿のにぎわいも含めて、渋谷が若者の街の代表格と見なされるようになっていく。上山和雄はこの変化を世代論として読み解いているので引用しておく。

新宿は、地方から出てきて高度成長を担った若者たちが定着して消費者として登場し、また高等教育を受ける機会を享受できるようになった地方出身の団塊世代の学生の集まる場所であった。それが一九六〇年代であった。八〇年代には団塊世代の学生はいなくなり、彼らが大きな層をなす購買者として現れるとともに、首都圏に定着した世代の二世、さらには団塊ジュニア世代が出現する。彼等は対抗文化ではなく大手商業資本が作り出すサブカルに引き寄せられていくのであり、その主舞台となったのが渋谷であった。その間の七〇年代は、思想的にも文化的にも、さらには首都東京の商業の舞台も移行期であったといえよう。

こうした渋谷の変化、すなわち「若者の街」化に対しては、マスメディアでもたびたび「大人の居場所が少なくなってきた」といった論説がなされ、若者に偏るのではなく、大人を含めた多様な世代・ジェンダーに親しまれる街にしていこうという揺り戻しの動きも生まれた。東急グループが支援した「東京国際映画祭」の渋谷での開催、そして「Bunkamura」の開業などは、その一端である。

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