第5章 第10節 第2項 その他生活関連事業の展開

5-10-2-1 CATVなど情報系新規事業のスタート

この章の冒頭、第1節でも触れたが、1980(昭和55)年10月に邦訳版が出版され、翌年にかけて大ベストセラーとなった『第三の波』(アルビン・トフラー著、日本放送出版協会刊)は、産業界に大きなインパクトをもたらした。人類がこれまで経験してきた農業革命、産業革命に次ぐ第三の波として、情報化社会の到来を予言していた。

同時期に、日本国内において「OA(オフィス・オートメーション)化」が提唱された。オフィスコンピュータなどの情報処理装置や周辺機器によるオフィス業務革新の必要性を説いたものであった。

また1981年に当時の内閣が行財政改革を推進すべく、第二次臨時行政調査会を発足させ、官業民営化による行財政改革を答申。日本国有鉄道の分割民営化、日本専売公社の民営化と共に、日本電信電話公社の民営化が提言された。この内日本電信電話公社の民営化は、情報通信事業の自由化を伴い、1984年には民間通信事業者として第二電電(現、KDDI)が設立された。

情報化社会の到来を目前にして、五島昇社長はこれを好機と捉え、1984年の年頭あいさつで「技術革新が製造業部門で起きて、その技術革新の波、つまり第三の波といわれているこの波が、サービス業に及んできた」と語り、動き始めていた新規事業の具体化を急ぐことを求めた。

まず挙げられたのがCATV事業である。CATV事業は、第5節でも触れたので詳細は割愛するが、多摩田園都市における情報ネットワーク基盤整備として、1983年から本格的に事業化を進め、1987年10月の営業放送開始にこぎ着けた。

CATV事業と接点があると見られた新規事業がクレジットカード事業である。商品購入時に後払いまたは割賦払いの決済ができるクレジットカード自体は、米国で1950年代から広く普及していた。日本国内でも一部で実用化が進み、1970年代にはビジネスマンを中心に認知を得ていたことから、事業としては明らかに後発であった。五島昇社長の見立てでは、各家庭に設置されていくであろうニューメディア端末でホームショッピングを行う際の決済手段をも想定しており、CATV事業との関連で同時期に新規事業として浮上した。

これまで東急グループでは東急百貨店など各社が顧客の組織化、囲い込みを狙って個別にハウスカードを発行してきており、その数は東急百貨店のセンチュリーカードや東急ホテルチェーンのウエルカムメンバーズカードなど全7種類に及んでいた。これに代わってクレジット機能を有する統一カードを新たに発行することとし、1983年11月に当社を筆頭に東急グループ14社の出資により、株式会社クレジット・イチマルキュウ(1990年4月、東急カード株式会社に商号変更)を設立。カードの名称を「TOPカード」とし、DC(ダイヤモンド・クレジットカード)と提携した。1984年6月にTOP/DC Masterゴールドカードの会員の募集を開始。既存の個別ハウスカードからの切り替えを促進した。

『とうきゅう』1984年5月号に掲載されたグループ社員向けのTOPカード広告

1987年の時点で国内では約9000万枚のクレジットカードが発行されているとされ、1人複数枚を所持している計算となるが、キャッシュレスでのショッピングが普及していた米国に比べて、国内では現金支払いの習慣が根強く、約7割は休眠会員と見られていた。これに対してTOPカードは、年会費3000円とし、入会審査の厳格化で優良会員を集め、それに見合った特典を付与して高級カードとしてのステイタスを持たせて、カード利用率を高めることを当面の方策とした。これによりカード発行の開始から2年半を経過した1987年1月時点で、会員数は約10万人となり、クレジット・イチマルキュウは運用益による営業外収入も奏功して、1987年1月期に累積赤字を一掃し、着実な成長を遂げた。

そして同年、年会費が無料のTOPホワイトカードの発行を開始し、1989(平成元)年には世界各国に加盟店を有するマスターカードに加えて、VISAカードとも提携して、TOPインターナショナルカード/VISA、TOPインターナショナルカード/DC、TOPゴールドインターナショナルカード/VISA、TOPゴールドインターナショナルカード/DC、と全5種類を揃えて、さらなる会員数拡大に努めた。

もう一つ、この時代に新規事業としてスタートしたのがカルチャー事業である。東急グループでは、五島美術館や五島育英会、亜細亜学園など財団による文化・育英活動や当社の「東急カルチャースクール藤が丘」(運営は徳間書店に委託)、東急百貨店の「モナリザ・アカデミー教室」、東急ストアの「ママ大学」、東急ホテルチェーンの「料理セミナー」といった顧客サービスを兼ねたものが行われていた。

こうした文化活動の新たな核となるものを、東急グループの本拠地である渋谷で実現しよう、という考えから、当社生活情報事業部カルチャープロジェクトチームで検討を進めてきたのが、「東急クリエイティブ・ライフセミナー渋谷BE」である。渋谷東急プラザに、1983年10月に開講した。これまでのカルチャースクールは、育児の手が離れた女性の社会参加や学習意欲に応えるものが多かったが、当社のカルチャースクールは20~30歳代の女性会社員も多く、午前中とアフターファイブの2回、来場者のピークがあるという、都心型の特徴のあるスクールであった。講座数170、受講者数約3300人からスタートし、1989年には講座数370、受講者数は約1万人へと急速に拡大した。当時はまだカルチャースクールではめずらしかったジャズダンスやクラシックバレエ、ジャズボーカル、カリグラフィーなどの講座をいち早く取り入れたことや、絵画などの美術系講座に有力講師が多数参画したことが集客力につながった。

東急セミナーBE洋画デッサン講座

当社は渋谷BEの実績を礎に沿線各地での展開を模索し、1988年10月、池上線の雪が谷大塚駅ビルに「東急セミナーBE雪が谷」を開設した。このとき渋谷BEも名称を「東急セミナーBE渋谷」に改めた。新規開設は、このあと2000年代に入ってから本格化し、地域社会における生涯教育の場として定着していくこととなる。

CATV事業、クレジットカード事業、カルチャー事業は、東急グループの新たな成長を担う新規事業として積極的に広報活動が行われ、その頭文字をとって「3C」とも呼ばれた。

5-10-2-2 外食事業の展開

外食産業の市場規模は、1980(昭和55)年の14兆6343億円から、1989(平成元)年には23兆4714億円と急成長した。ファミリーレストラン大手は全国に着々とチェーン網を広げ、マニュアルによる接客サービスの平準化、セントラルキッチンによる集中調理、食材の大量購買による低コスト化で、効率的な運営を追求していた。

第4章でも触れたが、当社は独自のファミリーレストランとして「東急ジョイガーデン」を展開した。運営会社として子会社の株式会社東急ジョイガーデンを設立し、1979年11月に1号店、鷺沼店を開業した。

その後、たまがわ店、たまプラーザ店、駒沢店、市が尾店、あざみ野店を出店し、1987年には合計6店となった。当社はセントラルキッチンを持たなかったため、多店舗化によるスケールメリット実現は果たせなかったものの、それぞれの店は地域住民に愛されるレストランをめざして奮闘した。

東急ジョイガーデンたまプラーザ店

また当社がフランチャイジーとして店舗展開を進めてきた「ケンタッキーフライドチキン」は、1984年4月に東急ジョイガーデンに運営委託し、1990年末時点で二子玉川、鷺沼、あざみ野、中央林間など田園都市線を中心に13店舗を展開していた。この内二子玉川店は、第4章で述べた、当社が建築し日本ケンタッキー・フライド・チキン社が賃借し同社直営店として営業していたものを、賃貸借期間の満了に伴いフランチャイジ―店舗として1983年10月に当社直営店としたものである。いずれも駅前社有地や駅ビル内の好立地を生かした出店であったほか、車社会に対応して宮前平店は駅前型の、南市が尾店(1990年11月開店)は郊外型のドライブスルー方式店舗であった。

表5-10-4 直営外食店舗一覧(1990年10月時点)
注1:「会社概要1990-1991」をもとに作成
注2:ケンタッキーフライドチキン、そば店、喫茶店などは除く
表5-10-5 ケンタッキーフライドチキン事業店舗一覧
出典:「会社概要1990-1991」

このほか第2章で記述した財団法人東急弘潤会が、1965年に飲食業部門を分離して子会社として設立した株式会社東弘二葉によって、多様な業態の飲食店が運営された。同社は設立当時、移管を受けた「田園そば」(自由が丘、武蔵小杉、旗の台、二子玉川園、蒲田駅など)に代表される駅構内や駅前のそば店、喫茶店、レストランや社員クラブ(社員向けの福利厚生施設)に加えて、1980年代に入ると、当社の線路の高架化や駅改良工事によって生まれた新たなスペースの有効活用方法を当社と検討して、カレーショップや食堂(元住吉社員食堂ほか)、ケータリング業などに業態を広げ、1980年代末には直営約30店舗、委託店舗を含めると約60店を展開していった。また、そば店の「田園そば」は1980年に「そば処二葉」に改称し衣替えした。

なお、東急弘潤会が行っていた駅売店業務と鉄道広告取扱業務についても、1978年4月に東弘商事運輸とアド・東弘にそれぞれ移管された。

表5-10-6 東弘二葉による1980年代の店舗数(直営店)
注:社内資料をもとに作成、毎年7月1日時点での店舗数
東急弘潤会も含めた合計のそば店舗数は各年度末で、『東急弘潤会50年史』をもとに作成
※1980年4月に「田園そば」を「そば処二葉」に店名変更

5-10-2-3 石油販売事業の展開

1983(昭和58)年7月の業務組織変更で生活情報事業部が新設された。情報化社会の到来に伴う人々のライフスタイルの変化を捉えた新規事業を軌道に乗せる役割を担った。前述のカルチャー事業や外食事業は同事業部の管掌で、このほか東急ファミリークラブの運営や石油販売事業、1988年1月からはスポーツ事業を担当した。

同事業部の売上高の柱となっていたのが石油販売事業である。当社の石油販売事業は、第2章でも触れたように、戦後の石油統制解禁に伴い、自動車事業の関連事業として四谷東急サービス・ステーション(以下、SS)を1954年9月に開業したのが始まりである。一時は石油精製会社の株式取得により石油精製事業にも乗り出したが、1960年代以降は石油販売に専念。とくに1964年からはタクシー車両などのLNG化に伴う販売需要減少に対応して、法人を対象とした直売にも注力し、SSによる店頭売りとの2本柱となった。

第一次オイルショックの直後には、元売り業者からの供給規制により石油製品の取扱量が大幅に減少したが、ガソリンに関しては元売り各社の増産体制による供給過剰と相次ぐ給油所開設で売り手市場となり、苦境を迎えた。このため、1977年以降、通商産業省が揮発油販売業法(1976年制定)に基づいて通産省の出店規制を行い、その後は競合店との販売競争の影響はありながらも、販売数量は1994年度にかけて伸び、黒字の業績が続いた。大きく環境が変わるのは1995(平成7)年度のことであり、これについては第6章で述べる。

表5-10-7 石油販売事業の営業成績
注1:1983年度までは『清和』1984年9月号より、1984年度からは「有価証券報告書」をもとに作成
注2:東急SSチェーン加盟店(非直営店)、既存店舗の分店などの簡易給油所は除く
※過当競争を防ぐ目的で、地区ごとに展開可能な店舗上限数が設定された(同一エリアの新規出店が不可能になった)

SSの展開は多摩田園都市の開発にも大きなかかわりを持ってきた。1960年代後半には土地区画整理事業が活況を呈しており、幹線道路沿いにSSがあることで工事用車両への給油を可能にした。また住民が住み始めると自家用車への給油ニーズが生じて日常生活に欠かせない施設となった。このようにSSは街づくりの一翼を担い、生活利便性向上に寄与する施設として成長した。事業開始からこの時期におけるSSの店舗展開は次表の通りである。

表5-10-8 石油販売事業直営店舗一覧(事業開始~1980年代、開業順)
注1:社内報『清和』、「有価証券報告書」をもとに作成
注2:1989年度末時点:SS22店舗(28店舗開設、6店舗閉鎖<DI含む>)、簡易給油所1カ所(4か所開設、3か所閉鎖)。子会社を通じて展開した店舗(小牧ハイランドなど)は除く
注3:閉店・譲渡の「-」は2001年3月末まで現存していた店舗
※1:SS(サービス・ステーションの略)、DI(ドライブインの略)
※2 簡易給油所として分店に位置づけられたものなど
Live Spot市が尾SS

この内市が尾SSでは、道路情報の提供や航空券の取り次ぎ、宅配便の受付、スーツケースレンタルなど新たな取り組みを開始し、新石川SSでは東急ストアと連携してコンビニエンスストアを併設するなど、SSを地域密着型のコミュニティ拠点として活用する試みを進めた。このように、時代の変化やお客さまのニーズを見極めながらSSの展開を進めたのである。

5-10-2-4 [コラム]お客さまに愛された「洗車無料サービス」

オイルショックなどを経て事業環境が非常に厳しくなるなかで、他のSSチェーンとの差別化を図り、お客さまに愛される店舗をめざして、サービスの工夫が図られた。店舗改装やアメニティ販売の充実などのほか、1970年代半ばに「洗車無料サービス」を始めた。

これは20L以上給油していただいたお客さまに洗車を無料でサービスするというもの。とくに雨上がりの休日などは、この洗車サービスを受けようと遠方より給油に訪れるドライバーも多かった。このため一部のSSでは洗車機を2台備えるなどの対応をとったが、洗車の長い車列が続き、「係員は接客のため走り回った」「一息もつけないほど大忙しだった」「従業員がマット装着を失念してしまい、走って車を追いかけた」などのエピソードが、当時を知る社員の間では今も語り草になっている。

東急100年史トップへ