第5章 第7節 第2項 拡大する国内リゾート開発

5-7-2-1 相次ぐゴルフ場建設

観光・レジャー分野においては、ゴルフ場やスキー場、リゾート施設の建設・開業が加速した。まずゴルフ場の展開について見ていく。

当社のゴルフ場経営の歴史は古く、その始まりは戦前にさかのぼるが、戦後に運営していたのは東京都から受託した砧ゴルフ場と多摩川河川敷の玉川ゴルフコース(のちの東急ゴルフ場)で、主に沿線住民のレクリエーション施設として親しまれてきた。

1962(昭和37)年7月には茅ヶ崎市街を見下ろす小高い丘にスリーハンドレッドクラブを開業した。名称は、会員数を300人限定としたことに由来しており、政財界の重鎮たちの社交場として、名門コースの誉を保ってきている。

この系譜を引き継ぐ格調高いゴルフ場をめざして、1980年10月、ファイブハンドレッドクラブが開業した。これは、当社が1970年から静岡県裾野市で進めた大プロジェクト「富士高原都市」のレクリエーション地区と計画されたエリアに建設されたものである。

グランドオークゴルフクラブ

さらに千葉市では、東急不動産が中心となって開発を進めていた「東急あすみが丘」の南側のエリアに、当社が、1989(平成元)年10月、東急セブンハンドレッドクラブ(36ホール)を開業した。

東急セブンハンドレッドクラブ

東急土地開発から引き受けた土地の内、ゴルフ場として活用することになったものも複数ある。宮崎県宮崎郡佐土原町(現、宮崎市)に、1989年6月、ハイビスカスゴルフクラブを開業させた。これは、来場客数の落ち込みにより1986年11月に閉鎖した宮崎サファリパークの跡地開発であった。西播磨地区については、兵庫県に大部分の土地を売却したのち、同県が開発した播磨科学公園都市のレクリエーション地区に1990年9月、ストークヒルゴルフクラブを開業した。

兵庫県東条町の土地は、当初サファリパークの建設を予定していたが、開発用途をゴルフ場に変更し、1991年5月にグランドオークゴルフクラブ(36ホール。現、東急グランドオークゴルフクラブ)を開業した。

こうしてゴルフ場の開発が進み、1991年末時点で当社系列のゴルフ場は国内9か所となった。

5-7-2-2 スキー場の新設にも注力

1980年代に急速に愛好者を増やしたのがスキーである。東急グループ内では、スキー場運営を先駆してきた白馬観光開発が八方尾根・岩岳・栂池の3スキー場の充実に向けて栂池スキー場や岩岳スキー場にゴンドラリフトの建設を進めるなど、施設の拡張、リニューアルを実施した。

東急不動産は、同社が開発を進める東急リゾートタウン蓼科内に、1982(昭和57)年12月、蓼科東急スキー場を開業。北海道倶知安町のニセコスキー場2か所を1985年12月に取得し、ニセコ東急リゾートとして展開を開始したほか、玉原スキーパーク(群馬県沼田市、1988年12月開業)とタングラムスキーサーカス(長野県信濃町、1989<平成元>年12月開業)を開業して合計5か所のスキー場を展開した。東急建設は、1978年12月に宮城県の地元自治体のスキー場経営に参画しており、1982年に施設を拡張した。これにより上田交通が地元自治体と経営する菅平高原スキー場(長野県上田市、1955年開業)も含め、1989年末の東急グループのスキー場は合計10か所となった。

白馬観光開発 栂池ゴンドラリフト「イヴ」
ニセコ東急リゾートのスキー場

このほか、白馬観光開発は地元自治体などが進めた「飯綱リゾートスキー場」(長野県牟礼村、1981年12月開業)の運営に協力した。また当社は、後述する総合保養地域整備法(リゾート法)適用第1号案件として、福島県北塩原村と共同で裏磐梯デコ平地区のリゾート開発を計画し、1989年3月に当社75%、北塩原村25%の出資で裏磐梯東急リゾート株式会社を設立。スキー場を中心とした複合リゾートの整備をめざした。

1986年11月には、スキー場を開発、運営するグループ企業7社が、東急グループスキー場連絡会を発足した。1958年から30年近くにわたってスキー場を運営してきており、地元との共存でも先例を示してきた白馬観光開発が、連絡会の事務局を務めた。連絡会では、情報やノウハウの共有にとどまらず、互いが抱える課題や今後のビジョンについての検討、総合パンフレットの制作や渋谷での街頭PRイベントなどの共同促進活動などを通じて、東急グループのスキー場全体の活性化をめざした。

渋谷(109前)で開催した㏚イベント(1987年)

5-7-2-3 複合リゾート施設の進展

1980年代は、週休二日制の定着などにより自由時間のさらなる拡大が展望されるなか、欧米で定着していた「リゾート」で余暇を過ごすことが潮流となり始めた。

東急グループのリゾート開発の取り組みは、当社と東急不動産の共同事業として始まった宮古島の開発が先例である。琉球(那覇)東急ホテルに次ぐ沖縄でのリゾート開発を検討したところ、他企業の進出がなく、海洋景観にも優れていることから、開発対象地に決定したものである。同島南西部の美しい浜辺が広がる与那覇前浜一帯に位置する下地町(現、宮古島市下地)の土地約300haを、1972(昭和47)年から、宮古観光開発株式会社を通じて買い進めた。ちょうどハワイなどへ大きく進出を図った時期である。

オイルショックの影響などでしばらくは大きな進展がなかったが、3社間の合意により、当面は当社が業務推進主体となり、開発計画は東急不動産と共に検討することとなった。そして、1976年3月に当社地域開発部内に宮古島開発プロジェクトチームを、同年4月には東急不動産との運営委員会を設置。当時の経済状況を踏まえ、取得地の全面開発は保留しつつも、マスタープランの作成、ゴルフ場の建設の開発許可取得と苗圃事業の推進を進めることとした。苗圃事業は、サトウキビ栽培に頼っていた現地の農業振興を目的とし、ヤシや果物、花卉(かき)類の試験栽培を経て、生産販売に向けての準備を進めた。

図5-7-2 宮古島リゾート開発の3つのゾーン
注:『清和』1976年4月号、1983年4月号をもとに作成

その後、1978年12月に、南西航空による那覇〜宮古島間のジェット機就航が始まったことや、1980年代初頭から航空会社が沖縄キャンペーンを展開したことで機が熟し、1980年2月にセンターゾーン(54ha)、リゾートライフゾーン(157ha)、自然観賞ゾーン(19ha)の3つからなる230haの開発プランをまとめた。これに先立ち、1979年3月に当社と東急不動産は、宮古観光開発が取得した土地を同社から買取した(買収比率は当社57.5%、東急不動産42.5%)。

そして、当社と東急不動産は、1982年8月、センターゾーンへの全室オーシャンビューの海浜リゾートホテルの建設を内容とした、「宮古島東急リゾート・第一期」の開発行為許可ならびに農地転用の許可を申請。同年12月に許可が下り、1983年1月に着工した。1984年4月20日にレストラン、ラウンジ、バーベキュー場、屋外プール、ビーチハウス、テニスコートを備えた「宮古島東急リゾート(客室151室)」を開業した。2つのホテルは、東急インチェーンのリゾートホテル3店舗目となった。これに続き、1985年4月には、宮古島で第1回「全日本トライアスロン宮古島大会」が開催された。リゾートライフゾーンに第二期事業として、パブリック制のゴルフ場、エメラルドコーストゴルフリンクス(18ホール)が、1988年4月8日に開業。ホテルを中心としたリゾートの複合化が進んだ。

なお1985年3月に、東急不動産の出資分を当社が引き受け、最終的には当社単独の運営となった。

宮古島東急リゾートと前面に広がる与那覇前浜ビーチ
宮古島東急リゾート 客室からの眺め
宮古島のエメラルドコーストゴルフリンクス

西伊豆の観光開発や別荘地の開発分譲などに軸足を置いてきた東急不動産は、1973年から複合リゾートの開発に着手した。

蓼科では、1978年4月の別荘販売開始を皮切りに、ゴルフコース(18ホール、パブリック制)やテニスコート(30面)などのスポーツ施設を開設、1981年7月にホテルを竣工、1982年12月にはスキー場を開設して、通年型の複合リゾート「東急リゾートタウン蓼科」を整備した。リゾートの核施設となるホテル「蓼科東急リゾート(客室78室。現、蓼科東急ホテル)」は、当社が賃借して、東急インチェーンのリゾートタイプのホテルとして運営した。

蓼科東急リゾート

さらに、東急不動産は、リゾートタウンの別荘やマンションの在庫数の底が見え始めるなかで、新しい商品の開発を模索し、分譲と施設運営で収益を上げる事業スキームで、会員権販売による無利子資金の調達が可能な会員制ホテル事業への進出を計画した。これが「東急ハーヴェストクラブ」である。

当時は、会員制リゾートホテル業界が中小企業を中心に形成されていたが、「1室あたりの販売口数が多過ぎて予約が取れない」「会社が倒産して会員権の価値がなくなった」などの問題を生じるケースが少なくなかった。こうした業界事情を酌み、東急不動産は「1部屋の口数は10口」「買取保障システム」「営繕充当金の導入(会員から事前に施設保全・修繕費を徴収)による施設、客室の陳腐化防止」「施設展開計画の明示、実行による会員価値向上」という仕組みを構築した。会員権を購入したあと、安心して利用できるように工夫をしたことで、会員制ホテル事業のマイナスイメージを払拭し、信頼産業に変革する役割を果たすと共に、顧客に満足度と、利便性の高いリゾートライフを継続的に提供した。

ハーヴェスト事業第1号の場所は、1981年の開業以来熟成を重ねてきた東急リゾートタウン蓼科が選ばれた。エリア内に客室90室、八ヶ岳を一望できるサウナ付き大浴場やレストランなどを整備した「東急ハーヴェストクラブ蓼科」は、開業前の1987年7月の販売開始から9か月で完売を果たし、1988年6月21日に開業した。

東急ハーヴェストクラブ蓼科
東急ハーヴェストクラブ南紀田辺

これに続いて東急不動産は1989(平成元)年12月、法人を対象とした会員制リゾートとして「タングラム斑尾東急リゾート」を開業した。約300haの敷地にスキー場、ゴルフコース、テニスコート、ファミリーレジャー施設、ウォータースポーツを楽しむための湖畔拠点と客室250室のホテルを揃えた大規模リゾートである。当時は保養所を保有する企業も多かったが、老朽化に伴う維持管理のコスト増や煩雑さを抱えており、多様化するレジャーニーズへの対応も困難であることから、保養所のあり方を見直す企業が増えつつあり、会員権販売は着実に進展した。1990年9月にはゴルフ場も開設し、通年で収益を安定させることや従業員の雇用が可能となった。

タングラム斑尾東急リゾート

グループ企業が連携してリゾート開発を進める動きも見られた。1984年11月に北見バスを中心に当社、東亜国内航空など東急グループ7社の共同出資により、株式会社サロマ湖東急リゾート施設を設立した。同社は、北見バスの関連会社が運営していた「さろま湖観光ホテル」を全面改築してリゾートホテル「サロマ湖東急リゾート(客室78室)」を建設、1985年8月10日に開業した。同ホテルは東急インチェーンのフランチャイズとし、株式会社サロマ湖東急リゾート(北見バス、常呂町などが出資)が運営した。

サロマ湖東急リゾート

伊豆半島には伊豆急行や同社の関連会社が経営するゴルフ場、ホテル、コテージなどが周辺に点在していたが、1988年4月21日には、当社と東急観光の共同事業として、伊豆急行線今井浜海岸駅徒歩3分の立地に今井浜東急リゾート(客室141室)が開業し、同じく東急インチェーンのフランチャイズとした。プールやビーチハウス、ステーキレストラン、バーベキューテラス、温泉大浴場などを備え、全室が洋風のリゾートホテルとしては、熱海以南の伊豆半島で最大規模のホテルの誕生であった。これに伴って伊豆東急インは閉鎖した。なお、今井浜東急リゾートは経営一元化を図るため、1989年12月に東急観光の持分を当社が買い取りし、東急インチェーンの直営店となった。

今井浜東急リゾート

今井浜東急リゾートの開業記念として、当社と東急観光は1988年4月9日と10日、伊豆急行線の看板車両である2100系「リゾート21」を使用した記念列車「リゾートエクスプレス今井浜’88」を運行した。これは、東急車輛製造で2100系第三編成を落成したのち、伊豆急行線への搬入前に当社線に搬入して、東横線渋谷駅~田園都市線長津田駅という特別ルートを往復するものだった。1200人を抽選で無料招待した。

開業前日の20日には、JR東京駅から今井浜海岸駅まで記念列車を運行し、こちらは「今井浜東急リゾート」の宿泊も含め40組80人を無料招待した。そのほかに記念乗車券の発売も行った。

5-7-2-4 総合保養地域整備法の施行で高まるリゾート熱

1987(昭和62)年6月、総合保養地域整備法(以下、リゾート法)が公布・施行された。自然環境に恵まれながら過疎などの問題を抱えていた地方自治体にとって、リゾート法は地域活性化の起爆剤ともなり得ることから、各地ではこぞって開発構想を練り始め、民間事業者をパートナーに迎え入れた。リゾート開発に実績があるデベロッパーやレジャー関連企業のみならず、円高による構造不況に苦しんでいた造船・鉄鋼・セメントなど重厚長大産業の企業も、遊休地利用や人材の活用を念頭にリゾート事業に参入。全国でリゾート開発が一大ブームとなった。

当社は数々のリゾート施設や複合リゾートを手がけてきた経験から、リゾート開発には歳月を要することを理解していた。また日本においては、滞在型の余暇活動が浸透するほどの長期休暇取得が進むには、いまだ道半ばであったことも確かである。こうした状況を踏まえて、当社では、リゾート開発に対して慎重な声もあった。『清和』1988年4月号の「特集 リゾート事業」で、当時のリゾート部長は、次のように述べている。

(法律施行を受けて)リゾートをクローズアップすることは間違いではありませんが、リゾートをつくる時期とつくり方は慎重に判断していかなくてはいけないと思います。(中略)(ブームが過熱すると)リゾート・ゴーストタウンができる結果が出てきます。そうならないためにも、適地の検討や実需要の見極めも大切です。

その後、1988年12月に開催された東急グループサミット連絡会議では、東急グループとして取り組む二大事業として渋谷開発と共にリゾート事業の推進が取り上げられ、1989(平成元)年1月には、リゾート事業に関係する各社による「東急グループリゾート事業推進会議および拡大会議」が発足した。時代の風が、東急グループのリゾート事業への取り組み姿勢を、静から動へと変化させていったのである。

東急100年史トップへ