第5章 第8節 第3項 忍び寄る海外進出の負の遺産

5-8-3-1 大型投資に伴う苦境

1980年代の、当社をはじめとする東急グループの海外進出は目覚ましいものがあったが、その一方で、負の遺産も静かに膨らんだ。

西豪州パース市郊外のヤンチェップ開発については、1974(昭和49)年2月に、現地の不動産会社、ボンド社と合弁(当社49%、ボンド社51%出資)で、ヤンチェップ サン シティ社(以下、YSC社)を設立し、8000haの宅地開発に着手し、同年10月にはゴルフ場をまず開業した。しかし当初から長期間を要すると見られたプロジェクトだったとはいえ、現地はパース市中心部から50kmほど離れた砂漠地帯で、現地に通じる道路整備が不十分だったことに加えて、郊外住宅地の需要もなかなか顕在化せず、当社からの融資は膨らむ一方であった。

合弁相手のボンド社の経営不振により、1978年3月にYSC社を当社100%子会社とした。この完全子会社化にあたっては、豪州では海外企業が株式の過半を所有することが原則として認められていないため、豪州連邦政府から3つの条件が付せられた。1983年6月までに50%以上の豪州資本を導入すること、借入金対純資産の比率を3対1以内にとどめること、そして連邦政府に対して年に一度、現地資本導入の経過を報告すること、の3点であった。なかでも中心的な課題であった豪州資本の導入については、現地有力企業の数社に働きかけたものの全社から断られ、打開策は見出せなかった。

当社100%子会社となって以降、YSC社は将来の本格的な地域開発に備えて、まずは開発対象地域の付加価値を向上させるため、1981年12月にマリンパーク(アトランティスマリンパーク)を開業、1985年12月にはロッジ(クラブカプリコーン)を開業し、観光リゾート事業を中心に当面の業績回復を図ることとした。とくにマリンパークはイルカのショーが人気を博し、ピーク時には年間42万人の観光客が訪れた。だがパース市の人口自体が少ないこともあり、期待したほどリピーターは得られずに、観客数の減少で事業を維持することが赤字の拡大につながっていた。

また、現地の環境保護団体からイルカの飼育が動物虐待に相当すると糾弾されるようになり、最終的にマリンパークは1990年8月に閉鎖となった。閉鎖でイルカを海に戻す際には「自分でエサが捕れるように訓練しなければならない」との条件があり、マリーナの中に特別ないけすを作って1年ほど訓練し、実際に海に戻すときは発信機をつけてしばらくイルカを追跡し、自然の環境で生きていけるよう十分配慮した。

現地資本の導入がままならず、取得した土地の販売は進まず、観光リゾート事業の将来性も期待薄となった「ヤンチェップ」プロジェクトは八方塞がりの状況となり、1987年、当社はいったん財務リストラに着手することとした。具体的には、YSC社を解散し、現地のW.A.ユーティリティーズ社(1973年設立、当時YSC社子会社。以下、WAU社)を当社の完全子会社にしたうえで、同社に観光リゾート事業の資産を中心に継承し、ヤンチェップの原野(草原、砂地、森林からなる未開発の土地6751ha)は当社が買い取った。

しばらくは土地を塩漬けにしたまま、好機の到来を待つこととなる。WAU社に赴任した駐在員たちは、その間に遊休資産の商品性が少しでも高まるようグリーニング(植樹活動)を着々と進めると共に、地元行政との情報共有を図った。こうした地道な関係づくりの努力は、1990年代以降に果実となって戻ってくることになる。

5-8-3-2 海外ホテルチェーンの運営統合と円高の影響を受けるグループ各社

1985(昭和60)年9月のプラザ合意により欧米諸国による協調的なドル安路線が定まり、対日貿易赤字に苦しんでいた米国は円高ドル安を誘導、米ドルの円為替レートは1984年12月の1ドル=248円から、1987年12月の1ドル=128円へと急変した。

東急ホテルズ・インターナショナル(以下、THI社)もこの円高ドル安の影響を大きく受けた会社であった。同社は本社を国内(東京)に置いていた関係から、「日本円で投資し、ドルで収入を得る」構図となっていた。このため為替変動の影響で、円建てでは多額の損失を出すこととなり、投資と回収のバランスが一気に崩れた。

もう一つの海外ホテルチェーンであるエメラルド ホテルズ社は、1985年度の東急グループ会社表彰の東急経営三賞を受賞した際に「海外事業で唯一の好業績」と評されるほど好調を維持しており、本社をハワイに設けているため為替レート変動の影響も軽微にとどまった。しかし1986年にハワイアン リージェントホテルの売却に伴って解散することとなり、ハワイアン リージェント、マウナ ラニ ベイ、エメラルド オブ アナハイムの経営を受託する目的で同年エメラルド マネジメント カンパニー(以下、EMC社)が設立された。

アナハイムのホテルはEMC社により運営されていたが、業績の低迷により同社へ金融支援を行っていた当社完全子会社、エメラルド リゾーツ アンド ホテルズ(以下、ERH社)が1994年に抵当権を実行しERH社の子会社、アナハイム プロパティ社がアナハイムのホテル資産を取得することとなった。

海外ホテルチェーンの運営はこのようにTHI社(1988年に当社完全子会社化)とEMC社の2社に分かれており、経営や営業活動における非効率な面が以前から指摘されていた。このため2社を存続させたまま、マネジメント受託業務やマネジメント業務を一本化することが検討され、1989(平成元)年4月、すべての海外ホテルを「パン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ」のブランド名に統一し、共同運営を開始した。併せて当社と両社をメンバーとする海外ホテル経営委員会を発足した。のちのパン パシフィック ホテルズ アンド リゾーツ社の設立(1995年6月)に至るプロローグであった。なお1989年12月には慶州東急ホテルのマネジメント受託契約を終了させた。

円高の影響は、東急車輛製造でも大きかった。同社は赤字経営に苦しんでいた国鉄からの車両新造需要が低迷したことなどから輸出に活路を見出し、台湾やタイにディーゼル自動車、米国には省エネに寄与する軽量電車などを輸出していた。さらに1970年代に急成長した海上コンテナは、8割が海外向けの輸出で、同社売上高の半分近くを占める主要事業分野になっていた。しかし韓国や台湾のコンテナメーカーの追い上げが激しく、為替差損の影響も加わって、1987年度には赤字に転落、経営の立て直しが迫られることとなった。

このほか、香港東急百貨店が、教科書問題に起因する対日感情の悪化により客足が遠のき、シンガポールでホテルや百貨店の開業時を迎えた時期に一転して景気が悪化するなど、海外事業には常にリスクがつきまとっていたが、1980年代の海外事業は拡大路線を堅持していた。

1980年代後半、東急グループの海外事業拡大をけん引したのは、1985年7月に新設された企画政策室海外部である。同室は、東急グループの新規事業、大規模事業を強力に推進する役割を担い、国内部では後述するBunkamuraや前述のニュー ステーション プランなどを、海外部では中国無錫や米国サンディエゴなどのプロジェクトの取りまとめを行った。事業化段階を迎えた海外案件については1988年1月に新設された海外事業部開発部が受け継いでいった。

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