第5章の概要(サマリー)

当社および東急グループにとって多摩田園都市の開発は、大きな挑戦であった。当社は、地元住民と共に土地区画整理事業に取り組み、換地・保留地を宅地や商業施設、公共施設などにすることで、新たな住民を増やし、地域を発展させた。こうして、1970年代に利益確保に苦難した鉄軌道事業も、沿線の定着人口の増加によって輸送人員を伸ばした。地域住民の消費を支えてきた東急ストアや東急バラエティストア、宅地造成や住宅建設にかかわってきた東急建設や東急不動産など、多摩田園都市の経済効果が波及したグループ会社は数多い。

一方で首都圏のみならず全国に開発の手を広げていった結果、1970年代後半に土地取引や開発にかかわる各種規制、地価の値下がりなどの影響を受け、子会社の東急土地開発を発端とする大量の未稼働資産が重い課題となった。これらの清算をおおむね終えた当社は1980年代、多摩田園都市の開発が中盤を過ぎたことも勘案のうえ、不動産事業における新たな収益基盤の確立に向けた模索を続けていく。

1980年代のもう一つの大きな動きは、第3次産業の台頭、なかでもサービス業の時代が本格化したことである。サービス業にかかわる関連会社や傘下会社が多い東急グループにとって、新たなビジネスチャンスの到来であった。五島昇社長は、情報通信技術の進展を捉えてケーブルテレビ事業の立ち上げを強く促したほか、クレジットカード事業への参入を決定。さらにカルチャー事業も合わせた「3C戦略」を推進していく。さらに1980年代半ばには「総合生活産業」を東急グループのビジョンとし、日常生活や余暇生活を多面的に支える企業集団をめざした。

事業ごとの進捗について見ていくと、まず交通事業では鉄軌道事業が新たな展開を迎えた。田園都市線が中央林間まで全線開通したあと、当社は東横線の混雑緩和に取り組む一環として、目蒲線を活用した東横線複々線化に着手。併せて立体交差化などの改良工事も着々と進め、都市近郊にふさわしい鉄道ネットワークを構築していった。二度の運賃改定の効果もあり、徐々に収支改善に向かい、不動産事業と並び立つ収益部門となった点も大きな変化であった。またバス事業は路線再編成やバス利用動機の発掘により黒字化をめざし、東亜国内航空は日本エアシステムと商号を改めて国際定期便の運航に乗り出した。

多摩田園都市では、土地区画整理事業が中盤を過ぎ、「たまプラーザ東急ショッピングセンター」など商業施設の充実を図り、ケーブルテレビの開局など、地域の利便性向上に努めた。全国各地の開発事業では1970年代末の時点で未稼働資産となっていた土地が少なからずあったが、この内事業性が見込める地域を中心に、粘り強く開発を進め、神奈川県県央・湘南地域や、奈良県、徳島県、福岡県で質の高い住宅地を造成した。北海道では東急グループを挙げた地域開発に取り組んで東急百貨店や東急インが進出したほか、金沢市や町田市の再開発事業に参加し、町田市では東急百貨店と東急ハンズが新店を構えた。さらに、沿線内外に賃貸用ビルの建設を進めたのも1980年代の特徴であった。

観光開発の一環で進めてきた国内ホテルの整備では、拡大政策を続けてきたイン事業が、新規ホテルとの競合激化で慢性的な赤字に陥ったが、宿泊収入に重点を置いた原点回帰で挽回を図った。東急ホテルチェーンは仙台や名古屋、京都などで都市を代表する本格的なホテルを開業し、1980年代後半の内需拡大に伴う好景気にも支えられて業績は順調に推移した。

同じく内需拡大の追い風を受けたのが国内各地のリゾート開発である。当社は1970年代から開発に着手していた宮古島、東急不動産は蓼科などにホテルとゴルフ場を中心とする複合リゾート施設を建設。やがて総合保養地域整備法(リゾート法)が施行されると、東急グループの総力を挙げた取り組みへと発展していく。

「環太平洋構想」に基づいて展開してきた海外事業では、海外進出のシンボルとなっていたハワイで開発事業を本格化させると共に、カナダを含む北米西海岸、シンガポール、中国にも進出。ホテルのみならず、百貨店やオフィスビルにも挑戦した。

また1980年代後半、リゾート開発と共に東急グループの重要な成長戦略と位置づけられた渋谷開発では、東急百貨店が中心となって本店通りにカルチャー・ヴァレー構想を描き、これが発端となって東急グループの文化施設、「Bunkamura」の開業に至った。

このように1980年代は、多摩田園都市の開発の進展に伴い、不動産開発事業においては従来の土地販売重視からの脱却を図り、「総合生活産業」をめざして新たな事業を立ち上げることで成長を図っていくこととなった。併せて、財界活動に重点を移しつつあった五島昇社長を頂点とする経営体制から、集団指導体制への移行を徐々に進めたことは大きな変化であった。

1984(昭和59)年5月に五島昇社長が日本商工会議所の会頭に就任した。五島昇会頭は全国の商工業者との対話を重視して各地を飛び回ったが、体調を崩し、その後手術、入院を繰り返した。1987年5月の二度目の入院に際して当社社長を退任することを決意し、鉄軌道事業を中心にキャリアを積んできていた横田二郎専務(当時)を後任に指名した。横田二郎は副社長就任を経て1987年12月に当社社長に就任、五島昇社長は会長に就任した。また同月、この状況を受けて五島昇会長は日本商工会議所会頭も任期途中で退任した。

五島会長・横田社長体制のスタートと同時に、東急グループの最高意思決定機関として「東急グループサミット」を設置し、五島昇社長が議長を務めて、グループ経営については引き続き方向性を指し示す形となった。しかし、1989(平成元)年1月に定期検診のため入院した五島昇会長は体調を崩し、同年3月に帰らぬ人となった。

これを受けて横田社長は緊急に「東急グループサミット」を開催して議長に就任し、グループの結束をもって難局にあたることを確認した。同サミットを中心とした東急グループの和は引き続き保たれる格好となったが、300社を優に超える関連会社や傘下会社を統率するのは容易ではなかった。当社および五島家の持株比率が低く、株式上場、株式公開し独立性が強いグループ会社も多かったからである。五島昇会長というカリスマを失った東急グループの先行きは不透明だったが、現下の好景気により、各社は拡大路線を維持することとなる。

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