第5章 第5節 第1項 多摩田園都市開発仕上げのステージへ

5-5-1-1 最終段階に入った土地区画整理事業

多摩田園都市は、宅地開発と鉄道の敷設を一体的に進めてきた大規模で息の長い街づくりである。田園都市線が中央林間駅まで全線開通したことで一つの区切りを迎え、土地区画整理事業もいよいよ終盤に差しかかった。

1980年代に土地区画整理組合を設立したのは、第2ブロックの黒須田、大場第一、赤田、第3ブロックの上恩田の4地区である。いずれも1970(昭和45)年前後に開発の機運が生まれながらも紆余曲折があり、事業着手後も竣工まで歳月を要した。

図5-5-1 第2ブロックの土地区画整理組合
出典『多摩田園都市 開発35年の記録』
黒須田大場都市建設事務所

黒須田地区と大場第一地区は、のちに事業が進捗する大場第二・第三地区と共に、もともとは黒須田大場という一つの区域に包含されており、1960年代末期に、この黒須田大場という単位で組合設立の動きが始まった。その後、新都市計画法による線引き素案で、市街化調整区域となることが示されたことに対して、地元が開発の意思表明を行ったため、1970年6月に市街化区域に改められた。1975年の線引き見直しを機に組合設立に向けた動きがようやく本格化したが、区域内の事情の違いから、別々の地区として事業を推進することとなり、1982年4月に黒須田地区と大場第一地区が、それぞれ土地区画整理組合の設立認可申請を行った。

黒須田地区では地区内在住者と地区外地権者との合意形成に時間を要したが、関係者の努力により同意を得て、1991(平成3)年6月に無事に工事を完了することができ、11月には竣工式を行った。

黒須田土地区画整理事業竣工式

また大場第一地区はもともと居住者が多かったため、造成工事中の家屋移転が焦点となった。そのため区画整理事業をすでに終えていた隣接の元石川大場地区の一部を再び工事施行区域に取り込んで、そこを移転先にするという異例の手法が用いられた。また黒須田地区と大場第一地区は隣接しており、工事時期がおおむね一致したことから、道路などの公共公益施設を一体的に整備できたことも特徴である。

赤田地区は、施行面積が約69haで大規模開発地域としては最後に着手した地区である。開発の動きは隣接する小黒地区と同時期の1960年代末期からあったが、なかなか具体化には至らず、黒須田大場と同様、1975年の線引き見直しで市街化調整区域への編入が内示されたのを契機に、地元地権者が開発実施の意志を固めた。1980年には組合設立のための手続きに入ったが、1983年に自然保護団体から自然公園設置など、同地区における「緑」の保護を求める要望書が横浜市に提出され、マスメディアもこれを取り上げた。こうした経緯をたどり、組合設立が認可されたのは1985年1月のことであった。同地区では出土した古墳の一部を公園内に復元したほか、景観に配慮した橋梁や歩道橋を設けるなど質の高い整備を行って、1993年2月に竣工した。赤田地区の竣工により、あざみ野〜荏田間で寸断されていた道路の整備も完了し、多摩田園都市内の道路網の連続性が確保されたという点でも、1つの節目であった。

区画整理前の赤田地区
図5-5-2 第3ブロックの土地区画整理組合と上恩田地区
出典:『多摩田園都市 開発35年の記録』

第3ブロックの上恩田地区は1960年代半ばに東急不動産が開発を計画、地元からの要請で当社が開発を肩代わりすることになった地区である。前述の他地区と同様、市街化調整区域に予定されたことが引き金となって開発の機運が高まった。営農継続を希望する地権者との意見調整に手間取って一時頓挫した時期はあったものの、1975年の線引き見直しで市街化調整区域への変更が示されたことで再び開発実施の意向がまとまった。当地区と他地区とを結ぶ接続道路の整備負担などを巡り、横浜市との間で複雑な調整を要した時期もあったが、同市との協議を進めて減歩負担を緩和することができ、1983年7月に組合設立が認可された。埋蔵文化財調査の範囲が当初の想定を大幅に上回り、東京電力の高圧線の移設や鉄塔補強工事にかかわる協議を要するなど難題も多かったが、1990年7月に竣工を迎えることができた。

上恩田地区土地区画整理事業が竣工

これらの事業進捗により第3ブロックの土地区画整理事業は完了。第2ブロックの大場第二・第三地区、関耕地地区を残すのみとなった。その他にも地元から開発要請が打診されている地区が複数あったものの、当社が主体的に働きかける開発事業はおおむね終盤に入った。

5-5-1-2 「多摩田園都市21プラン」で街づくりの仕上げへ

当社はこれまで、多摩田園都市の全体計画として1966(昭和41)年に「ペアシティ計画」、1973年に「アミニティプラン多摩田園都市」を発表してきた。とくに後者は、土地区画整理事業が最盛期に、当初計画との相違を洗い出し、周辺地域の状況分析を行い住民の価値観の変化や要望を踏まえて、快適な都市生活を実現するための各種サービス施設を整えることに重点を置いたものであった。

その後、沿線地域の人口が1980年に30万人を超えて、1982年に後述の「たまプラーザ東急ショッピングセンター」が開業、1984年に田園都市線が全線開通したことで、多摩田園都市はいよいよ成熟の時代を迎え、これにふさわしい全体計画をまとめる段階に入った。

当社は1985年7月以降、新たな全体計画の作成を進め、1988年に「多摩田園都市21プラン」を発表した。同計画では、街づくりの基本理念として次の3点を挙げた。

①質の高い住環境の形成
②頭脳集約型の新しい産業機能の誘致
③固有文化の形成

多摩田園都市21プラン表紙 1988年6月
図5-5-3 先端産業ゾーン(青色)や文化レクリエーションゾーン(緑色)などの配置計画をした都市校正パターン図
出典:「多摩田園都市21プラン」(1988年6月)
図5-5-4 公益施設の配置計画
出典:「多摩田園都市21プラン」(1988年6月)

特徴的なことは、これまでのような「住む」「暮らす」ことに特化したベッドタウン形成から一歩踏み出し、産業誘致による業務施設や文化施設を地域内に備えた、自立性の高い多機能都市をめざした点である。

計画を担当した田園都市事業部では、

多摩田園都市は住居都市としての性格が極めて強い街として造られてきたが、時代の流れと共に、ただ「住む」だけでなく、「働く場」も街の中に含まれるべきだという考え方に変わり始めている。港北ニュータウンや多摩ニュータウンでも同様の変化が見受けられており、今回の「多摩田園都市21プラン」では業務施設を積極的に誘致すべき。

としている。(『清和』1988年8月号)

これを補足すると、かつて働く場所としては都心に出るのが一般的で、郊外の産業誘致といえば工場くらいのものであった。しかし、過密化した都心部からオフィスや研究所などを郊外に移転する傾向が出始めており、多摩田園都市内にこうした業務施設を誘致するのは、時代に即した現実的なプランであった。具体的には付加価値の高い先端産業分野の研究所や研修所、教育施設などの誘致を図ることとした。

「多摩田園都市21プラン」では業務施設の誘致と併せて、地元で都市生活を謳歌してもらえるよう、地域内における文化面での充実も標榜した。たまプラーザ東急ショッピングセンターの開業により商業施設がおおむね整ってきたことから、当社では街づくりの仕上げにつながる次の段階として文化施設の整備が必要と認識しており、すでにいくつかの計画が進行中であった。

また1980年代には、多摩田園都市を舞台にしたテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』が話題となり、多摩田園都市の高級住宅地や都会的で洗練された暮らしのイメージが広がった。こうしたなかで当社は、グループスローガンである「豊かさを深める」街づくりをめざした。

5-5-1-3 [コラム]民間による良質な街づくりに相次ぐ受賞

1988(昭和63)年5月30日、多摩田園都市の「良好な街づくりの多年にわたる業績」が評価され、当社が「昭和62年度日本建築学会賞」を受賞した。同賞は、日本の建築界で最高の栄誉とされる賞で1949年から毎年、論文、建築作品、業績の各部門で顕著な業績を表彰している。当社は業績部門で受賞。民間企業としては異例であった。

日本建築学会賞を受賞

多摩田園都市は、都市部の人口急増が端緒に就き始めたばかりの1953年という早い段階に構想され、東京郊外西南部の5000haを開発対象として40万人規模の一大ニュータウンの形成を計画したものである。計画対象区域5000haの内3200haで開発整備を行い、1987年には沿線人口が当初計画通り40万人を突破。大規模住宅地開発として優れた先見性を持った開発事業であることが評価された。

評価ポイントは、主に次の通りである。

  • 宅地開発と鉄道整備を一体的に進めた
  • 地域住民の賛同を得ながら行う土地区画整理事業の手法を採用し、先例のない業務一括代行方式により事業の進捗を図った
  • 川崎、横浜、町田、大和の4市と計画調整を行うなど実効的な開発整備手法を積極的に採り入れてきた
  • 市街地形成にあたっては建築協定を結ぶなど良好な住環境維持に努め、歩車分離の推進や歩行者専用道路の整備、緑化、駅前広場整備など郊外住宅地の先例を示した
  • 高度情報化社会の到来を目前に、CATVの導入による情報ネットワークづくりに努めるなど、時代の変化にも対応してきた

公的機関が主導した広大な宅地形成では千里ニュータウン、多摩ニュータウン、港北ニュータウンなどが広く知られていたが、民間主導でこれほど大規模な開発に早期着手した例はほかになく、また国際的にも類例が見当たらないことから、「日本建築学会賞」にふさわしいと認められたのである。

これに続いて1989(平成元)年10月には、緑豊かな街づくりを顕彰する「緑の都市賞」(財団法人都市緑化基金、読売新聞社主催)で最高位にあたる内閣総理大臣賞を受賞した。

第9回「緑の都市賞」内閣総理大臣賞

多摩田園都市における公園や道路の街路樹、緑豊かな駅前広場、優良農地の保全など計画的に緑化を配置した街づくりの数々の取り組みをまとめ、「ランドスケープ・ミュージアム多摩田園都市」と総称していた。これが審査委員の目にとまり受賞に至った。同賞は過去8回いずれも、地方自治体が内閣総理大臣賞を受賞しており、民間では初めての受賞であった。当社はこれを記念して、1990年3月に『ランドスケープ・ミュージアム 多摩田園都市』を発刊した。

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