第5章 第6節 第1項 全国の未稼働資産の活用へ

5-6-1-1 広域開発本部での「カルテ」づくり

1974(昭和49)年以降の不動産取引に関する規制の強化や地価の値下がりなどにより、土地販売に過剰に依存していた東急土地開発が深刻な経営危機に陥ったことは、前章でも触れた通りである。当社は、同社が取得していた土地を買い取るなど後処理を行い、大量の未稼働資産を抱え込むこととなったが、これら資産の管理は開発事業本部の各部署に分散する格好となっていた。未稼働資産の処分と活用は1970年代末の当社において喫緊の経営課題となっており、これを早急に解決する必要から、専門部署として1979年7月に広域開発本部を新設し、未稼働資産の管理をここに集約した。

当時把握されていた未稼働資産の全リストや個々の詳細が示された資料は残されていないが、東急土地開発が1975年時点で保有していた土地の一覧は判明しているため、下表に記しておく。

表5-6-1 東急土地開発所有資産(1975年10月)
注:社内資料をもとに作成、一般分譲の各分譲地簿価は不明のため空白

未稼働資産と一口にいっても玉石混交で、到底売り物になりそうにない土地もあれば、開発次第で付加価値を生み出すと期待できる土地も少なからずあり、また開発するにしても短期に着手が可能なものから長期視点でタイミングを見計らうべきものまで、実にさまざまであった。そこで広域開発本部では、1年をかけて個々の未稼働資産ごとに「カルテ」を作成。処分すべきものは損失覚悟で早々に手放し、開発に長期を要するものは必要な下準備だけを済ませて、まずは5年単位で商品化が可能な資産について、集中的に開発に取り組む方針を固めた。

こうした検討を踏まえて事業化を決断したのは、宅地開発が可能な奈良市大和田や徳島市しらさぎ台、福岡県筑紫野市原田、金沢市の再開発事業となる金沢香林坊、そしてサファリパーク建設を企図した兵庫県東条、リゾート開発を企図した宮古島などである。

また海外の開発プロジェクトも広域開発本部がいったんは所管しており、シアトル郊外のミルクリークについては、当初計画に沿って進めていくこととなった。

なお、未稼働資産の内最大であったのは、兵庫県の播磨地域の土地で、当社関連会社の東急播磨開発の所有としていた。1983年に制定された高度技術工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)によって、播磨地区が全国で17番目のテクノポリスとして国から開発計画指定の承認を得たことから、同地の大半を兵庫県に売却。売却にあたっては当該土地の中央部(151ha)に当社がレジャー施設をつくることが条件として付されており、のちにストークヒルゴルフクラブを開業(1990<平成2>年)することとなった。

広域開発本部は未稼働資産の選別を行い、今後の対処方針を定めて実務部署に引き継ぐことを主務としており、1983年7月の業務組織改正で誕生したリゾート事業部、ビル事業部、海外事業部などにその後の事業推進を託して、4年間で役割を終えた。

5-6-1-2 奈良県奈良市大和田地区──大阪通勤圏の新たなベッドタウンに

奈良市大和田地区は、近鉄奈良線の富雄駅および学園前駅から南へ約3km、奈良市大和田町と中町にまたがる丘陵地30.5haの地区である。奈良市中心部まで約6km、大阪市中心部までは約20kmの位置にあり、近鉄奈良線で大阪まで30〜40分の距離であることから、ベッドタウンとして発展が期待され、周辺では近鉄不動産や住宅・都市整備公団によるニュータウン開発も進んでいた。

図5-6-1 奈良市大和田地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』
開発前の奈良市大和田地区

東急土地開発は設立間もない1969(昭和44)年に、一団地造成による開発を計画して土地を買い進めていたが、都市計画法による線引きで当地区が市街化調整区域に指定されたことで、計画が頓挫していた。同地区を引き受けた当社は、関係官庁や地元関係者との協議を進めたところ、開発に向けた理解が得られ、線引きの変更を伴わないまま1981年9月に開発行為などの許可を取得、同年10月に起工式を行った。

同地区は市街化調整区域内にあり、一部は第二種風致地区にも指定されていることから、さまざまな規制を受けながらの造成工事となった。とくに地区内の北東側には奈良市内でも有数の規模とされる円墳の富雄丸山古墳があり、その対処については公園の一角にそのまま保存することで決着した。宅地造成、ガス・水道・電気の各供給施設、排水施設、街路築造工事などを経て、1985年9月に工事が完了。「東急ニュータウン富雄・若草台」として販売を開始した。

5-6-1-3 徳島県徳島市しらさぎ台地区──歳月を経て高級住宅地へ

徳島市しらさぎ台地区は、1969(昭和44)年ごろに徳島県住宅生活協同組合が宅地造成に着手したのが始まりである。粗造成の段階にあった1971年8月に東急土地開発がこれを買収し、総面積83.8haの同地区を4工区に分けて一団地造成での開発を計画した。

図5-6-2 徳島市しらさぎ台地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

同地区は徳島市中心部の西南約6.5kmの位置にあり、地形的には眉山や園瀬川で市街地と分断され、交通アクセスが悪く、地元では山中の辺ぴな場所と受け止められていた。東急土地開発が1976年に第1、第2工区(合計44.4ha)の造成を完成させて、分譲地の販売を開始したのは、東急グループ内で同社の経営再建計画が重ねて議論されているさなかであった。

当社は1977年10月、第1、第2工区の販売業務と、未造成となっていた第3、第4工区の開発も引き継ぐことを決定した。開発許可の当社への継承が徳島県知事に承認され、1980年11月に第3、第4工区の開発に着手した。両地区の開発にあたっては、多摩田園都市での知見を生かして水道、ガス、下水道などの諸施設を整えたほか、住宅地以外に公園などの公共公益施設用用地を確保、高品質な住宅地の整備に努め、1982年3月に造成工事を完了させた。

「東急しらさぎ台」に設置された販売用看板

販売面では、当社が引き継いだ時点から苦戦を強いられてきたが、1980年に地元住宅業者や大手住宅メーカーと連携して建売分譲を強化。さらに1981年には徳島新聞社との共催で住宅展示会を開催して「東急しらさぎ台」の名前が一躍知れ渡った。これ以降、他の開発地区でも同様の拡販手法が展開されることとなった。

東急土地開発が開発に着手した時点で、4工区合計の総区画数1393区画、5500人の街づくりは、人口約26万人(当時)の徳島市において、市場規模に合わない計画という見方もあった。だが景観を重視した街づくりに粘り強く取り組み、のちに市街地に通じる道路整備がなされたこともあって、高級住宅地として定評を得るに至った。近年では周辺地域に文化の森総合公園や徳島市総合動植物公園が整備され、住環境のいっそうの向上が進んでいる。

5-6-1-4 福岡県筑紫野市原田地区──小郡・筑紫野ニュータウン最大の街づくり

1972(昭和47)年に開発計画が持ち上がっていた南福岡の小郡・筑紫野ニュータウンは、オイルショックの影響などにより計画が滞り、当社が取得していた土地も事実上の未稼働資産となって、広域開発本部の預り案件となっていた。その後1981年8月に開発対象地域が市街化区域に線引き変更され、ようやく開発着手となった。

図5-6-3 筑紫野市原田地区・小郡市苅又地区案内図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

小郡・筑紫野ニュータウンは当社、東急不動産、西日本鉄道、西鉄不動産の4社と筑紫野市、小郡市の2市が事業主体となって土地区画整理事業により開発を進めるもので、当社は筑紫野市原田(はるだ)地区と小郡市苅又地区を担当。この内1980年代に開発事業が進捗したのが前者の筑紫野市原田地区で、1983年2月に土地区画整理組合の設立が認可され、翌1984年11月に起工式が行われた。

筑紫野市原田地区は約144ha、小郡・筑紫野ニュータウン合計9地区のなかでは最大面積で、総戸数2700戸、人口9400の街づくりをめざした。同地区は公共施設の整備に重点を置いた都市計画事業に指定されており、国の補助対象事業であったことから、「公共施設用地面積が、地区全体面積の25%以上であること」「幅員12m以上の都市計画道路の用地費と建設費が全事業費の3分の1以上であること」が条件として付された。実際の土地利用計画では全体の約35%を道路や河川、公園などの公共用地とし、事業費の内43%を国と県、市からの補助金で賄うこととした。

事業施行にあたっては、国の「ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業」の指定を全国で初めて受け、公共施設整備のグレードアップを目的に補助金を導入、テレビ共同視聴施設(宝満CATV)の導入、クリニックゾーンの設置、大型ショッピングセンターの早期誘致、高圧送電線下の公園化などを実施した。また国の指定史跡である五郎山古墳を自然林豊かな公園の中にそのまま保存し、地域内の憩いの場とした。

福岡県 小郡・筑紫野ニュータウン「東急ガーデンヒルズ美しが丘」

同地区の東側には東急不動産の担当地区である隈・西小田地区があり、分譲販売にあたっては、共に筑紫平野の緑豊かな丘陵地のイメージから「東急ガーデンヒルズ」の統一名称を使い、筑紫野市原田地区は「東急ガーデンヒルズ美しが丘」とした。多摩田園都市におけるモデル地区となった美しが丘(横浜市青葉区)の優れた街づくりを九州にも、との思いから命名したものである。

土地区画整理事業を進める一方で、1988年秋からは第一期分譲に向けて建売住宅の建設を並行して進めた。大手住宅メーカーや地元住宅メーカー合計27社と提携、街並み形成のガイドプランに則って景観に配慮しながら各社が商品企画を行ったのも特色であった。

また同地区の南側には「美しが丘プレステージアベニュー」という、福岡でも屈指の高級住宅街を設けた。1戸あたりの敷地面積を一般の2倍強とし、高いレベルの建築協定の下、グレード感の高い住環境を生み出した。このゾーンは、1991(平成3)年10月に、都市景観大賞を受賞。九州でも当社の街づくりが高く評価された。

福岡県 筑紫野市原田地区「美しが丘プレステージアベニュー」

このあと1990年代には、筑紫野市原田地区の南側に隣接する小郡市苅又地区でも土地区画整理事業が本格化する。

5-6-1-5 金沢市香林坊再開発事業──再開発ビルの建設へ

金沢市の香林坊と武蔵ヶ辻は、共に江戸時代から北陸街道沿いの商業地として栄えてきた地区である。後者の武蔵ヶ辻は、市の再開発事業により1973(昭和48)年に金沢名鉄丸越百貨店や名古屋鉄道系の複合施設が開業、市内を代表する商業地となった。一方、香林坊でも同時期に再開発計画が持ち上がって一部着手されたものの、オイルショックの影響などにより事業が中断した。

この香林坊地区には、東急土地開発の子会社が所有する土地があったことから、1979年8月、金沢市から当社に再開発事業への参加が要請され、当社は市が権利関係の調整を行うことを条件に要請を受諾した。1982年3月に再開発組合が設立され、再開発事業が本格的に動き出した。

具体的には、香林坊地区の一部(金沢市香林坊第一地区)6034㎡に地下4階地上16階の複合ビルを建設して、新たな商業集積地とするもので、総事業費148億7000万円の内、103億3000万円を当社が負担。店舗部分(地下2階〜地上4階)の一部と、ホテル部分(地下2階〜地上16階)のすべてを当社が取得することとなった。

香林坊第一地区市街地再開発ビル

当社は店舗部分を株式会社ティー・エム・ディーに、ホテル部分を東急ホテルチェーンに一括賃貸し、ティー・エム・ディーは渋谷のファッションコミュニティ109の全国展開の第1弾として1985年9月に「KOHRINBO109(香林坊109)」を出店、東急ホテルチェーンは日本海側への初進出となる「金沢東急ホテル」をオープンした。

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