第5章 第11節 第1項 資金調達の多様化とOA化の進展

5-11-1-1 旺盛な資金需要を背景に有利な資金調達に注力

東急グループでは、1977(昭和52)年に東急百貨店が米貨建て転換社債を発行したのを皮切りに、外債(外貨建て債券)の発行が相次ぎ、1985年末時点で8社が合計25回発行、発行時の円換算で総額1449億円の資金調達を行った。金融の自由化が進んでいた国では、日本国内よりも低利で資金を調達できるのが大きなメリットで、グループ各社が順繰りに起債することにより海外市場で「Tokyu」の知名度が上がり、海外事業展開の下地になるという思惑もあった。

当社においても財務部を中心に、時勢に合わせた有利な資金調達の手段を求め、1980年11月に総額7000万米ドルの米貨建て転換社債を発行、欧州およびアジアを中心とする海外市場(米国を除く)で公募した。これは日本国内での設備投資資金のほか海外投資(とくにマウナ ラニ ベイ ホテルの建設)の一部に充当するもので、1982年2月にも海外ホテルの建設資金に充てる目的で3000万米ドルの米貨建て転換社債を発行。またシンガポールでの事業展開に備えて、同国内での投資に限定したうえでシンガポールドル建て転換社債を1982年9月に発行した。シンガポール通貨庁が外国企業に起債を許可したのは、これが初めてであった。こうした海外事業展開に合わせた外債の発行は、低コストでの資金調達のみならず、為替リスクの回避を目的としたものでもあった。

1985年1月には当社では初めて、新株引受権付社債(ワラント債)を発行、海外市場で公募した。新株引受権付社債は商法改正により認可されたばかりで、確定利回りの堅実性を有する社債と投機性を有する、株の中間にあたる金融商品であった。このほか、鉄軌道事業などの設備投資を目的とする国内市場での転換社債発行もたびたび行い、当社の旺盛な資金需要を支えた。

当社資本金は1980年3月時点で248億1000万円であったが、転換社債の株式への転換や新株引受権の行使、既存株主を対象とした無償割当による新株式発行などにより資本金が年々増加。これに加えて1989(平成元)年3月10日には一般公募による新株発行を中心として390億円超の増資を行い、資本金を1022億1259万9000円とした。当時の発行済株式総数は10億株を超えた。

5-11-1-2 通信網整備など情報化対応への取り組み

  • 東急市ヶ尾情報センター
  • センター内のマシン室に大型汎用コンピュータが並ぶ

当社は1970(昭和45)年3月に渋谷東急ビル(渋谷東急プラザ)7階に初代の中型汎用コンピュータを導入し、東急不動産、東急観光と3社で共同利用してきた。その後、1978年には情報処理能力の高い新機種に更新したものの、各社の情報処理量はますます膨大になっており、とくに各航空会社とのオンライン接続を開始した東急観光は、国鉄とのオンライン接続も控え、情報処理量の拡大が予想されていた。また3社以外にもコンピュータ利用を広げる必要から、東急グループの情報化の拠点となる専用施設を設けることを決定。当社社有地に、1982年4月「東急市ヶ尾情報センター」を竣工させ、ここに日立製大型汎用コンピュータ(メインフレーム)M-200とバックアップ用のM-180を設置した。またこのセンターにはデータ作成室も設けられ、約30人のキーパンチャーが伝票の数字を入力し、処理用のデータを作成していた。コンピュータ利用に特化した専用ビルの建設は、金融機関以外では国内でもまれであった。

当社線沿線の主要区間に光ケーブルを敷設して光通信用幹線とし、東急市ヶ尾情報センターのメインフレームと各事業所の端末を高速度通信で結ぶなど、独自の情報ネットワーク整備に着手した。ちょうど電電公社が光ケーブルを使った高度情報通信システムを提唱し、普及に乗り出し始めた時期であった。

光ケーブルは電気的なノイズの干渉をほとんど受けないため鉄道線路のような高圧電線沿いの敷設に適しており、何よりも大量の情報を高速度で遠距離まで送信できる点が大きな特長で、これまで情報通信用に使われてきたメタルケーブル(銅線)に置き換わるものとして期待を集めていた。

光通信網建設工事は、渋谷の本社と分室(交通事業部が入居していた新南平台東急ビル、現在の渋谷ソラスタ)、奥沢総合ビル、東急市ヶ尾情報センターの4か所を結ぶことを念頭に、東横線渋谷〜元住吉、自由が丘〜二子玉川園〜中央林間の間の敷設を進めていき、1987年5月におおむね工事を完了させた。

この光通信網完成により、鉄軌道事業においても大きな進展があった。鉄道電話(社内専用電話)自動交換機のデジタル化推進、駅業務オンラインシステムや駅自動放送システムの高度化、沿線に設置した地震計や風速計、雨量計と連携した気象情報集中監視システムの稼働開始などである。さらに当社の基幹業務関連では、従来進めてきた情報処理の高度化に加えて、新たにテレビ会議システムを導入したほか、出務データシステムの導入による給与計算の省力化など数々のメリットが生み出された。

1988年4月には、NEC社製のオフィスコンピュータ(ACOS)により新会計情報システム「TRAIN」が稼働した。それまでの伝票による会計処理からオンラインシステムとなったことからオペレーターによる入力作業が削減、ペーパーレス化が進捗し、処理時間も大幅に短縮された。

新会計情報システム「TRAIN」の火入れ式(1988年4月1日)

1989(平成元)年7月には二子玉川駅近くにOA館(やかた)を開所し、当時ワークステーションと呼ばれ普及が進み始めていた卓上型コンピュータ(NEC N5200シリーズ)への習熟を支援すべく社員向けにコンピュータ教室を開いた。かつてコンピュータは当社を含む3社の電算部門だけが専門的に扱うものだったが、全社員の日常業務に身近な存在となってきたのが1980年代の大きな特徴である。

なおこのNEC N5200シリーズワークステーションがPC9800シリーズなどのパソコンに置き換わるのは1990年代に入ってからとなる。

パソコンは1人1台ではない時代だった(1995年ごろ)

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