第5章 第1節 第2項 五島昇社長体制からの移行を段階的に

5-1-2-1 五島昇社長の日本商工会議所会頭就任

五島昇社長は、当社の事業分野に関連した業界団体などの役職を数多く歴任しており、1984(昭和59)年5月には日本商工会議所および東京商工会議所の会頭に就任した。

東京商工会議所会頭は、日本商工会議所会頭を兼務するのが慣例となっている。当時の永野重雄会頭(新日本製鐵会長)は、日本商工会議所が発足して以来、最も長期にわたって会頭を務め、財界四天王とも呼ばれた人物である。五島昇社長は、永野会頭から要請を受けて、1973年7月に東京商工会議所副会頭に就任しており、5人の副会頭のなかで最も年齢が若かったが、その手腕が期待されていた。1984年4月に永野会頭は記者会見で、83歳の高齢であることや健康上の理由などから退任を表明、次期会頭に五島昇社長を推薦することを明らかにした。五島昇社長の会頭就任が正式に決定したのは5月11日のことで、この間の5月4日には永野重雄が急逝し、五島昇社長は黒ネクタイ姿で就任報告の記者会見に臨んだ。

就任記者会見に臨む五島昇社長

サービス産業からの財界トップ就任は異例のことで、当時の経済四団体のなかでは最も若い67歳での就任であった。また財界トップを務める者は出身母体企業では会長もしくは相談役などを務めるケースが大半であったが、五島昇社長は東急グループ各社の社長や会長を辞する一方で、東急グループの司令塔である当社では社長を続投し、グループ全体の方向性を示すこととした。

5-1-2-2 東急総合研究所の設立

1984(昭和59)年4月に開催された「東急グループ社長会」で五島昇社長は、日本商工会議所の次期会頭就任が内定している現状を踏まえて、次のようにあいさつを述べた。

会頭就任に伴って考えられることは東急グループの仕事に相当な影響が出てくるということです。東急の本社に座っている時間は非常に少なくなって、ほとんどは丸の内の商工会議所の会頭室になります。定位置は丸の内に移ります。(中略)今までは、仕事の内容について直に伺ったり、あるいは私が陣頭指揮にあたる、とくに新しい事業に関しては自分で号令をかけるというかたちでやって参りました。しかしこれからは、レールを敷き、電車を走らせるのは、皆さんにやっていただくことになろうかと思います。ただ、方向性については、注文を申し上げたいと思います。

五島昇社長は日本商工会議所会頭就任と同時期に、総合生活研究所(シンクタンク)の設立に向けた検討を指示し、1985年7月の業務組織改正で新たに総合生活研究所設立準備室を設けた。前述のように、このとき企画政策室は「超長期経営戦略」策定を進めていたが、これは大きな枠組みを示すものであり、個々の事業分野など各論部分では、時代の変化を見据えながら柔軟に戦略・戦術を立てていく必要があった。この役割を補完する頭脳をグループとして持つことが狙いであった。

東急総合研究所の研究員による研究発表会(1999年)

また五島昇社長は、日本はサービス業の分野で米国を手本にしてきた経緯があるが、経済大国となった以上は自ら主体的にサービス業の行く末を探っていかなければならない。それができるのは、ほかでもない東急グループだ、との思いがあった。しかし、「総合生活産業」をめざしていくには基礎的な調査研究が足りていないとの認識を抱いていた。例えばリゾート分野では、21世紀には長期滞在型のリゾートが主流になるであろうという総論はすでに世の中にあふれていたが、東急グループがどのようなリゾートを展開していくべきなのか、答えを見つけるのは容易ではない。答えを知るには、人々の価値観がどう変化していくのかなど、幅広く調査研究する必要がある。

こうして1986年11月に株式会社東急総合研究所が設立された。当面の研究テーマは次の3項目となった。

①余暇活動ニーズの変化に着目したグループの文化、健康産業の方向づけに関する研究
②グループの消費流通関連企業の適正なマーチャンダイジングその他販売諸政策のための研究
③グループの行う都市再開発、地域開発、交通事業に関する調査研究

グループ外からの研究受託を主とする研究所ではなく、いわば東急グループ各事業にかかわる研究・情報を通じて、東急グループの向かうべき方向を示す羅針盤の役割を期待された、「グループ内シンクタンク」の設立であった。

1988年から毎月発行された東急総合研究所の研究誌『TRI-VIEW』

5-1-2-3 横田二郎の社長就任と東急グループサミットの開始

五島昇社長は日本商工会議所会頭として、各地の商工会議所会員らとの対話を重んじ、地方へ積極的に足を向けた。4期8年くらいは会頭職を務められるのではないかと考え、まずは地盤固めに奔走したのである。だがその負担が大きかったのか、1985(昭和60)年には大腸ポリープ摘出手術で入院、1987年5月には胃潰瘍で入院し、胃の全摘手術を受けた。公職に支障を来すことから、1987年12月には日本商工会議所および東京商工会議所の会頭を辞任。2期目途中での降板となった。

1987年5月の入院に際して五島昇社長は、当社社長を退くことを決断した。横田二郎専務を後任に指名し、1987年6月に横田二郎が副社長に就任したあと、12月に社長に就任。五島昇社長は会長として大所高所から東急グループ全体を見ていくこととなった。

横田二郎社長

横田二郎は1923(大正12)年に生まれ、1945年に東京帝国大学第一工学部電気工学科を卒業して当社に入社。主に鉄軌道事業に携わり、交通事業本部副本部長などを経て、1973年5月に取締役に就任。交通事業本部長、常務、専務を務めてきた。関連会社では伊豆急行社長、東急総合研究所社長としても経営基盤の強化にあたった。また武蔵工業大学助教授として原子力の研究に携わっていた時期があり、学者肌の面もあった。

五島昇会長は当社の経営を横田社長に託す一方で、東急グループの結束力を強めるため、グループ運営に関する最高意思決定機関として「東急グループサミット」を設置することとした。五島昇会長が議長を務め、横田社長、2人の副社長に、グループサミット事務局を担当する専務の4人を常任メンバーとし、テーマに応じて関係会社社長や当社の担当役員が参加、意見交換を行って意思決定を行う月1回の会議体である。第1回は1988年6月に開催した。これと併せて、サミットでの決定事項を周知徹底するための会議体として、横田社長を議長とする「東急グループサミット連絡会議」を設置し、第1回を1988年12月に開催した。

東急グループサミット連絡会議での横田社長

五島昇社長は日本商工会議所会頭就任後多忙を極めたため、1985年6月から2年間、当社は過去に例がない6専務6常務体制をとって事業の推進を図った。さらに五島昇会長・横田社長体制となり、東急グループサミットと東急グループサミット連絡会議が設置されることで、東急グループの運営体制がいったんは定まったのである。

5-1-2-4 [コラム]横のつながりを形成する「東急会」の全国組織化

意思決定の上意下達がタテ糸とすれば、東急グループにおいて、会社組織、地域をまたいで相互につなぐヨコ糸の役割を果たすのが東急会である。全国各地にグループの事業所が進出したことで、1963(昭和38)年以降、各地で情報交換や親睦の会が行われるようになった。そして1970年代には、大阪、札幌、名古屋、ハワイなど8つの地区では、「東急会」という名称で、勉強会や親睦会などさまざまな活動が行われていた。さらにこれらの東急会は、地域社会との接点を設け、地域貢献の姿勢を示すことが必要だと考え始めた。

そこで、これまでの自然発生的な任意の団体から、東急グループの正式な機関として組織化することになった。1980年9月、全国を9つのブロックに分けて9つの地域東急会を、それぞれの下部組織として地区東急会を設け、これらを統括する「東急会連合会」が発足した。

図5-1-2 東急会組織図(1989年3月末)
出典:『とうきゅう』1989年6月号

1983年4月 ハワイ東急会が「東急会連合会」に加盟、1989年3月 東関東東急会を発足、同年9月ASEAN東急会を発足、1990年11月 米国・カナダ東急会を発足しハワイ東急会は地区東急会の一つに

1973年6月の第1回以降、毎年恒例となっていた「札幌とうきゅうオープンゴルフトーナメント」では、すでに札幌東急会が協賛活動を進めていたが、東急会の組織化により、東急グループのPRを行う東急広報委員会と東急会が連携した地域密着型の活動が活発化した。

各地の東急会ではママさんバレー大会、マラソン大会、五島美術館名品展、文化講演会などのほか、地域清掃活動、環境保護活動なども自主的に企画し、それぞれの地域ならではの社会貢献活動を東急広報委員会が後方から援助する形をとった。この東急会の活動を評して五島昇会長は「東急会はバランスシートに載らない資産」と表現し、その活動を支援し続けた。

東急会はその後も、各種活動を地道に継続して地域との結びつきを深めており、今日に至るまで東急グループのイメージ向上、地域へのブランド浸透ならびにコミュニケーションリーダーの役割を担っている。

「豊平川クリーン作戦」(札幌東急会主催)

5-1-2-5 五島昇会長の死去

五島昇会長は1987(昭和62)年の手術後、プライベートではゴルフや趣味のトローリングを楽しむまでに体調が回復し、当社会長としてグループの舵を取ると共に、公職はPBEC(太平洋経済委員会)日本委員会委員長と東京ファッション協会(現、日本ファッション協会)会長に絞って、その任にあたった。しかし1989(平成元)年1月に定期検診のために入院したあと体調を崩し、同年3月20日早朝に息を引き取った。72歳であった。

3月23日に五島美術館別館で行われた密葬・密葬告別式には、竹下登首相や中曽根康弘元首相をはじめ各界著名人が多数駆けつけ、前日の通夜を含めて弔問者は約1万4000人に達した。4月26日には東急グループと日本商工会議所、東京商工会議所の合同葬儀が増上寺大殿で行われ、一般会葬者も含め約2万5000人が最後のお別れをした。

五島美術館別館で行われた密葬・密葬告別式
五島昇会長に最後のお別れをする参列者(増上寺大殿)

五島昇会長の死去を受けて、横田社長は3月20日、緊急に東急グループ15社の首脳を招集して臨時の東急グループサミットを開催。満場一致で横田社長がサミット新議長に選出され、グループの結束をもって難局にあたることを確認した。

東急グループは334社(当時)からなる企業集団であった。この巨大グループを独力で統率するのは至難であることから、横田社長は1989年6月の役員改選で、副社長2人を代表取締役に選定し、サミット事務局長を務める専務を含めて4人による体制とした。

このころ東急グループの上場会社は株価の異常な高騰に見舞われていた。グループ各社の株式争奪戦が繰り広げられ、一部には敵対的とも思える株の買い占めがあった。五島昇会長自身、当社のみならずグループ会社の持株比率は1%前後で、当社も、グループ会社の筆頭株主であっても、持株比率は高くなかった。これまで、子どもの巣立ちを促すかのように、関連会社の株式上場を奨励してきており、当社を含めて13社(店頭公開も含めると14社)が株式を公開している企業集団は、異色であった。

表5-1-1 東急グループ株式公開会社一覧(1990年末)
注1:東急グループ各社「有価証券報告書」をもとに作成
注2:店頭公開会社 日本エアシステム(1987.3.23店頭登録、登録当時は東亜国内航空)、当社以外は上場順に掲載

資本関係以上に、五島昇会長のカリスマ性が人心を捉え、それによって人のつながり、事業の連携が生まれて結束していたのが東急グループの実態であった。しかし、五島昇会長亡きあと、1990年代に入ってから資本的な結びつきの弱さがアキレス腱となっていく。巨星を失ったあとの試練であった。

東急100年史トップへ