第5章 第2節 第2項 目蒲線を活用した東横線の複々線化と新たな都心直通

5-2-2-1 東横線の混雑緩和が差し迫る課題に

長らく続いてきた新線建設が田園都市線の全線開通によって一段落を迎え、事業収支の改善も徐々に進んできたところで、次に着手すべき課題となったのが東横線の混雑緩和である。

東横線は、1959(昭和34)年6月に急行列車を4両編成から5両編成とし、同年末に平均運転間隔を2分30秒まで短縮して、輸送力を増強していたが、1960年代初頭は混雑率が250%を超える状況にあり、朝間(午前7時〜9時)の通勤時間帯を中心に窓やドアのガラスの破損事故も頻繁に起きていた。中目黒駅から都心へのバイパスとなる営団日比谷線への直通運転(1964年)や、ホーム延伸による朝間の一部急行列車の8両運転(1970年)などを実施し、1971年には混雑率が235%に低減したものの、抜本的な解決にはならなかった。

その後、1973年のダイヤ改正で運転間隔を2分4秒まで短縮(元住吉〜中目黒間、平日のみ)したほか、二子玉川園~自由が丘を経由して東横線を利用していた乗客が、1977年に開業した新玉川線の利用に移行したことなどもあり、1978年度は混雑率が198%まで改善されたが、1979年度以降は再び混雑率が上昇に転じた。

東横線の輸送需要は東京都内ではほぼ横ばいだったものの、神奈川県内では、横浜駅(相鉄線、京浜急行線、国鉄東海道線)や菊名駅(国鉄横浜線)、武蔵小杉駅(国鉄南武線)からの乗り換え利用が増えており、今後も他社線からの流入が年2%程度増加すると見られた。

東横線は、1950年代以降に都市人口が急速に膨らむなかで鉄道用地の際まで宅地化が進んでおり、新たな鉄道用地の確保もままならず、車両の長編成化に必要なホームの延伸にも限界があった。

当時の東横線の主力車両 8000系電車(渋谷駅付近)

1980年代初頭の時点で、さらなる輸送力増強に向けて取れる対策の選択肢は少なく、差し当たって可能な対策は、1969年から部分的に運用していた8000系を増備することであった。従来の車両は、車体長17ⅿ~18m 、乗降用ドアが3つだったが、8000系は国鉄をはじめ大都市圏の鉄道で主流であった車体長が2m長い20m、4ドアとし、乗車人数が増えると共に、乗降がスムーズになり、駅での停車時間を秒単位ではあるが短縮することができる。1982年4月以降、この20m車両である8000系および1980年12月に就役した軽量ステンレス車両8090系による7両編成(1982年以降順次8両編成)を急行列車に充当するなど、輸送力増強策を実施した。ただし、これも応急的な措置にすぎないと見られた。

東横線の急行に投入された軽量ステンレスカー8090系

これに対して、抜本的な混雑緩和策として1970年代前半から検討を進めていたのが、目蒲線を活用して東横線を実質的に複々線化するという構想である。具体的には、日吉から多摩川園まで現下の東横線に並走する新線(腹付線増)を建設し、多摩川園から都心側は目蒲線につなげるというもので、これにより神奈川県内から東横線を利用して都心へ向かう場合に、渋谷のほかに目黒を経由する選択肢が生まれ、混雑の分散を図ることができる。

すでに1962年の都市交通審議会6号答申で地下鉄7号線(のちの東京7号線、目黒〜赤羽町)が設定されており、1972年の同15号答申では目黒側の路線計画はそのままに、北側は王子から埼玉県内まで延ばす計画(目黒〜浦和市東部)が示された。目黒駅から地下鉄で都心へ直通することができれば、当社としても既存の目蒲線を活用して鉄道のネットワーク性をさらに向上させることができると考えられた。

改良前の田園調布駅ホーム
図5-2-1 目蒲線改良による東横線複々線化工事概要図
出典:「東急からのお知らせ」1987年10月号

5-2-2-2 特々法(特定都市鉄道整備促進特別措置法)に基づく事業の認定

1985(昭和60)年7月、運輸政策審議会第7号答申に、当社に関連する計画として、目蒲線の目黒〜多摩川園間の改良、目黒駅での地下鉄線との相互直通運転、東横線の多摩川園〜大倉山間の複々線化が盛り込まれた。目蒲線で相互直通運転を行う地下鉄線は、東京7号線(のちの営団地下鉄南北線)のほかに、東京6号線(都営地下鉄三田線)も加わった。

東京6号線は、1973年までに三田〜高島平間が順次開業(当時の路線名は都営6号線)しており、1972年の都市交通審議会第15号答申で、西側にさらに延長し、三田から清正公前(現、白金高輪)を経由して、港北ニュータウン方向へ延伸する構想が打ち出されていた。その後の検討の結果、東京6号線は目黒駅で目蒲線と相互直通運転を行うこととなった(清正公前〜目黒は東京7号線と共用)。また同15号答申では、東横線日吉駅と港北ニュータウンを結ぶ横浜4号線(現、横浜市営地下鉄グリーンライン)を接続することが計画された。

1985年の運輸政策審議会第7号答申で当社の近年の鉄道ネットワーク形成にもう一つ大きなインパクトとなったのが、同答申にかかわる議論を発端に、輸送力増強にかかわる新たな資金調達の仕組みとして、「特定都市鉄道整備積立金制度」が設けられた点である。

複々線化工事をはじめ、輸送力増強には多大な投資が伴うが、輸送力増強によって得られる投資回収には長期間を要するため、鉄軌道事業者にとっては大きな負担となる。そこで、工事費用の一部をあらかじめ運賃に上乗せし、その増収分を積み立て、工事費用の一部に充て、鉄軌道事業者は工事完了後に10年間で均等に積立金を取り崩して益金に参入するという仕組みである。これは当社が東武鉄道などと共に運輸省に働きかけた結果、この制度の法的根拠となる法律として1986年に「特定都市鉄道整備促進特別措置法(以下、特々法)」が制定され、併せて租税特別措置法の一部改正により積立金が一定の条件の下、非課税の取り扱いとなった。

利用者にとっては運賃の上乗せ分が事前の負担となるが、輸送力増強が促進されることで混雑緩和のメリットを享受でき、工事完了後に運賃が大幅に値上げされずに済むこととなる。鉄軌道事業者にとっては工事費用の内一定額を無利子で資金調達できるのが大きなメリットで、利用者と鉄軌道事業者の負担が将来にわたって緩和、平準化される点に特徴がある。

当社では東横線の複々線化に向けた工事費用の負担軽減策として、当初は鉄建公団によるP線方式の活用などを検討していたが、これに代わって特々法を活用することを決定。同法に基づいて運輸省が推進する「特定都市鉄道整備事業計画(以下、特々事業計画)」の認定を受けるべく1987年10月に申請を行い、同年12月に認定を受けた。認定対象工事は、東横線日吉~多摩川園間の複々線化および、目蒲線多摩川園~目黒間を20m車両8両編成の乗り入れ可能な規格に改良、目黒駅を地下化し地下鉄線と接続、というものであった。

同時期には、東武伊勢崎線、西武池袋線、京王線および京王井の頭線、小田急小田原線でも輸送力増強に向けた各種工事が特々事業計画の認定を受けた。この制度が首都圏の鉄道ネットワーク拡充に果たした役割は極めて大きかった。

表5-2-4 特定都市鉄道整備事業計画 1987年12月28日認定会社一覧
注:国土交通省「<第7回 都市鉄道における利用者ニーズの高度化等に対応した施設整備促進に関する検討会>遅延・混雑対策に係る整備スキームについて」をもとに作成
※:京王は加算運賃を設定せず、運賃改定のみ実施

5-2-2-3 東横線の複々線化に向けた工事に一部着手

特々事業計画の認定を受けた東横線複々線化および目蒲線改良にかかわる工事は、目蒲線目黒駅から東横線日吉駅までと工事対象区間が長く、その工事内容も多岐にわたるものであった。その内容は以下の通りであり、当初は1997(平成9)年の完成を目標としていた。

(1)目黒駅改良工事(1991年4月着手)

都心側地下鉄と相互直通運転可能な構造にするため、地上にある駅、ホームを地下化するもので、地下4階に8両編成用のホーム1面2線、地下3階に改札、コンコースを設ける。

(2)目黒~洗足間立体交差工事(1995年11月着手)

目黒川から洗足駅間の2.8km区間には踏切が18か所あり、相互直通運転後はラッシュ時間帯の踏切遮断時間が2倍程度になると見込まれることから、不動前駅を高架駅に、武蔵小山駅と西小山駅を地下駅にして、目黒~洗足間の全区間を立体交差化し、東西の分断解消および道路交通の円滑化を図る。また、武蔵小山駅に列車待避施設を設け、急行列車の追い抜きができるようにする。

(3)洗足駅付近施設改良工事(1995年7月着手)

目黒方へホームを延伸し、8両対応可能とし、併せて洗足変電所を新設し設備増強を図る。

(4)大岡山駅改良工事(1990年10月着手)

目蒲線と大井町線のホームを地下化し、乗り換えが便利になるように同一方向同一ホームにする。さらに地下化により駅前の大踏切(大岡山1号踏切)を含む5か所の踏切を解消し、運転保安度の向上と道路交通の円滑化を図る。

(5)洗足~奥沢間施設改良工事(1998年8月着手)

8両編成対応のため洗足・奥沢両駅のホームを延伸すると共に、奥沢車庫留置線の変更、および両駅間の各種電気工事を行う。

その後、奥沢駅ホームについては暫定6両対応の工事とし、8両化対応は次期工事とした。

(6)田園調布~多摩川園間改良工事(1988<昭和63>年11月着手)

東横線多摩川園以遠の増設線を、目蒲線に接続するため、田園調布駅は全面地下化し、同一方向同一ホームとし、上部の人工地盤に自由通路を設けて東西の街を一体化する。多摩川園駅は方向別の高架ホームとすると共に、多摩川園~蒲田間の運転のためのホームを地下に新設する。

(7)多摩川橋梁架替・増設工事(1992年2月着手)

1926(大正15)年の開業以来築70年弱経過し、老朽化も進むことから、既存橋梁を架け替え、増設橋梁を架設して、複々線化する。

(8)多摩川橋梁~武蔵小杉間線増工事(1993年12月着手)

新丸子駅付近は高架橋を拡幅し2面4線のホームにすると共に、武蔵小杉駅については盛土を撤去し2面4線の高架駅にする。

(9)武蔵小杉~日吉間線増工事(2000年4月着手)

東横線本線と車庫線が道路と交差する元住吉1号踏切は、踏切遮断時間が長いことから解消が求められていた。車庫線を除く4線と駅部分を高架化することで、踏切は残るが、踏切遮断時間の大幅短縮を図る。これに合わせて、陸橋で東横線を越えていた尻手黒川道路は地上へ、鉄道線は高架にして、位置を入れ替える。また、複々線化に伴う車両数増加に対応するため、元住吉車庫を拡張する。

当初の認定では元住吉駅を含む東横線の直上(武蔵小杉駅下り方の下り勾配から元住吉車庫終端の手前・尻手黒川道路の手前まで)に高架橋を新設し、増設線は元住吉にホームを設けない計画であったが、元住吉1号踏切の踏切遮断時間短縮や元住吉駅の利便性の点で川崎市および地元関係者との協議の結果、上記計画に変更することになった。

(10)日吉駅改良工事(1988年3月着手)

ホームの地下化および拡幅を行い、東西に分かれている改札口を統合、コンコース・自由通路などの整備を行う。

(11)ATC化工事

すでに運転されている地下鉄線と相互直通運転を行うため、ATC(自動列車制御装置)を導入することとした。運転保安度の向上ならびにホームドア採用による定点停止を図るために採用したもの。

この内1980年代に着手したのは日吉駅改良工事(1988年3月着手)と田園調布〜多摩川園間改良工事(1988年11月着手)の2つである。

日吉駅は、東横線と営団日比谷線との相互直通運転開始(1964年)以来、神奈川県側の折り返し駅となっていた。東横線の複々線化完了以降も列車運行上の要衝となるため、改良することとした。具体的には、線路路盤を3.5m掘り下げてホームを地下化し、この上に人工地盤を新設、駅を挟んで分断されていた東西の行き来がしやすくなるように改めるものである。

掘り下げ工事が進む日吉駅

田園調布〜多摩川園間改良工事は、東横線複々線化にかかわる工事のなかでも最大規模の工事である。この区間はこれまでも東横線と目蒲線が並走してきた区間で、従来は路線別の配線となっていたが、方向別運転に変更する必要があった。

まず田園調布駅は全面地下駅として同一方向同一ホーム(2面4線)を確保する。また目蒲線は従来目黒~蒲田間の運転であったが、多摩川園駅で系統を分割した。具体的には都心直通ルートとなる2路線(東横線とのちの目黒線)4線を高架化して、一方多摩川園〜蒲田間(のちの東急多摩川線)は折り返し運転するために多摩川園駅の地下にホームを新設することとした。なお、田園調布駅の東横線、目黒線と多摩川園駅の地下ホームにつながる連絡線の間には、渡り線を設けた。

多摩川園駅の目蒲線下りホームを仮設ホームへ切り替え

5-2-2-4 [コラム]世代交代が続く鉄道車両

1980(昭和55)年からは軽量ステンレスカーの8090系を導入した。当時主力であった8000系に比べ、車体・主電動機の軽量化、冷房電源装置に当時最新技術のインバータを一部使用するなど新機軸を打ち出し、1車両あたり2トン、8%もの軽量化を実現した。ステンレスカー特有の側面の凸凹(コルゲーション)がなく、すっきりした外観が特徴で、東横線の急行を中心に活躍した。

軽量ステンレスカー8090系(1982年3月)

1986年には9000系が東横線に登場した。9000系は1983年9月から開発を進め、快適な居住性と乗り心地を追求、併せて消費電力の低減、メンテナンス性の向上が図られた。

最大の特徴は、量産車では当社で初めてVVVFインバータ制御と三相交流かご形誘導モーターを採用したことで、省エネルギー効果が高いほか、モーターのメンテナンス性が格段に向上するなどの利点がある。VVVFインバータと交流モーター採用の電車はその後当社の標準となっていく。

9000系車両「自由が丘駅77周年記念号」(2006年10月)

こうしたなかで車両の新旧交代が徐々に進められ、5000系(初代)が1986年6月に、3000形(初代)が1989(平成元)年3月に当社線から引退した。

3000形の車両にはさまざまな形式があったが、その主たる3450形車両は、目黒蒲田電鉄および東京横浜電鉄時代の1931年から1936年にかけて、川崎車輛(44両)と日本車輌製造(6両)で合わせて50両が製造された(当時の型式名称はモハ510系)。戦前は一形式で50両も製造する例はあまりなく、車種の統一を図ることで、メンテナンスの効率化を図ったのである。戦時中に焼夷弾を受けて修理した車両が少なからずあり、戦後の昇圧工事や車体工事を経て外観イメージが変わったが、長く走り続けた車両で、目蒲線と池上線の20両が最後となった。

田奈駅に到着した田園都市線上り大井町行3450形(1967年)

5000系は戦後、設立間もない東急車輛製造が製造した車両で、当社初の直角カルダン駆動による高性能電車であり、車体重量の大幅削減を目的に張殻(モノコック)構造を採用した。車体の骨組みは台枠〜側面〜屋根を曲線で結び、これに外板を張って円筒状にするという構造である。これにより従来の3000形に比べて、1車両(電動車)あたりの重量が38トンから28トンに軽量化された。1954年10月に東横線に就役すると、丸みを帯びた外形やグリーンの塗装から「青ガエル」の愛称で呼ばれるようになり、当社の代表的な車両として親しまれた。1959年までに105両が製造され、田園都市線と大井町線でも運行、最後は目蒲線で活躍した。

東横線で活躍していたころの5000系電車

5000系車両と3000形車両の一部は、当社線を引退したあと、改造や新塗装を施して、地方鉄道で第二の人生を送った。

また1980年代の東急グループの車両で異彩を放ったのが、伊豆急行に1985年7月に就役した伊豆急行2100系電車(愛称・リゾート21)である。基本性能は従来車両と同等ながら、先頭車両にパノラマ展望室を設け、さらに中間車両は座席を海側に向けて窓を大きくするなど、伊豆観光に特化したデザインの車両に仕立てた。この新しい趣向によって、第29回(1986年)ブルーリボン賞(鉄道友の会選定)を受賞した。また、1986年6月に「田園都市線開通20周年記念号」として田園都市線、大井町線、東横線を、1988年4月には今井浜東急リゾートの開業に合わせたPRのイベント列車として、東横線と田園都市線を走行した。

リゾート21による田園都市線開通20周年記念号(田園都市線長津田駅、1986年6月)

5-2-2-5 [コラム]「電車とバスの博物館」を高津駅高架下に開館

1982(昭和57)年4月、当社は創立60周年事業の一環として、高津駅高架下に「電車とバスの博物館」をオープンした。当社の鉄道やバスにかかわる資料を展示し、交通事業への理解を深めてもらうことを目的として設けたもので、民鉄で鉄道とバスに関する本格的な博物館を設けるのは当社が初めてであった。施設運営を当社と財団法人東急弘潤会の共同で行い、東急弘潤会の事業目的である公共事業として進めていくこととしたため、開設当初の入場料は大人・子ども共に10円に設定した。なお、東急弘潤会の成り立ちについては、第2章で述べた。

田園都市線高津駅の高架下に開館した

1号館と2号館に分かれる館内には、3450形電車や路線バスの実物車両、最新型の8090系電車のカットモデルに運転シミュレータを組み入れたもの、現役を引退したばかりの保線機械のほか、鉄道模型のレイアウト、歴代の標識や記念切符、当社の歴史を解説したパネルなどを展示。子どもたちを中心に人気を集め、2か月半で早くも入館者10万人を突破、1990(平成2)年4月には100万人を突破した。

1991年には1・2号館のリニューアルと3号館の新設を行い、「触れて学べる博物館」をテーマに、東急コーチの運転シミュレータやYS-11のフライトシミュレータなどを増設、博物館としての充実を図った。

なお田園都市線の改良工事に伴い、高津駅高架下の「電車とバスの博物館」は2002年9月に閉館し、2003年3月に宮崎台駅高架下に移転オープンすることとなる。

鉄道模型に子どもたちも夢中

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