第6章 第4節 第2項 航空事業の苦境

6-4-2-1 経営環境の暗転

規制の厳しさから航空憲法とも呼ばれていた「45・47体制」が1985(昭和60)年に廃止され、日本航空以外の航空会社も国際線に進出することができるようになった。日本エアシステムは1988年7月、初めての国際定期便として東京(成田)〜ソウル線の運航を開始。これに続いて1990(平成2)年2月に東京〜シンガポール線、1991年6月には東京〜ホノルル線(ハワイ)を開設した。日本発着の国際線の内、当時、日米間の航空路線が最多となっており、とくに東京〜ホノルル線は世界有数のドル箱観光路線でこの路線開設は同社の長年の念願だったもので、社員の士気向上、航空会社としてのイメージ向上に寄与するものであった。また、1995年完成をめざして、成田空港の第二期工事、羽田空港の沖合展開、関西国際空港の新設という、いわゆる「三大空港プロジェクト」が進められており、日本エアシステムでは工事完成後の発着枠獲得により、米国西海岸や欧州への乗り入れも視野に入れた長期事業計画を策定した。

しかし、日本航空のほか東南アジアや米国、欧州の航空会社が競合しているホノルル線において、主要他社が毎日運航だったのに対して、日本エアシステムは週2往復で、集客力が劣後し、運航開始直後から赤字路線となってしまった。発着枠の拡大を念頭に置いていた成田空港の第二期工事がいったん白紙となったことも影響して、便数を増やすこともかなわず、1994年6月にはホノルル線を休止、翌1995年にはシンガポール線も休止に至った。

一方国内線では、「45・47体制」廃止に伴う自由化により、日本航空や全日本空輸が採算性のよい地方線に参入して競争が激しくなり、これにバブル崩壊による輸送需要の低迷が追い討ちをかける格好となって、座席利用率(総座席数に占める有償旅客数の割合)が軒並み低下、採算ラインを割り込む路線が増えた。

また1993年4月、花巻空港で日本エアシステム機が着陸に失敗し、機体火災が発生する航空機事故を起こし、乗員・乗客58人が重軽傷を負った。

さらに、三大空港拡充に伴って航空会社は格納庫整備など先行投資が求められ、収支を圧迫した。このような状況により、日本エアシステムは1991年度の経常利益約33億円から1992年度に約48億円の経常赤字に陥り、1993年度は過去最大となる約127億円の経常赤字を計上した。東亜国内航空時代も含め、3度目の経営危機であった。

6-4-2-2 起死回生の広州便開始と日本航空との連携

1995(平成7)年6月、日本エアシステムの新社長に舩曵寛眞が就任した。前身の東亜国内航空設立と同時に当社から転籍し、主に経営企画畑を歩んできた舩曵社長は、規制緩和により需要に応じた季節運航も定期航路として認められるようになった時勢を捉えて、松本〜札幌線や松本〜福岡線など、地方と地方を結ぶ路線を開設。機材やパイロットといった自社の現有資産を活用して、ジェット機対応が進みつつある地方空港のインフラを活かした方策を打ち出した。

また中国に目を向けて、開港間もない関西国際空港と広州を結ぶ路線を申請し、1995年10月に運航を開始した。広州市は中国華南地域の中心都市で、香港やマカオ、経済特区の深圳や珠海とも近く、大きな経済発展が見込まれていた地域である。週3往復ではあったが日本エアシステムの単独路線で競合はなく、新たな利益源と期待された。1997年6月には関西~香港線(週4往復)を開設。同年7月に迫った香港の中国返還を背景に、同地域のさらなる経済活性化による集客増を見込んだ。

表6-4-3 1997年度末の日本エアシステム運行路線(休止路線は除く)
注:日本エアシステム「第35期有価証券報告書」をもとに作成

国内空港の整備に伴う先行投資がおおむね一巡したことや、1993年度から着手してきた営業費用削減の努力も実を結んで、1995年度はわずかながら経常黒字に転じた。単年度黒字を継続しながら累積損失を解消することをめざした。

中国へ初めて運航(福岡~広州のチャーター便MD81型機、1992年5月)

一方、1990年代には日本航空との連携が随所で進んだ。一つは、日本航空の座席予約・発券システム(CRS)との連携である。CRSは、主流になり始めた磁気ストライプ付き搭乗券一体型航空券(ATB券)の予約・発券のみならず、ホテルやレンタカーなどの営業情報を紐づけて顧客サービスの向上を図る戦略的情報システムである。日本エアシステムでは自社単独でのシステム投資を断念して、日本航空のシステムを活用することとし、1990年4月からATB券の発券を本格化させた。

また三大空港プロジェクトの完成により発着枠が拡大すると、パイロットの増員が急務となることから、日本エアシステムでは、1991年4月から自社でのパイロット養成を行うこととし、養成期間27か月の内、初期の2か月間を自社で、残る25か月間の訓練を日本航空に委託した。

さらに1997年には、国内初の3クラス制シートを導入するなどしたボーイング777型機(レインボーセブン)を導入。のちにミドルクラスのレインボーシートが、普通席に1000円プラスでアップグレードできることで(当初はプラス2500円)話題を集めたほか、全日本空輸が導入したマイレージサービスに対抗して日本航空と日本エアシステムが提携、共同で全日本空輸に対抗する格好となった。

ボーイング777型機初号機の到着式典
出典:『とうきゅう』1997年2月号

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