第6章 第1節 第1項 カリスマなきグループ経営

6-1-1-1 変化するグループ経営

五島昇会長の死去を受けて、東急グループは集団合議制によるグループ運営を本格化させた。グループ運営の最高意思決定機関として1988(昭和63)年6月に設置された「東急グループサミット(以下、サミット)」および同年12月に設置された「東急グループサミット連絡会議」は、五島昇会長が自身の没後をも視野に入れつつ設けたグループの結束および発展の仕組みであった。

表6-1-1 東急グループの運営体制における二つの会議体
注:「東急グループサミット」資料をもとに作成

緊急に開催された1989(平成元)年3月20日のサミットでは、横田二郎社長が新しい議長に就任することが満場一致で決まり、当社を中心とするグループ運営を継承することとなった。サミットの定例メンバーは当社社長、副社長、専務の6人で、それぞれグループ会社の役員を兼務しており、当社から独立していった関連会社の内、売上規模で上位にある主要各社の実情を、おおむね知り得る立場にあった。そしてこれまで通り、テーマに応じて関係会社の社長や当社の担当役員にサミットの場に参加してもらい、議論を進めることとした。

定例メンバーの共通の思いは、五島昇会長の遺志を引き継ぎ、これを発展させる旗印が不可欠だという点であった。

当時、日本は景気拡大中であった。高い経済成長率を記録し始めた1986年からしばらくは、土地や株式など資産価格の高騰が先行し、生活実感の薄い好景気ともいわれたが、やがて企業の設備投資や個人消費も追随し始め、実体を伴った景気拡大となって日本中が好景気に沸いていた。

こうした環境のなかで、来るべき21世紀に東急グループがさらに飛躍するために、1990年代は何をなすべきか。すでに渋谷開発とリゾート開発については五島昇会長が社長の時代から次の一手とすることが共通認識となっていたが、加えてホテル事業や、海外事業、地域開発事業、そしてグループの運営体制がテーマとなった。

6-1-1-2 「東急アクションプラン21」の発表と組織改正

定例メンバーを中心に議論を重ね、グループの将来の指針となり、これに向けてグループ各社が結束することを目的に、1990年代の新しいグループ戦略をとりまとめた。そしてこの内容は、グループとして取り組むべき6つの重点事業を掲げた「東急アクションプラン21」として、1990(平成2)年3月30日開催のサミットに諮られ、主要関連会社社長12人を含む21人の出席者によって決定された。6つの重点事業で事業費総額が2兆円に及ぶという、かつてない規模の大型投資計画であった。

4月18日、東急グループ関連事業会社社長会で発表され、同日、横田社長らにより記者発表が行われた。

「東急アクションプラン21」における6つの重点事業の概要は、次の通りである。

①渋谷の開発

東急グループの拠点である渋谷では1989年9月にBunkamuraを開業し、これに続く二の矢、三の矢を放つことで、若者だけでなく、ビジネスパーソンも含めた多様な人々が集まる街へと活性化することをめざした。とくに重視したのはホテルの充実である。渋谷にはグレードの高いホテルがなかった。大人数の宿泊や要人のパーティ、大規模な催事に適したホテルもないため、当社の永年勤続者表彰や東急百貨店の展示会など東急グループが行う行事でさえも他地域のホテルに頼っている状況であった。そこで、本社敷地の高度利用を図る「渋谷・桜丘町プロジェクト」、そして帝都高速度交通営団・京王帝都電鉄・当社による「渋谷道玄坂一丁目開発(TKTプロジェクト)」において、それぞれホテルとオフィスを軸とした高層ビルを建設することを打ち出した。地下鉄13号線の渋谷乗り入れも計画されており、こうした将来構想をにらみながら開発を前進させることとした。

②鉄道事業の活性化

東横線の抜本的な輸送力増強に向けた複々線化工事に引き続き、沿線人口の急増に伴い田園都市線・新玉川線の輸送力増強も急務となっていたことから、大井町線を鷺沼まで延伸し、田園都市線の複々線化を図ることが計画された。さらに、みなとみらい21線(みなとみらい線)と東横線の相互直通運転に向けた準備に着手し、鉄道を核とした横浜の新たな街づくりにもかかわることを展望した。また駅の役割については、1980年代に着手したニュー・ステーション・プランを発展させて、街の情報サービスの拠点としていくことや、駅施設の高度利用もめざした。

③複合リゾート開発の推進

余暇、自由時間の増大が進み、リゾートへの関心が高まるなか、東急グループにふさわしいリゾートづくりをめざし、斑尾、裏磐梯、蓼科、法恩寺(福井県勝山)、宮古島、伊豆半島などの複合リゾートを積極的に進めることとした。また、それらは観光業や航空業も含めた東急グループ全般への波及効果を期するものであった。

④国内外ホテル網の拡充

東急グループがホテル事業に着手してから三十数年が経過するなかで、国民の生活やニーズは変化してきており、時代に合った国内ホテルチェーンの再整備に努めることとした。また海外のホテルチェーンについても太平洋沿岸を中心に拡充を図ることをめざした。

⑤多摩田園都市の二次開発

多摩田園都市は、東急グループがつくり上げてきた郊外住宅を中心とした地域開発である。土地区画整理事業は終盤に近づき、当社が供給できる土地や住宅の量も限られてきていた。一方で、そこに住む人たちに、より質の高い生活環境を提供するために、グループとして何をなすべきかを検討し、そのなかからグループ各社の事業機会を創出することをめざした。

⑥二子玉川の再開発

1985(昭和60)年に閉園した二子玉川園の跡地や周辺地区の再開発は、都市計画公園の指定見直しを経て、事業具体化の段階に進みつつあった。同地域の再開発にあたっては当社・東急不動産・地元地権者が一体となって準備を進めてきており、まずは二子玉川園駅の改良工事に着手することとした。同時期には用賀、三軒茶屋などでも市街地再開発事業が検討されており、国道246号線沿線の活性化に東急グループが関与していく展望であった。

表6-1-2 「東急アクションプラン21」の概要
注:「東急グループニュースリリース」(1990年4月18日)をもとに作成

「東急アクションプラン21」を遂行するための体制づくりとして、1990年4月、当社は大幅な業務組織改正を行った。グループ運営体制の見直しと、「東急アクションプラン21」で挙げた重点事業の推進の2点を念頭に置いた新組織であった。

まずグループ運営体制の見直しでは、これまで事業部ごとに関連事業課を設けて同業種のグループ会社の窓口となってきたが、事業多角化を進めるグループ会社も多々あることなどから、関連事業室を設置し、各関連事業課と経営管理室の一部機能を統合した。さらにサミットの事務局を担当する部署として企画政策室のなかに企画部を新設し、計数管理をはじめとした経営実態の把握・管理と政策推進の両面からグループ運営の円滑化を図ることとした。

また「東急アクションプラン21」の重点事業の推進にあたっては、複数の事業部間で、以前にも増して相互の連携を密にする必要があるため、従来の7事業部の内、海外事業部を除く6事業部を3本部(交通事業本部、都市開発本部、リゾート本部)に統合し、役付役員(副社長、専務、常務)が本部長となって陣頭指揮を執る体制とした。

都市開発本部は田園都市事業部、ビル事業部、生活情報事業部を、リゾート本部はリゾート事業部とホテル事業部(イン事業部から改称)を傘下に置いた。重点事業の1つ、渋谷の開発については、企画政策室のなかに新設した事業開発部が、開発の基本理念、戦略を検討し、ビル事業部に新設した渋谷開発部がこれに基づいて、実施、推進するという体制をとった。

交通事業本部には事業部を置かず、管理部、鉄道部、自動車部、工務部、電気部、車両部の6部で構成した。この内自動車部は、かねてからの営業努力にもかかわらず黒字化が見込めないことから、1990年11月、専業での自立、発展をめざし、分社化を決定した。これについては第4節で詳述する。

図6-1-1 東京急行新業務組織(1990年4月1日)
出典:『とうきゅう』1990年5月号
注:●は新設された室・部

東急100年史トップへ