第6章 第4節 第1項 自動車事業の分社化

6-4-1-1 東急バスの設立へ

自動車事業においては、1980年代から、需要喚起や利便性向上のための、さまざまな施策に取り組んできていた。とくに生活時間帯の広がりに応えて、最寄り駅と住宅地を結ぶ深夜バスを1989(平成元)年末時点で20路線設けた。

表6-4-1 深夜バス一覧(1989年末時点)
出典:「東急からのお知らせ」1989年12月号
注:[数字]は土曜日の発車時刻(他の深夜バスの運行はなし)

また、終電後の帰宅の足を確保するため都心部から郊外へ向かう深夜急行バス「ミッドナイトアロー」を、1989年7月に渋谷駅〜青葉台駅間、1990年3月に渋谷駅〜新横浜駅経由新羽営業所間で運行を開始し、さらに同年6月には渋谷駅〜溝の口駅間の深夜中距離バスの運行も開始した。

運行管理の面では、等間隔運転を促すと共に停留所にバス到着時刻の表示などを行う「新交通システム」を、目黒通りの路線に、1986(昭和61)年3月に導入。これはNTT回線を使った有線方式だったが、1990年3月には池上通りを走る路線を対象に「バス無線管理システム」を導入した。

バス無線管理システム 池上営業所(1990年)

深夜時間帯のバスの運行は一定の増収効果を生み出し、新しい運行管理システムの導入はバスへの信頼性回復につながったものの、残念ながら自動車事業全般の収支均衡には至らなかった。1990年度は過去最高の営業収益(271億円)を上げながら、営業損益では22億円の赤字となり、1986年度以降の赤字基調から抜け出すことはできなかった。

こうした状況を踏まえ、当社は1990年11月の取締役会において、自動車事業を分社化する基本方針を決定した。1991年2月に東急バス設立準備室を設け、関係官庁や労働組合などと協議を行い、同年5月、当社全額出資により東急バス株式会社を設立した。そのうえで当社から自動車事業を譲渡し、10月に東急バスとして営業を開始した。

大橋営業所で行われた東急バス出発式のテープカット(1991年10月)

6-4-1-2 路線再編成と経営多角化で黒字化

1991(平成3)年10月に営業を開始した東急バスは、経営黒字化をめざしてさらに踏み込んだ事業再構築に着手し、営業収入は横ばいで推移したものの、営業損益は初年度からわずかながら黒字に転じ、これが1997年度まで続いた。

表6-4-2 分社化後10年間の東急バス営業成績(1991年度~1999年度)
注1:『東急100年史』資料編をもとに作成
注2:分社した1991年度は6か月決算

分社化後の路線バス部門にとって大きな環境変化となったのは、多摩田園都市の南東側に広がる港北ニュータウンの開発が進み、同地域を通る横浜市営地下鉄3号線(現、ブルーライン)が整備されたことである。1993年3月には3号線新横浜駅-あざみ野駅間が開業し、地域住民の移動経路の変化が予想されることから、東急バスは財団法人鉄道総合技術研究所と共同開発した「バス路線計画支援システム」によって地下鉄開通後の需要予測を実施した。これに基づき、8路線を再編成すると共に、10系統を新設した。一方、都内の不採算路線を中心に、路線再編成をたびたび行って、需給バランスの適正化に努めた。

横浜市営地下鉄3号線開通に伴う路線再編成のお客さまへの案内ポスター 出典:『東急バス10年の歩み』

これと併せて営業所の再配置を行い、1993年11月に、港北ニュータウン内に東山田営業所を新設、東横線複々線化用地として使用されることとなった日吉営業所を廃止した。また老朽化していた新羽営業所と、高津営業所を建て替え、それぞれ1991年1月、1996年10月に開業。同時期には社宅の建設や改修も進め、設備面の充実が図られた。

都市間高速バス事業からの撤退と貸切バス部門の縮小も、収支改善を後押しした。都市間高速バス「ミルキーウェイ」は、和歌山線(南海電気鉄道と共同運行)、出雲線(一畑電気鉄道、中国JRバスと共同運行)、酒田線(庄内交通と共同運行)、姫路線(神姫バスと共同運行)の4路線を運行していた。その後は多くのバス事業者が都内から地方各所への新規路線を次々と開業し、競争が激しくなったため、各線の利用者数が減少。都市間高速バスは鉄道や航空に比べて運賃が低い点がセールスポイントであることから運賃改定もままならず、経営の重荷となり始めた。このため1996年6月に酒田線から撤退、残る3路線も1998年に撤退した。

また1991年10月の東急バス設立時に大型車43両・マイクロバス4両が在籍していた貸切バス部門は、競争の激化に伴い赤字が続いていた。赤字幅を縮小するため1994年10月には観光バスセンターを廃止、さらに減車を行い、1995年12月からは大型車10両体制へと縮小した。

高速バス ミルキーウェイ 和歌山行き(1998年)

東急バス設立以降は付帯事業を開始した。大橋営業所の隣地に地上7階建ての大橋東急ビルを1993年3月に竣工させ、本社ビルとして使用すると共に、本社事務所以外のフロアを他社に賃貸した。これが東急バスの不動産賃貸事業の本格的な始まりとなった。また1993年7月に外食事業(ラーメン店や喫茶店のフランチャイズ店)、1997年には流通事業(コンビニエンスストアやCD・DVD店、ハウスクリーニングのフランチャイズ店)に参入し、経営多角化による安定収入の確保を図った。

東急グループの地方のバス会社も、利用者減少傾向のなかで、どう経営基盤を強化するかが課題であった。とくに多くの赤字路線を抱えていた群馬バスは、高崎駅西口再開発ビルの建設で不動産賃貸事業の拡大を図ったほか、温泉を併設したリゾートホテル「伊香保東急ビラ」を開業(1994年5月)するなど、経営多角化に舵を切った。そのほかの東急グループの地方のバス会社も、不動産賃貸事業や小売業、スポーツクラブの運営などを行い、多角化の道を模索していた。

東急100年史トップへ