第6章 第9節 第1項 個人消費低迷への対応を探る流通事業

6-9-1-1 東急百貨店はグループ事業にかかわる出店を軸に

流通事業各社も、バブル崩壊に伴う個人消費低迷の影響を大きく受けた。

東急百貨店は、「東急アクションプラン21」に呼応した中・長期計画として、「ルネッサンス21」を1991(平成3)年度にスタートした。東急百貨店グループ総売上高を1990年度の6700億円から、5年後に1兆円、21世紀を迎える10年後に1兆5000億円に乗せる数値目標を掲げた。重点施策は、①国内新規事業 ②新業態・多角化 ③店外販売(外商、通販、卸への参入)④海外新規事業 ⑤関連会社 ⑥事業運営体制の強化──と多岐にわたっている。事業の多角化、事業地域および事業領域の拡大による目標達成をめざした。

個人消費の冷え込みで、1991年秋ごろから衣料品や家具に代表される高額商品の買い控えが顕著となるなど、深刻な影響が出始めた。このため同社は大型投資を当面凍結したが、東急グループの事業計画にかかわる出店はそのまま継続することとした。1989年8月に「まちだ東急百貨店」を直営化した町田店は増床に着手しており、既設のスポーツ館を取り壊して、隣接の旧電話局跡地との一体開発により、1992年10月に新館をオープン、売場面積を2万4000㎡から3万3000㎡に拡大した。

当社の事業と連動した新規オープンとしては、多摩田園都市の二次開発の一環に位置づけられる青葉台東急百貨店(1993年4月開業)、東横線複々線化に伴う駅改良工事で建設された駅ビルに出店した日吉東急百貨店(1995年11月開業)、みなとみらい21地区24街区の開発に伴うクイーンズイースト(よこはま東急百貨店、1997年9月開業)が挙げられる。さらに港北ニュータウンでは、東急百貨店子会社のティー・エム・ディーが、横浜市営地下鉄センター南駅の駅前に1996年3月から港北東急百貨店ショッピングセンターを建設し、キーテナントとして1998年4月に港北東急百貨店が開業した。これら4店は、東急百貨店100%子会社が運営した。

  • 日吉東急百貨店
  • クイーンズイースト(QUEEN'S EAST よこはま東急百貨店)
港北東急百貨店SC

また地方百貨店の成功例との評価が高かった株式会社ながの東急百貨店は、JR北長野駅前の再開発ビルに百貨店と量販店の両方の機能を兼ね備えた新しい店舗形態の「ながの東急ライフ」を1990年11月にオープンした。同社は1991年8月には、株式店頭公開を果たした。また、市街地再開発事業を進めていた岡谷市からの要請に応えて、1997年9月に「おかや東急百貨店」を開業した。

海外では、タイ・バンコクの海外現地子会社が、2店目の百貨店を1993年11月にオープンした。これにより海外店舗はハワイ3店、香港、シンガポールを含めて合計7店となった。

こうして東急百貨店は、多店舗化が進むこととなったが、東京都心部の店舗の売上の落ち込みが大きかった。とくに日本橋店はピーク時から半減、渋谷本店もBunkamura開業の波及効果が限定的にとどまった。そのため、東急百貨店直営店(本店、東横店、日本橋店、町田店、吉祥寺店、札幌店)の売上高は1990年度3932億円から1997年度3158億円に減少した。この間に財テクの失敗、1992年には簿外債務にかかわる証券会社との間の“飛ばし”発覚で特別損失を計上するなど、本業以外での失策が相次いだ。

6-9-1-2 地域密着の小売業に徹する東急ストア

東急ストアも、バブル崩壊後は個人消費低迷や競合との競争激化の影響を受け、既存店売上高の合計は前年割れが続いた。しかし食料品、生活用品などを中心とするスーパーマーケット事業という性格から大きな下げ幅にはならず、着実な新店開業による増収効果も含め、同社全体の売上高は、一部の営業期を除いて、緩やかな上昇曲線を描いた。1990(平成2)年度から1997年度までの8年間は当期純利益で15~20億円前後を維持して、配当性向15%程度と安定していた。

この間には1995年度東急グループ会社表彰において、1982(昭和57)年度に続く二度目の東急グループ賞に輝いた。これは配送システムの確立や関東民鉄系列のスーパーマーケット各社で構成された八社会による共同仕入れなどにより業務の効率化を図り、景気減速下で順調な業績を維持したこと、そしてあきる野店開業(1995年10月)によりグループの認知度を高め、事業エリア拡大に貢献したことなどが評価されたものであった。

当社、東急不動産などが参画する福岡県小郡・筑紫野(おごおり・ちくしの)ニュータウンでは、1993年5月に、筑紫野とうきゅうショッピングセンターが開業した。地下2階地上3階建ての施設に、東急ストアがGMS(General Merchandise Store 大型店、総合スーパーを指す)として出店。営業面積2万1339㎡と同社最大規模の店舗は、地域特性に合わせた品揃えの直営売場のほか、74店の専門店や各種アミューズメント施設、飲食店などで構成され、家族で一日楽しめる商業施設とした。東急ストアとしては初めての九州進出であった。

首都圏では、先にも触れたが、1995年10月に最大規模(営業面積1万6917㎡)となるあきる野店を、同市の再開発事業の一環としてJR五日市線秋川駅前に開業した。同店では地元の酪農家や農家、酒造会社の商品を取り扱うなど地域密着型の品揃えに努め、市外に流れていた買い物客を呼び戻すと共に、同市内における商業の新たな核となった。

1996年3月には、藤沢市の土地区画整理事業によって整備されたニュータウン・湘南ライフタウンに、郊外型複合ショッピングセンターの「湘南とうきゅう」を開業した。筑紫野、あきる野、取手に次ぐ4番目の広さで、敷地内の別棟にホームセンターやファミリーレストラン2店がテナントとして入居、本館には東急レクリエーションが運営するボウリング場、個性ある専門小売店や専門飲食店を誘致し、徹底的に集客型の店づくりを進めた。周辺には競合店も数々あったが、幅広いニーズに応える店や施設を設けたこと、1000台を超える駐車場を確保したことなどから周辺地域からも多くの来店客があり、初年度から年商115億円を記録した。「湘南とうきゅう」は当社の不動産活用センターが地元地権者からの要請を受けたことを発端に開発された商業施設で、同センターにとって多摩田園都市以外では初めてのコンサルティング案件であった。

藤沢市に開業した複合型SC「湘南とうきゅう」 ※同時に「湘南とうきゅうボウル」もオープン
表6-9-1 東急ストアの収益状況(1960年度~1999年度、単体決算)
注1:『東急ストア50年史』および「内閣府長期経済統計」をもとに作成
注2:1975年度までは半期決算のため、上期と下期を合算した数字で表示
注3:店舗あたり営業収益指数、企業物価指数、消費者物価指数は1960年度を100とした指数で表示
注4:企業物価指数、消費者物価指数は暦年での統計

バブル崩壊以降は全般的にものが売れない時代が続いたが、その一方で1992年の改正大店法施行による出店規制緩和や地価下落に乗じたチェーンストアの出店攻勢で、競争はいちだんと激化していた。こうしたなか東急ストアは他店との差別化を図るべく、豊かな食生活を総合的に提案する新業態SM「プレッセ」を開発し、1997年11月、たまプラーザに1号店「プレッセ美しが丘店」を開業した。健康・品質・味など食に対して高い欲求を持った顧客を主たるターゲットとした店で、パスタやチーズ、ワインなど嗜好性の高い商品の品揃えを充実させ、提案型の接客を採り入れた。また他店との差別化は、既存店のリニューアルでも大いに意識され、商圏内の顧客に支持される店づくりが進められた。

プレッセ美しが丘店

6-9-1-3 東急ハンズとティー・エム・ディーの動向

東急ハンズは東急不動産75%出資の同社子会社で、当社の持株比率は25%にすぎない(1991<平成3>年当時)が、東急百貨店、東急ストアと並んで東急グループの流通部門の柱であり、とくに「東急」ブランドの価値向上に果たす役割も大きかった。

開業以降好成績の続いていた東急ハンズでも、この時期嗜好性の高い高額商品を中心に売れ行きが鈍り、1992年度に会社創立以来初めてとなる客単価の前年割れを経験、来店客数も減少に転じ、各店共苦しい運営を迫られた。ホームセンターをはじめ、特定商品に絞って安価を打ち出すパワーセンターなどの新業態も台頭して競争は激化したが、同社ではハンズならではの品揃えや親身になった接客など基本を徹底。不振カテゴリーの立て直し、ハンズメッセなど3大イベントや宣伝媒体の見直しを行った。1990年9月に横浜、1995年10月に広島、1996年10月に新宿に新たに出店し、店舗数の増加で全体の売上高は維持した。

東急ハンズ新宿店

東急百貨店100%子会社のティー・エム・ディーが展開するファッションコミュニティ109は、1989年の開業10周年を機に「SHIBUYA109」に名称変更したが、バブル崩壊の直撃を受けて1991年度以降、売上高の前年割れが続いた。入居する約120店の専門店は目まぐるしく入れ替わったが、こうしたなかで1993年ごろから、渋谷センター街に集まる女子高生たちが渋カジファッションを求めてSHIBUYA109地下1階の店を目当てに数多く来店するようになり、これが引き金となって徐々にティーンズ向けのレディースファッション店が集積し始めた。1990年代半ばにはギャル系雑誌と呼ばれる雑誌が人気を集めるなど、1980年代の女子大生ブームに代わる女子高生ブームが起き、1996年ごろには人気歌手安室奈美恵のファッションを模したアムラーが社会現象となった。「マルキュー」との呼び方が一般化してくるのもこのころからで、SHIBUYA109がギャル系ファッションの情報発信地となり、同年度から売上高が回復。1999年度にかけて2桁成長を遂げた。

一方、地方の店舗では苦戦が続き、香林坊109の分店として1989年10月に開業した金沢109-②は1994年10月に閉店した。SHIBUYA109の復調とは対照的に、同社の業績は1994年度以降経常赤字が続いていた。1998年開業の港北東急百貨店ショッピングセンターの運営は同社が担うこととなった。

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