第6章 第3節 第2項 安全対策の推進とサービス強化

6-3-2-1 新型ATCの導入──輸送の安全を確保しながら高密度運転を可能に

当社は列車追突などの事故を未然に防止するための信号保安装置として、田園都市線などの地上路線ではATS(自動列車停止装置)を、新玉川線ではATC(自動列車制御装置)を用いてきた。前者のATSは信号機の指示速度を超えたときに自動的にブレーキをかけて停止させるシステムで、後者のATCは地上の信号装置から運転台に車内信号を現示し、電車が制限速度を超えた場合に自動的にブレーキがかかり減速させるシステムである。

一方で、年々増加する輸送需要に合わせて、20m車両導入、長編成化、運転間隔の短縮など、さまざまな施策を講じてきた。しかし、田園都市線・新玉川線の朝間ラッシュ時の混雑率は200%に届くような状況となっており、輸送力が限界に達しつつあった。さらなる運転間隔の短縮、保安度の向上、加えて乗り心地の改善を図るには、新たな信号保安システムの開発が必要であった。このため当社は約7年間の研究・開発期間を経て、鉄道業界では初めての性能を有する新型ATC(一般的には新型CS-ATCと分類される)を開発、運転席にこれまでよりさらに細かく制限速度などを表示し、従前の6段階(新玉川線のみ)から22段階(田園都市線・新玉川線の両路線)となった。これにより一部の曲線区間などで制限速度を高めることができた。1990(平成2)年11月から田園都市線・新玉川線で終電後に試験列車により機能テストを行い、1991年3月に両路線で本稼働となった。

この新型ATCの概要は、次の通りである。田園都市線内にはこれまで約150基の信号機とATS装置を設置していたが、これに代わって約640基の地上ATC装置を配備して最短60m単位で列車制御できるようにした。前の列車との車間距離は、従来の田園都市線ATSでは1600m以上、これまでの新玉川線のATCでは960ⅿであった。これを新型ATC導入により車間距離を720mまで短縮することができ、運転間隔を短くし、列車の運転本数を増やすことができるようになった。

またブレーキ制御に新しい方式を採用して乗り心地を向上させたほか、適切な速度制御によりカーブ区間でのスピードアップを可能にした。投資額は約130億円であった。

図6-3-4 新型ATCと現行ATCとの比較
出典:『清和』1990年7月号

1991年3月の新型ATC稼働開始と同時に、田園都市線・新玉川線ではダイヤ改正を行い、最短運転間隔を2分30秒から2分25秒に短縮して1時間あたりの運行本数を1本増発した。その後、JR南武線との乗換駅である溝の口駅の2面4線化が完成すると、1992年9月のダイヤ改正で最短運転間隔を2分15秒に、さらに1995年11月からは2分10秒に短縮した。

新型CS-ATCの運転台 制限速度が従前の〇数字表示から速度計に▲で指す形で細かく表示されるようになった

こうしたダイヤの高密度化によって田園都市線・新玉川線は、輸送人員数を伸ばしながらも混雑率は200%以下を維持することができ、やがて大井町線の延伸・改良に伴う複々線化を経て、さらなる混雑率緩和を果たすこととなる。また、車両サービスの向上については車両冷房化の取り組みを継続し、1991年度にこどもの国線と世田谷線を除く全車両が冷房化された。

なお田園都市線・新玉川線に続いて1997年3月には、終端駅や優等列車待避駅での過走防止などの改良を加えた新型CS-ATC装置を東横線渋谷〜菊名間でも稼働を開始。これに対応できるように東横線用のTTC(列車運行総合制御装置)も更新した。

6-3-2-2 バリアフリー対応の始まり

日本国内にバリアフリーやノーマライゼーションの考え方が広がり始めたのは1970年代後半である。国際連合が1976(昭和51)年に5年後の1981年を国際障害者年と定めて各国に取り組みを促し、これに続く「国連障害者の十年」(1983〜1992<平成4>年)を通じて、さまざまな啓発活動や障がい者施策が推進されたことが契機とされる。1983年には国が「公共交通ターミナルにおける身体障害者用施設整備ガイドライン」を発表し、公共交通機関のバリアフリー化に関する初めての指針となった。

しかしながらエスカレーターやエレベーターなど施設整備や段差解消などには多額の費用が必要であり、建物の大規模改造や建て直しを伴う場合がある。民間事業者がどこまで負担するべきかは議論の途上にあった。自治体による補助金制度の創設や、法整備など国を挙げた支援の枠組みは、まだ具体化しなかった。

このため国内の鉄道事業者は、しばらくは関係団体や地元行政機関などからの要望に応えるかたちで、一部の駅などで設備改良を行うにとどまった。当社は、1975年から一部の車両に高齢者や身体の不自由な方の優先座席としてシルバーシートを設置したほか、自動券売機への点字シールの貼り付け、旗の台駅での車いす用電話ボックス設置(1981年)などを実施したとの記録が残るが、昭和の時代はバリアフリーの取り組みは緒に就いたばかりといえる。

こうしたなか、当社の先進事例となったのが日吉駅の改良工事である。1988年に着手した同工事では、日吉駅を身体障がい者対応のモデル駅とし、エスカレーターを設置、階段の手すりや構内の案内図に視覚障がい者用の点字案内板をつけた。また従来よりも高さを抑えた新型券売機を設置し、車いす利用者や子どもにも利用しやすいよう配慮した。

設置された点字運賃表

世論の高まりや高齢化社会の進展に伴って、バリアフリー化の取り組みが本格的に進展するのは次の時代となる。

表6-3-1 各駅のバリアフリーの整備状況(1999年10月)
出典:「会社概要1999-2000」
注:世田谷線は下高井戸駅のみ対応あり
○東急管理(駅構内)●自治体管理(公衆)◎身体障がい者対応(東急管理・駅構内)△簡易スロープ

6-3-2-3 駅サービスの充実と多様化

多くの人々が行き交う「駅」を鉄道利用のための通過地点とするのではなく、地域住民へのサービス提供施設、商業利用を伴った施設に活用していこうとする取り組みは、前章で触れた「ニュー・ステーション・プラン」で本格化した。実験店として、駅総合サービスセンターを、自由が丘駅、二子玉川園駅、あざみ野駅に開設し、駅ごとに地域住民のニーズに合わせた多様なサービスメニューを提供した。これらは駅の多機能化、高度利用に向けたテストマーケティングを兼ねたものであった。

青葉台駅に開業した「テコプラザ青葉台駅」

3店舗での取り組み成果を踏まえて、駅総合サービスセンターの本格展開に乗り出し、1991(平成3)年2月に長津田駅、4月に青葉台駅に開設した。また、後者の開業を機会に、駅旅行案内所と駅総合サービスセンターに「テコプラザ」と共通の愛称をつけた。テコプラザは、TECHNOLOGY & ECOLOGY(情報社会の進展と人間らしいありかたを&でつなげたもの)から名づけたもの。

その後は駅の改良工事などに併せて主要駅にテコプラザを開設していき、1999年末では22か所に展開。航空券や国内・海外旅行ツアーの販売、ホテル・旅館やレンタカーの斡旋などを行い、一部の駅では「チケットぴあ」の取り扱いや書籍の取次なども行った。

表6-3-2 テコプラザ店舗一覧(1999年12月)
出典:「会社概要1999-2000」

また当社鉄道駅ではコンコースやホーム上に早くから駅売店を設置しており、1990年には駅売店の名称を「toks(トークス)」とした。駅売店の業務は、財団法人東急弘潤会の設立(1948<昭和23>年5月)以降は同法人が行っていたが、第5章でも述べたように1978年4月に東急弘潤会が東弘商事運輸株式会社(東急弘潤会の運送部門分離により、1967年7月に設立した弘潤運輸株式会社が前身)に委託した。

同社は、1975年12月に東横線反町駅にコンビニエンスストアの実験第1号店として「トークス(開店当時の表記はTOKUS)」を開店するなど、小売店経営に積極的に取り組んでおり、1978年6月には商号を東弘商事株式会社と改めた。

東弘商事運輸時代に開店したコンビニエンスストア「トークス」

このほか駅構内では当社鉄道部門がコーヒーショップ「キュート」を営業していた(東横線渋谷、日吉、菊名、溝の口、あざみ野、長津田)。駅構内という立地を生かし、飲食メニューの充実や、ベーカリーショップの併設などのリニューアルを図りながら、利用者のニーズに応えていった。

コーヒーショップ「キュート」(あざみ野駅)

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