第6章 第2節 第1項 大きく動き出した「鉄道事業の活性化」

6-2-1-1 二大路線の混雑緩和に向けて進む工事

1990(平成2)年4月に発表した「東急アクションプラン21」で、重点事業の一つに「鉄道事業の活性化」が掲げられ、1990年代は当社線の各所で、並行して大規模な工事が行われ、鉄道ネットワークの拡充が進んだ。

「目蒲線の活用による東横線の複々線化」工事は、1988(昭和63)年3月に、「日吉駅改良工事」に着手したのを皮切りに、複数の工区で計画が進み始めた。前章で記したように、本工事は1985年7月の運輸政策審議会答申第7号(答申名「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」)に盛り込まれた計画である。また、1987年に創設された特定都市鉄道整備積立金制度によって、工事費の資金調達が可能になったことで実現に向けて動き出したものである。

この答申第7号は、混雑率が200%を超える路線について、2000年を目標年次として、180%以内に抑制することをめざすものであった。当社線の内最も輸送人員が多かった東横線が、整備計画の対象となったが、その一方で新たな課題となり始めたのが田園都市線・新玉川線の輸送能力のひっ迫である。多摩田園都市や港北ニュータウンの開発により沿線人口が増えたことに加え、同線が乗り入れている半蔵門線が三越前駅まで延伸し、郊外と都心部を結ぶ高速鉄道としての利便性がいちだんと高まったのが主な理由である。混雑率の増加に比例して、遅延やそれに伴うクレームもあり、なんらかの抜本的な対策をしなければならない状況になっていた。

混雑する都心方面の電車(新玉川線・半蔵門線渋谷駅、1987年4月)

新玉川線渋谷駅の平日7時50分~8時50分の乗降人員は、開業年の1977年に2万2887人だったが、1989年には6万8149人と約3倍に増加していた。これに応じて、1977年の朝間ラッシュ時、6両編成列車1時間15本運行から、列車の長編成化、運転間隔の短縮や優等列車(急行および快速)の本数増などで輸送力増強を図ってきた。とくに1989年1月(1988年度)には、半蔵門線の三越前駅延伸に合わせて運転間隔を3分から2分30秒に短縮し、すでに導入していた10両編成の列車を1時間に20本から24本に増やすことで、輸送力が20%増加した。これが功を奏して、混雑率(最混雑区間となる池尻大橋→渋谷間の平日朝間7時50分〜8時50分の1時間あたりの平均混雑率)は 1987年の225%から、193%へと大きく改善した。

表6-2-1 新玉川線最混雑時間帯の輸送力推移と池尻大橋→渋谷間輸送人員推移
注1:『清和』1990年7月号
注2:最混雑時間帯:平日7時50分~8時50分の1時間
注3:指数は1977年度を100として算出
図6-2-1 半蔵門線三越前延伸(1989年1月)に伴う輸送力強化の概要
出典:「東急からのお知らせ」1989年1月号

この運転間隔をさらに短縮するため、当社では新型ATC導入(詳細は後述)、運行本数の増加に対処するための変電設備増設、溝の口駅の改良(2面2線ホームから2面4線ホームへ)などを実施することを決定した。これにより1992年春には運転間隔を2分15秒まで短縮し、将来的には2分間隔での運行も検討することとした。

しかし、これと並行して交通事業本部管理部が中心となって専門家も含めた委員会を設立し、田園都市線・新玉川線の輸送需要調査を進めたところ、多摩田園都市や港北ニュータウンの人口は今後も増加が予想され、10両編成2分間隔の運転が実現したとしても、将来的には混雑率が200%を超えることが明らかとなってきた。

表6-2-2 新玉川線・東横線の混雑率の推移(新玉川線開業後~1990年度)
注:日本民営鉄道協会『大手民鉄の素顔』などをもとに作成

そこで計画されたのが、大井町線を活用して、田園都市線の混雑緩和を図るものである。大井町線を二子玉川園から鷺沼まで延伸して、田園都市線の複々線の機能を持たせると同時に、大井町線を20m車両、長編成化に対応するよう改良を行うことで、多摩田園都市方面から都心部へ向かう選択肢を増やして輸送経路を分散させるという構想であった。すなわち田園都市線・新玉川線で渋谷へ向かう経路のみならず、大井町線を経由して、大岡山駅の同一ホームで、「目蒲線の活用による東横線の複々線化」ですでに改良工事中の目蒲線(現、目黒線)に乗り換え、目黒から地下鉄(営団南北線および都営三田線)へと向かう経路を設けることで、混雑の緩和を図り、これと同時に大井町線を活性化させるという案であった。

図6-2-2 大井町線を活用した田園都市線・新玉川線の混雑緩和計画
出典:「東急からのお知らせ」1996年11月号

この「大井町線の改良・延伸による田園都市線の複々線化」は1990年の「東急アクションプラン21」に盛り込まれ、その後詳細を詰めるなかで、1995年1月に特定都市鉄道整備事業計画(以下、特々事業)認定申請を行い、同年3月に運輸省(当時)から認定された。ここで認定されたのは、大井町線大岡山〜二子玉川園間を18m車両8両編成による急行運転が可能な施設に改良する工事、および二子玉川園〜溝の口間の複々線化工事であった。

なお、特々事業の申請、認定に先立って、二子玉川園駅改良工事(詳細は後述)が、1993年10月着工した。これは当社が参画する「二子玉川東地区市街地再開発事業」の計画に合わせて拡張整備するものであった。同再開発事業の詳細は第8章に譲るが、二子玉川園跡地も対象区域とするもので、今日の二子玉川ライズが誕生するまで長い期間を要することとなる。

6-2-1-2 地域開発と連動した「みなとみらい21線」との相互直通運転計画

横浜市は1989(平成元)年の横浜博覧会の開催に続き、都心臨海部再開発事業「みなとみらい21」の開発を進めており、この地域に「みなとみらい21線」を建設する計画であった。

「みなとみらい21線」は1985(昭和60)年7月の運輸政策審議会答申第7号で設定された路線(東神奈川〜みなとみらい21地区経由〜元町付近)で、当初は東神奈川駅で国鉄横浜線と直通し、根岸駅で国鉄根岸線と直通する青写真が描かれていた。だがこの答申第7号が発表された時点で国鉄は分割民営化議論のさなかにあり、財政面でも課題を抱えていたことから、新線建設着手には時間を要すると見られた。このため横浜市から当社へ「横浜都心部全体の活性化を図るには、東京都心など広い範囲との接続を強化することが重要で、横浜駅で東横線との相互直通運転を行いたい」という申し入れがあった。当社はこれを受けて、相互直通運転の検討を開始した。

図6-2-3 みなとみらい21線の概要
出典:『清和』1994年2月号 ※駅名は当時の仮称

地下線で計画された「みなとみらい21線」と相互直通運転するには、既設高架線の東横線横浜〜桜木町間を廃止とし、線路を大きく東側(みなとみらい21地区側)に移す必要があり、桜木町駅周辺の地域住民や地元商店関係者との協議は不可欠であった。このため当社では1987年6月に説明会を実施したのを皮切りに粘り強く協議を進め、地元の理解を得ながら計画を進めていった。

1989年3月に、「みなとみらい21線」の建設に向けて、横浜市、神奈川県、当社、日本開発銀行(現、日本政策投資銀行)、三菱地所、住宅・都市整備公団(現、都市再生機構)、京浜急行電鉄などの出資(当時の当社出資比率約10%)により、第三セクター、横浜高速鉄道株式会社を設立した。同社は1990年4月に第一種鉄道事業免許を取得した。

1994年10月に、「みなとみらい21線」の横浜~みなとみらい中央(仮称)間工事が認可された。当社は、1995年2月には横浜駅改良工事、1996年には東白楽~横浜間の地下化工事にそれぞれ着手した。

  • 東白楽~反町間地下化工事
  • 横浜駅地下化工事
みなとみらい21地区の開発構想ジオラマ 出典:『とうきゅう』1992年12月号

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