第6章 第1節 第2項 外部環境の急変とグループ各社の経営悪化

6-1-2-1 株価問題と財テクの失敗

「東急アクションプラン21」にかかわる議論を進めていたころ、東急グループサミット(以下、サミット)でもう一つ議論の的となっていたのが、グループの上場会社の株式買い占め問題である。五島昇会長死去後のこの時期、東急不動産、東急百貨店、東急建設、東急車輛製造、東急ホテルチェーン、そして当社の株式までが大量に買い進められ、1989(平成元)年後半の半年だけで各社の株価が5割増から約2倍に跳ね上がった。なかには株価操作で暗躍する仕手筋による買い占めもあったと見られ、当社は対応に苦慮したが、敵対的な買収や外部からの経営参画などの事態には至らなかった。

1990年3月末時点の当社が株式を保有する上場・店頭登録会社12社について、当社は持株比率10〜30%台で筆頭株主ではあったものの、世紀東急工業も含め上場グループ会社のそれぞれが、金融機関を中心に株主の安定化を図っていたのが実情であった。そのため、マスメディア各社は、「東急グループの資本的な結びつきの脆弱さが狙われた」などと誌面で取り上げた。

サミットでは企業防衛を目的に、グループ内の株式持ち合いを進めることを申し合わせたが、株式を市中で買い進めるには多額の資金が必要で、また系列間の株式持ち合いについては日米構造協議などを通じて米国から厳しい目が向けられていたさなかでもあり、容易に進むものではなかった。

表6-1-3 東急グループ主要各社の株式保有状況(1989年7月末)
出典:「東急グループサミット」資料をもとに作成 ※は店頭登録銘柄

株式の問題が落ち着き始めたころ、1990年の株価下落と共に露見したのが一部のグループ会社の財テク失敗などによる決算赤字の問題であった。東急百貨店、東急カード、東急観光は金融商品の焦げ付き、東急不動産は保有株式の評価額下落で、それぞれ多額の営業外損失、特別損失を計上した。

なお1992年7月には危機管理の一環として当社は、法務監理室を新設した。経済や社会の構造が高度化・複雑化し、国際化が急速に進展するなかで、企業防衛のみならず、事業全般にわたり法務面の充実が企業経営に不可欠なものになってきたためである。法的あるいは社会的なトラブルの予防と共に、トラブル発生時の適切な対処などを担った。

6-1-2-2 バブル崩壊とグループ各社の業績悪化

日本銀行は1989(平成元)年5月以降、度々の公定歩合引き上げなどで金融引き締めの姿勢を鮮明にしていた。同年4月の消費税導入の影響も尾を引くなかで、日経平均株価は、1989年の最終取引日(同年12月29日)に、当時の史上最高値3万8915円をつけたあと、1990年に下落に転じた。また、同年3月、大蔵省(当時)が、金融機関による不動産向け融資を抑制させる方針を示し、上り調子だった地価の下落が始まった。いわゆるバブル崩壊の始まりである。こうした景気動向の大きな転機のさなかに、「東急アクションプラン21」は発表されたことになる。

地価は必ず上がるという「土地神話」で買い続けられてきた不動産は、地価の急速な下落により買い控えが起こり、当社の不動産販売事業は、バブル期のピークとなった1991年度と翌1992年度を比較すると、営業収益は633億円から500億円に、営業利益は268億円から165億円に、大きく減収減益となった。鉄軌道事業は、景気低迷に伴う就業者数の減少から輸送人員の減少が生じたものの、当社ならびに大手民鉄各社が実施した1991年11月と1995年9月の運賃改定の効果もあり、営業利益は1990年度の149億円から、1996年度には334億円に増加した。そして、当社単体決算では1990年代を通じて当期純利益60億円以上を毎年度維持しており、表面的には堅調な業績を示した。

表6-1-4 当社の収益状況(1985年度~1999年度、単体決算)
注:「有価証券報告書」、社内資料をもとに作成

これとは対照的に、東急グループの主要各社は不動産不況、個人消費の低迷、前述の財テク失敗などを背景に、軒並み業績が悪化し、1990年代前半には赤字決算となる会社も散見され始めた。当社の信用保証で融資を受けている会社も多々あることから、グループ会社の浮沈が当社にとって大きなリスクとなりかねないことが、懸念され始めた。

当時、経営指標として暫定的に用いられていた「連単倍率」(連結当期純利益を単体当期純利益で割った倍率)を見てみると、1986(昭和61)年度決算の連単倍率は1.65で、連結当期純利益が当社単体純利益を65%上回っていた。企業グループである以上、連結利益が単体利益を上回るのが本来の姿で、連結決算を初めて作成した1977年度決算(1978年3月期決算)以降、連単倍率が1.0を切ったことはなかった。しかし、連単倍率は1990年度決算の1.56から、1992年度決算には0.30に急落、1993年度決算では0.16まで下がった。とくに海外事業や日本エアシステムなどの関連会社の収益悪化が影響していた。

表6-1-5 当社単体・連結業績(1986年度~1995年度)
注1:「有価証券報告書」をもとに作成
注2:当時の連結決算制度は現在のものと異なっている
注3:1991年度は湾岸戦争に伴い、法人臨時特別税など臨時増税が課された

さらに、当社単体の当期純利益は前述のように堅調であったとはいえ、財務的に盤石とはいえなかった。借入金や社債発行の増加は、公定歩合引き上げと重なり支払利息が増大することになった。さらにバブル崩壊で発生した有価証券や関連会社株式の評価損を、バブル景気の前から長期で保有する社有地や有価証券の売却で補った部分も少なからずあった。このため1993年度を初年度とする「中期三か年計画」を立案し、資金調達や設備投融資に厳格な枠組みを設けると共に、不採算事業の整理などを進めることとなった。「東急アクションプラン21」は継続していたが、事実上の規模縮小を余儀なくされたのである。

6-1-2-3 [コラム]阪神・淡路大震災の影響

1995(平成7)年1月17日早朝、淡路島北部を震源地とするマグニチュード7.3の兵庫県南部地震が起き、死者6434人、行方不明者3人、家屋の全壊は10万棟を超える甚大な被害となった(阪神・淡路大震災)。

東急グループでは家屋倒壊により1人が亡くなり、グループ社員の家族にも大きな人的被害があった。事業所では神戸東急インで壁面に大きな亀裂ができて客室内部が散乱状態となり、東急ハンズ三宮店や東急観光神戸支店のビルなどが大きな被害を受けて、しばらくは営業休止となった。直営店に移行したばかりの東急ハンズ三宮店は、スプリンクラー配管の破損などで館内が水浸しとなり、商品も散乱した状況であった。その後、関係者の努力の末50日余りで営業再開にこぎつけた同店の店頭には、「どうぞご自由にお持ちください」との張り紙と共に、カレンダー2万部、軍手2万双、木端材2トン、使用済み段ボール5トンが置かれた。

この他、兵庫県のゴルフ場では、グランドオークゴルフクラブでクラブハウスが、ストークヒルゴルフクラブでは女子寮に被害が出た。また京都東急インでもガラス百数十枚が破損した。

当社は被災者への救援活動として、地震発生の翌日、阪急電鉄と阪神電鉄にペットボトル入りの水を4トントラックでそれぞれ1台分、神戸東急インなど関西東急会に対しては各種救援物資を届けた。東急建設では被災地にほど近い大阪支店が中心となり、社員の安否や被災状況の確認を行うと同時に、小型トラックを被災地に派遣して飲料水などの救援物資や支援部隊を送り、積極的に災害活動を行った。併せて当社や東急グループ各社では義援金を募って日本赤十字社などへ届けた。また、東急広報委員会はBunkamuraオーチャードホールにて東京フィルハーモニー交響楽団との共催でチャリティーコンサートを行い、NHK厚生文化事業団に義援金を手渡した。

  • 阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市中心部・三宮地区(1995年1月)
  • 神戸東急インで家具交換を行う東急建設スタッフ(1995年6月)

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