第6章 第5節 第3項 二次開発に呼応する生活サービス事業

6-5-3-1 スポーツ事業の新展開

当社は戦前から都内で遊園地やゴルフコース、テニスクラブなどのレクリエーション、スポーツ施設を運営してきたが、本格的にスポーツ事業に参画したのは、1975(昭和50)年開業の「スポーツクラブ藤が丘」(運営はセントラルスポーツに委託)からである。以降、多摩田園都市の街づくりの一環として、あるいは遊休地の有効活用として、1976年に「スイミングスクールたまがわ」、1978年に「スイミングスクールふたこ」と「嶮山スポーツガーデン」、1979年に「スイミングスクールたまプラーザ」と「スポーツクラブつきみ野」を開業してきた。

しかし、1980年代半ばになると健康志向が大きく高まり、スポーツクラブやフィットネスクラブの競合施設が同一商圏内に急速に増加した。さらにバブル崩壊の影響も加わって、当社のスポーツ事業は1990(平成2)年をピークに会員数や利用人数の減少が顕著になった。とくに、幼児から中学生をメインターゲットとしていたスイミングスクールでは、子ども世代の減少に伴って利用者の中心が大人世代に移り始めていることなどから、スポーツ事業のターゲットや施設のあり方を見直すことが必要となった。

スポーツをすることだけが目的ではなく、リラクゼーション、仲間づくり、飲食なども含め、全体として利用して満足感が得られる場をつくること、そしてサービスの質の向上をめざした。こうした取り組みは、多摩田園都市の二次開発として、住民に付加価値を提供する役割を果たすものであった。

1990年12月、町田市鶴間にゴルフ練習場「スイング南町田」を開業した。150ヤード、68打席の練習場とクラブハウスからなる施設である。「スポーツを楽しみながらスイングする」をキーワードとしたゆとりと豊かさを提供することと、当時増加傾向にあった女性ゴルファーを意識して女性専用フィッティングルームも備えたクラブハウスなどをナチュラルな色合いとし、当社運営のゴルフ練習場では初となるコンピュータシステムを導入したクリニックルームを設置し、フォームのチェックができるようにした。

また、1973年に開業した「碑文谷東急ゴルフガーデン」は、経年劣化が著しかったため、全面建て替えを行い、1992年9月「スイング碑文谷」として開業した。新しい施設は、高級感のある多機能ゴルフレンジで、レストランを併設したクラブハウスを欧風のインテリアでまとめ、ゆったりとしたスペースのラウンジ、パーティ、会議が可能なレセプションルーム、シャワールーム、フェアウェイ(170ヤード)、3階建て(83打席)など施設を充実させた。またプライベート空間を確保し、スイングをビデオや連続写真でチェックできるメンバーボックスがあり、ボックスまでワゴンによる飲み物を販売するワゴンサービスを行うなど、スポーツのみならず憩いや社交の場としてグレードの高いサービスを提供した。

1994年10月には、あざみ野駅近隣の社有地に「アトリオあざみ野」がグランドオープンした。本施設は、3階建ての南欧風建物で中央に中庭(アトリオ)を配置し、「もう一つのわが家」感覚で健康維持・リラクゼーション・コミュニケーションを楽しんでいただく新しいタイプのスポーツ施設とした。フィットネスクラブとスイミングクラブの二つのゾーンに分け、それぞれ充実した設備を整えた。ソフト面では、東急病院と連携し、定期的な健康診断や、栄養面を含めた総合的なカウンセリングを行うなど、独自のサービスも採り入れた。

会員制のスポーツクラブ業界では、入会金のダンピングで会員確保に走る過当競争の時代に入っていたが、「アトリオあざみ野」はこれらと一線を画して施設・サービス共に高級感を追求、質の高さで競合施設との差別化を図ることとし、開業時のフィットネスクラブの個人会員入会費は1人40万円に設定した。

また、「アトリオあざみ野」は遊休地の暫定利用としてではなく、多摩田園都市の二次開発の一環として位置づけられ、恒久的な、街に根ざした施設運営をするため、1993年4月に当社100%子会社の東急スポーツシステム株式会社を設立し、同社に委託した。

アトリオあざみ野 中庭(2003年)

年間25万人が利用する人気施設となっていた「東急嶮山スポーツガーデン」は、ゆとりを提供する施設とするため、1996年2月、リニューアル工事に着手した。クラブハウスを建て替えて、ラウンジやショップの拡充、シャワールームなどを備えた。ゴルフレンジも建て替え、打席幅を広げて自動ティーアップ装置を導入すると共に、フェアウェイを延長した。また、サッカー人気に応えてフットサルコートを新設、テニスコートは全米オープンと同等のクッションコートと砂入り人工芝に張り替えた。同年12月に竣工し、ハード、ソフト共に最新の複合スポーツ施設に生まれ変わった。

  • 東急嶮山スポーツガーデン(2012年)
  • スイング碑文谷(1995年)
表 6-5-5 当社スポーツ施設(1999年末、ゴルフ場は除く)一覧
出典:「会社概要1999-2000」(1999年12月)
注:アトリオあざみ野、嶮山フットサルクラブ、新百合ヶ丘サッカースクールは東急スポーツシステムへ運営委託

6-5-3-2 外食事業の新展開

当社の外食事業は、100%子会社の株式会社東急ジョイガーデンへ運営委託していた。同社は1990(平成2)年年初の時点で、ファミリーレストラン「東急ジョイガーデン」6店舗、ファストフード事業として「ケンタッキーフライドチキン(以下、KFC)」のフランチャイズ店12店舗を展開していた。ファミリーレストランは採算面に課題を抱えており、ファストフード部門は引き続き好調を維持していた。

ドライブスルー形式のKFC南市が尾店(1990年12月開店) 出典:「会社概要1999-2000」

ファミリーレストランという業態は1970年代に登場し、1980年代にかけて瞬く間に広がったが、メニューやサービスが似通っているなどチェーンごとの特長や目新しさに乏しい面があり、市場は飽和状態になりつつあった。同業他社では業態の多様化で、さまざまな利用動機に対応しようという動きが始まった。

当社でも地域住民の特性に合わせた業態開発に着手。1990年7月、駒沢店跡地にイタリアンレストラン「POZZO(ポッツォ)」を、さらに同年10月、横浜市緑区桂台にレストランとフラワーショップ、サービスステーションの複合施設「コモハウス」を開業した。一方、不採算店となっていた鷺沼店を1992年6月に、あざみ野店を1996年11月に閉店。たまプラーザ店も効率化のためにオペレーションの変更を行ったが採算向上にはつながらず、新業態の2店舗も含め1998年3月末までに全店が閉店した。一方で前述の東急嶮山スポーツガーデンのリニューアルに伴い施設利用者や近隣住民をターゲットにしたレストラン「アルバトロス」を開業し、レストラン部門は残した。あざみ野店の跡地にはこれまで分散していたテストキッチンを集約し、東急ジョイガーデンの本社機能に相当する営業本部も移転した。

  • イタリア料理店「POZZO」(1990年)
  • 複合施設「コモハウス」(1990年)

一方、ファストフード事業は駅前立地の利便性が活かせることから、新たに「ミスタードーナツ(以下、MD)」のFC契約を締結。KFC鷺沼店の隣接地にMD鷺沼店(MD鷺沼ショップ)を1993年3月にオープンし、東急ジョイガーデンに運営を委託した。鷺沼店は開店と同時に盛況で、投資回収率も高かったことから、1994年以降、たまプラーザ、宮崎台、梶が谷、藤が丘、市が尾にも展開した。またKFC鷺沼店は1996年7月、新業態の「KFCホームキッチンハーベスター」となり、鉄板を使った新メニューやデザートメニューの充実などで差別化を図った。

表6-5-6 当社と東弘二葉による外食事業店舗一覧(1990年代開業分)
注:「会社概要1999−2000」社内報『清和』をもとに作成

外食事業について東急グループ全体を見渡すと、ホテル併設のレストラン、レジャー施設のレストランを含め数百店舗(1995年時点)にのぼると見られていた。成長産業として脚光を浴びた外食産業もバブル崩壊に伴う個人消費低迷、企業間および業態間の競争激化にさらされており、お互いの連携や情報共有を行う必要から、1994年9月に東急グループ外食事業連絡会が発足した。なお、2000年代に入ると第5章で述べた「東弘二葉」が担っていたそば店などや、当社鉄道部門直営の「キュート」、東急ジョイガーデンが運営するKFCなどといった当社系列の外食事業を整理・集約することとなる。これについては第7章で述べる。

6-5-3-3 メディア事業──ケーブルネットワークの高度活用へ

1987(昭和62)年に渋谷区と横浜市緑区で放送を開始した株式会社東急ケーブルテレビジョン(当社100%出資)は、1989(平成元)年12月時点で視聴可能世帯数は57万世帯という、全国でも最大規模のケーブルテレビ(以下、CATV)局となっていた。

当初は、都心部に建設された高層ビルの影響による電波障害の対策事業に積極的に取り組んでいたため、加入世帯の多くは難視聴対策として加入していた。その後、多チャンネル契約者の獲得を進めることで、徐々に収入を伸ばした。

初の都市型CATVとして開局した同社は、30チャンネルを用意したが、そのコンテンツ収集には苦労が伴った。海外ドラマや音楽専門チャンネルなどは、立ち上がったばかりのCATV局が共同で代理店と交渉していた。また、この当時は通信衛星がなく、多くの番組は4分の3インチテープで届き、それを順次オンエアしていた。当時生放送だったのは、CNNと日本テレビケーブルニュース、それに週末の競馬中継だけであった。

また独自コンテンツの充実にも取り組み、たまプラーザ駅前の放送センター1階オープンスタジオで「東急CATVコンサート」を定期的に開催したほか、1994年には横浜市青葉区誕生記念番組として「青葉物語」を全4話構成で制作した。

CATV施設は当社の設備投資により当社が保有かつエリア拡大などにより継続投資もしたうえで、東急ケーブルテレビジョンへ賃貸する形をとっており、当社決算資料によると1992年度末にはその資産は帳簿価格で90億円を超えていた。一方で賃貸料は償却費見合い程度であり、運転資金の融資もあったことから自立経営とまではいかなかった。なお、その資産が同社へ譲渡されたのは1997年度のことである。

表6-5-7 東急ケーブルテレビジョン営業成績(開局後~1999年度)
注:『itscom 30th Anniversary communication BOOK イッツ・コミュニケーションズ 30周年記念誌』などをもとに作成
※1998年度より開始

一方、1990年代に入るころから、放送事業や通信事業の規制緩和、両事業の融合に関する議論が活発になり、放送衛星(BS)や通信衛星(CS)の運用が本格化、電話回線を活用したパソコン通信の台頭、電話回線デジタル化の進展などがあり、情報通信技術の向上も相まって、情報伝達の手段となる各種ニューメディアによる主導権争いの様相を呈し始めた。

放送・通信を巡る趨勢(すうせい)や業界の構図が混沌とするなか、当社では1991年5月、生活情報事業部内にニューメディア課を新設し、ニューメディアに関する戦略の策定、事業化の検討およびニューメディア分野の調整を本格化した。設立された1984年以降国内初の民間衛星放送会社となる日本衛星放送株式会社(現、株式会社WOWOW)に東急グループ14社が出資したほか、パソコン通信を活用したセラン事業(下記コラム参照)がスタート。これと同時に多岐にわたるメディア関連企業に出資もしくは事業参画した。

また1994年には、情報通信産業の発展を展望しつつ、各種調査研究を行いながら事業機会の創出をめざすべく、当社と三菱商事、三井物産、東京電力の4社で「次世代ネットワーク研究会」を発足させた。東京電力は1978年以降、電力系統の保護や電力設備の監視・制御などを目的に首都圏で約2万kmの光ケーブル網を構築しており、商社の情報力も活用のうえ、通信とCATVの融合を模索する試みであった。当社はこの研究会をはじめ、他社とも連携しながら、インターネットの実用化実験を開始し、PHSやIP電話を活用するなどの工夫を重ねて、新しいサービスの開拓に取り組んだ。1993年には米国で、光ケーブルなど高速通信回線で政府・企業・家庭などを結ぶ「情報スーパーハイウェー構想」が提唱され、日本国内でもCATV事業者に外資が直接資本参加して通信事業の実験を計画するなど、次世代型サービスを念頭に、通信と放送の融合が進展した時期であった。

CATV網を活用した電話サービスの実験を開始(1995年7月)

こうしたなか1990年代半ばに地球規模の情報通信網となるインターネットが急速に関心を集めるようになり、また同時期に初心者でも使いやすいOS(Windows 95)を搭載したパソコンが登場し、インターネットが情報通信メディアの主役に躍り出た。このため当社は、電話回線を使ったインターネット接続サービス(プロバイダ)事業「246-net」を1997年4月にスタート。また東急ケーブルテレビジョンは、CATV網を活用した高速インターネット接続事業に乗り出す方針を固め、1996年12月に第一種電気通信事業の認可申請書を提出、1997年1月に認可を受けて、1998年4月からインターネット接続サービス(回線提供とプロバイダ)事業を開始する。

ケーブルインターネット販促用チラシ(東急ケーブルテレビジョン 2000年11月)

当社および東急ケーブルテレビジョンは、多チャンネル放送だけでなく、新たなサービス開拓の取り組みを行ってきたが、インターネット事業の開始によってCATV網のインフラを有する会社(ブロードバンド企業)として新たな可能性が生まれ、次の時代に大きく成長していくこととなる。

6-5-3-4 [コラム]セラン事業の始まり

当社は、1991(平成3)年5月に、セラン事業を本格開始した。Selun(セラン)は Systems for an Exclusive Life in Urban Nature(自然が息づく街に磨かれた人生を送るためのシステム) の頭文字をとったもの(のちにSystems for an Enjoyable Life through a Universal Network〈ネットワークを使って楽しい暮らしを送るための仕組み〉となる)。この事業は、ニューメディアの一つとして普及し始めたパソコン通信を活用して、多摩田園都市の主婦層をターゲットに、在宅ワークの機会を創出するものである。

東急線沿線には、高学歴で企業勤務の経験を持ち、社会参加に引き続き高い関心を持つ主婦層が多く居住している。こうした人たちに、各企業で増加していたデータ入力業務などを在宅で担ってもらうことで、収入を得て、消費力を向上させ、ネットワークを通じてさまざまな情報交換をするなど、暮らしの活性化につながることが狙いであった。多摩田園都市の二次開発は、こうしたソフト面でも取り組みが進んでいたのである。

セラン事業(セラン事務局)開始のころ(当時のキャッチコピー 「いまのママじゃ、ない。セラン。」がポスターに見える)

当初はパソコンによるデータ入力が主であったが、のちにマーケティング調査システムの開発やパソコンソフトの解説書出版、外国語の翻訳なども手がけた。現在では、ポスター・冊子などのデザイン制作事業、シェアワークスペースの運営など実施業務は多岐にわたっている。

6-5-3-5 規制緩和の影響により石油販売事業を終了

生活情報事業部の一翼を担う石油販売事業は、1990年代に入ってからも好調を維持し、最も多いときで沿線内外に24店舗のSS(分店扱いの給油所は除く)を展開していた。しかし1995(平成7)年度に営業赤字となった。これは1996年の特定石油製品輸入暫定措置法(特石法)の廃止を前に、小売価格の安値競争が始まったことが要因であった。

特石法は、石油製品の安定供給、品質確保のために、輸入業者を限定する規制である。1986(昭和61)年1月、国際機関から輸入自由化要求が突きつけられるなかで、施行された。これにより、ガソリン、軽油、灯油の三油種の輸入は、実質的には大手石油精製会社に限定されていた。同法は10年の時限立法だったことから、廃止後の輸入自由化を見込んだ商社や輸入小売業者の動きが活発化して、各所で値崩れが起き始め、当社石油販売事業が展開する直売部門、小売部門共打撃を受けたのである。

1997年には、採算性が悪化した鶴見SS、高崎SS、浜松SSの3店舗を閉鎖。直売部門では営業所の統廃合、調達の多様化によるコスト削減、SSではアルバイトの活用などによるローコストオペレーション化などで収益改善に取り組んだ。しかし1998年4月に条件付きながらセルフ給油が解禁されると安値攻勢はいよいよ強まり、収益力の改善は見込めないため、2001年3月末で営業終了することを決定した。

こうして1954年の四谷SS開業以来46年間にわたる石油販売事業から撤退することになり、17店舗のSSの内3店舗は閉店、14店舗は元売り石油精製会社に賃貸して、店舗の営業は維持された。

表6-5-8 石油販売事業営業成績の推移(1990年度~2000年度)
注:社内資料をもとに作成
表6-5-9 石油販売事業直営店舗一覧(1990年代~終了時、開業順)
注:社内資料をもとに作成 (1980年代以前開業店舗は第5章表5-10-8参照)

6-5-3-6 [コラム]一時代を築いた石油販売事業

社内報『清和』1994(平成6)年9月号では、石油販売事業40周年を記念して特集が組まれている。そこでは「従事している仲間は214人」「(1993)年度の売上は186億円」という見出しが並んでいるが、石油販売事業の始まりとして以下の興味深いエピソードも記されている。

昭和29年9月6日に、四谷SSがオープンした。これが当社の石油販売事業のスタートである。当社は戦中・戦後に(バスに給油する)燃料確保の苦難を経験したため、バス運行のための燃料を安定確保することを目的として、石油調達の業務を行っていた。(中略)自動車の増加とともに需要拡大が見込まれる“石油”も事業として取り扱っていくことが検討された。モータリゼーションの発展をいち早く見込んだ(五島)慶太翁の発案であった。

石油販売事業は、少なくともスタートの段階では、流通在庫以外の備蓄の難しい自動車用燃料に対する「非常用備蓄」、今日でいうBC(事業継続)の考えも含めて手がけられた事業でもあった。

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