第6章 第5節 第4項 各地で進んだ土地区画整理事業

6-5-4-1 神奈川県厚木市・平塚市での展開

当社は、多摩田園都市で培ったノウハウを活かして、神奈川県央地域および湘南地域においても開発事業を進めてきており、1990年代には厚木市高坪地区と厚木市葛城地区、平塚市五領ヶ台地区などで土地区画整理事業に着手した。

県央に位置する厚木市内は、当社が東急ニュータウン毛利台を開発して以降、周辺各所で開発機運が高まった。厚木市高坪地区は、1990(平成2)年12月に土地区画整理組合が設立され、当社は先買地を有していなかったが、同組合から業務を受託し、業務一括代行方式で事業を進めた。地区隣接者に対して説明を行い、1991年10月に工事に着手したが、隣接者から工事反対の声が上がり、協議に歳月を費やすこととなった。その後、関係者間の調整を経て事業が進捗し、1998年7月に竣工式が執り行われた。

厚木市葛城地区は、畑が約82%を占め、建物は1戸のみで、施工面積が小面積(0.7ha)だったこともあって事業は滞りなく進み、1993年3月の組合設立から4年弱、1997年2月に竣工した。

湘南地域では、平塚市五領ヶ台地区の開発が1969(昭和44)年から検討されていたが、1970年に市街化調整区域に指定されたため、いったんは計画が宙に浮いていた。その後、平塚市の都市計画事業「平塚ばらの丘ハイテクパーク構想」に同地区が組み入れられたのを機に、組合設立に向けた取り組みが具体化。ようやく1995年3月に組合設立認可を取得することができた。

同地区は、軟弱地盤の区域が多く、造成工事にあたっては地盤改良が不可欠であった。地区の東側には有料道路の小田原厚木道路が通っており、地盤から水を抜く際に道路への影響が出ないよう、約10m間隔で地盤の変位を確認するための感知装置を打ち込んで、24時間自動観測を行いながら、地盤改良を行った。また施行前から減歩率を最小限に留めるよう地権者から求められていたため、神奈川県や平塚市と協議を重ね、特定土地区画整理事業の国庫補助金導入により、減歩率を軽減した。当土地区画整理事業は、産業研究施設用地を多く配置したことが特徴で、2002年3月に完了し、「めぐみが丘」の地名となった。

図6-5-8 五領ヶ台地区(湘南めぐみが丘)位置図
出典:「五領ヶ台 研究・研修パークパンフレット」
図6-5-9 五領ヶ台地区土地区画整理事業竣工図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』
五領ヶ台地区航空写真 左が小田原厚木道路
湘南めぐみが丘の住宅街(2003年2月)

なお、当社はこれらに隣接した地区を中心に、厚木市や平塚市内の各所で、将来の開発を見越して土地を取得していたが、バブル崩壊などで事業化の見通しが立たず、そのほとんどを売却している。

6-5-4-2 福岡県小郡市での展開

福岡県の「小郡・筑紫野(おごおり・ちくしの)ニュータウン」の街づくりにおいて、当社は原田(はるだ)地区(筑紫野市)と苅又地区(小郡市)を担当しており、前者は、1988(昭和63)年から「東急ガーデンヒルズ美しが丘」として宅地販売を進めていた。苅又地区は、1990(平成2)年1月に土地区画整理組合を設立し、事業に着手した。総面積79.3haで、大半は山林・原野で占められ、溜池が3か所、農地は約8%であった。当社社有地の割合が高く、約3分の2を占めていた。開発は「みどりあふれる、ふれあいの街」をメインテーマに、原田地区と同様に国の「ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業」の仕組みを導入して、補助事業として進めることとした。

地区内には溜池が3か所(合計約6.8ha)あり、これらを再整備して農業用水を確保すると共に、洪水調整機能を持たせ、周辺を公園緑地としたのが特徴である。これによって、地区面積の約20%が水辺・公園・緑地となった。溜池の改修工事は、農業用水に支障がないよう、農閑期である10月から翌年の3月にかけて集中的に行うこととしたため、同工事だけで4年余りの歳月を要した。

苅又地区 開発前の溜池(1975年)

また土木工事中には、事前に存在が確認されていなかった花崗岩が出土し、工事の行く手を阻んだ。通常のブレーカーによる粉砕では到底追いつかず、付近住民の了解を得てダイナマイトで爆破粉砕したが、これだけで8億円の費用を費やした。

福岡県小郡市 東急ガーデンヒルズ希みが丘(1997年)

こうした難工事を乗り越えて、1995年11月に土地区画整理事業は竣工を迎え、新町名は「希みが丘(のぞみがおか)」とされた。緩やかな丘陵地からの眺めは良好で、小学校用地や生活利便施設と歩行者専用道路で結ぶなど、自然と生活環境の調和がとれた街並みとなった。

図6-5-10 苅又地区土地区画整理事業竣工図
出典:『多摩田園都市 その後の15年の記録』

東急100年史トップへ