第6章 第7節 第1項 リゾート事業の急拡大と暗転

6-7-1-1 東急グループ各社がリゾート事業に意欲

1980年代後半のバブル景気を背景に、法人・個人を問わずレジャー関連の需要が急速に高まるなか、総合保養地域整備法(リゾート法)が1987(昭和62)年6月に施行された。自然環境に恵まれながら過疎などの問題を抱えていた地方自治体にとっては、地域活性化が期待できる法制度で、1991(平成3)年初頭の時点で27道府県の基本構想が承認されるに至った。これらの構想の開発面積は合計413万ha、国土の10%を上回る規模に達し、このほかに民間事業者主体で計画されたリゾート開発も数多くあり、列島がリゾートブームに沸いた。

東急グループ各社にとっても、リゾート法の施行は新たな成長の絶好の機会と受け止められ、リゾート事業やホテル事業の展開に注力した。

こうしたなかで1989年1月、「東急グループならではのリゾートづくり」のため、グループ各社の意思統一を図り、リゾート事業の基本的戦略および共同事業の推進について協議、検討、実施することを目的として、「東急グループリゾート事業推進会議」が設置された。当社、伊豆急行、東急不動産が中心となり、これに日本エアシステム、東急建設、東急観光、東急ホテルチェーン、白馬観光開発を加えた8社で構成した。さらに、リゾート事業やその周辺事業を行う、全国各地の交通事業会社、流通会社、建設関連会社など19社を加えた合計27社からなる「東急グループリゾート事業拡大会議」も併設した。両会議体の議長を当社リゾート事業部長が務め、当社リゾート事業部に事務局を置いた。

東急グループリゾート事業推進会議および拡大会議では、リゾート事業推進について多角的な視点で議論を進めたほか、リゾート分野での東急グループの知名度向上と既存施設への誘客を図るための販売促進策として、「東急グループリゾート&レジャーガイド」を1989年から発行開始。東急グループの各ホテル客室などに配置して、グループ全体での広報・販促活動に取り組んだ。

1990年3月30日の東急グループサミットで決定し、4月18日の東急グループ社長会で発表した「東急アクションプラン21」では、「複合リゾート事業の推進」を重点事業の一つとし、その時点で東急グループでは10か所以上の複合リゾートの開発計画があり、ゴルフ場・スキー場・リゾートホテル・別荘分譲など単体のリゾート施設も数多く計画されていた。なお、これらの内、その後のバブル崩壊を受け、実現が厳しくなった計画や余儀なく撤退した事業もある。

6-7-1-2 複合リゾート――裏磐梯「グランデコ」の開業

1990(平成2)年4月の業務組織改正で、交通事業本部、都市開発本部と並ぶ本部組織としてリゾート本部を設置し、リゾート事業部とホテル事業部(イン事業部から改称)を本部内に置いて、急速に拡大するリゾート需要への対応や複合リゾート事業の推進に一体となって取り組むこととした。

その一つが、福島県の「会津フレッシュリゾート構想」への参画である。同構想は1987(昭和62)年6月のリゾート法制定に伴って福島県が基本構想の承認申請を行っていたもので、1988年7月に承認され、三重県や宮崎県が申請していた構想と共に、承認第1号となった。

当社は同構想の重点整備地区の一つである「裏磐梯デコ平地区」で、地元の福島県北塩原村と歩調を合わせて複合リゾートの開発に取り組むこととし、まず第1期工事として1991年7月、スキー場とホテルの建設に着手した。裏磐梯は、五色沼や桧原湖といった探勝地に代表される自然資源に恵まれた地域で年間300万人以上の観光客を集めていたが、このほかに特段の施設がなく、日帰りドライブ客や、東北旅行の通過観光客が主流であった。このため滞在型観光客、さらには冬季の観光客を集客して地域活性化を図ろうという主旨であった。

第1期工事で着手したのは、初心者向きから上級者向きまでバラエティに富んだスキー場7コース、索道はゴンドラ1基と雪除けのフード付きのクワッドリフト(4人乗りリフト)4基、ツインルームを中心にファミリールームも設けたホテル(客室数106室)などで、白馬などと比べて幅広い客層を想定した点が特色である。

ホテルは東急インチェーンの44番目のホテルとし、スキー場との一体的な運営を行うためにリゾート事業部の管掌とした。複合リゾートの名称はデコ平という特徴的な地名を生かして「グランデコ ホテル&スキーリゾート」と命名した。

裏磐梯高原東急リゾート「グランデコ」

6-7-1-3 各地で複合リゾート化を志向

宮古島では、1983(昭和58)年1月工事着手し、1984年4月に宮古島東急リゾートのホテル(現宮古島 東急ホテル&リゾーツ)、1988年4月にゴルフ場(エメラルドコーストゴルフリンクス)を開業し、複合リゾートの体裁を整えてきた。ホテル開業からしばらくは年間客室稼働率が50%に及ばない時期が続いたが、1989(平成元)年7月に南西航空(現日本トランスオーシャン航空)による東京からの、1992年7月に全日本空輸による大阪からの飛行機の直行便が就航し、機体の大型化などで輸送力が増強されたことも寄与して観光客が増加し、年間客室稼働率が80%を超える勢いとなった。

同地はマリンスポーツなどが人気を集める夏のトップシーズンのみならず、冬場の避寒地にも適した通年型リゾートであり、さらなる観光客の増大が見込まれることから、当社は施設の拡充を図った。1993年7月に新館をオープンし、客室を約100室増やしたほか、和食堂や雨天時でも楽しめるアスレチックジムを設け、顧客ニーズや長期滞在に応えた。

東急グループ各社も斑尾、蓼科、福井県法恩寺(勝山)、伊豆などで複合リゾートの開発計画を進めていた。伊豆では、「リゾート21」の営業運転開始が大きな話題を集めていた伊豆急行が、伊豆高原一帯の活性化を図るため、伊豆高原駅の駅舎新築と合わせて駅周辺の開発に着手。1994年3月にその入口となる新駅舎とショッピングモール「やまもプラザ」を完成させるなど、地域の魅力づけに努めた。

白馬観光開発は、通年型リゾートへの転換を模索し、栂池高原のゴンドラリフト終点から、上部の標高1900mにある栂池自然園を結ぶ栂池ロープウェイを、1994年7月に開設した。ゴンドラリフトと合わせて総延長5314m、標高差998mを26分間で結び、北アルプスを一望しながら空中散歩が楽しめる。自然環境にも優しい、このアクセスルートによって、グリーンシーズンの観光客誘致に一定の成果を上げた。また1998年の開催が決まった長野冬季オリンピックに照準を合わせて、東急ホテルチェーンが白馬東急ホテル(1959年開業)を全面的に建て替え、1996年12月にオープンした。

東急不動産でも、スキー場単体の施設を通年利用のリゾートに発展させる取り組みが行われた。同社は地元の要請により、1988年に玉原高原(群馬県沼田市)にスキー場を開場し、27万人以上のスキー客でにぎわった。夏期も大自然と向き合うキャンプを楽しんでもらうため、1992年にオートキャンプ場を整備したほか、同地の気候を生かしたラベンダー栽培にも取り組み、1996年に玉原ラベンダーパークを開業した。また福井県勝山市では1993年にスキー場を開業したあと、ホテル棟やスパを建設、1999年に「東急ハーヴェストクラブスキージャム勝山」として開業し、通年で楽しめる高原リゾートをめざした。

なおこの時期、当社では湯布高原(大分県湯布院町、現由布市)、軽井沢で建売別荘の販売なども行ったほか、東急不動産の「ハーヴェストクラブ」事業が堅調に推移した。

6-7-1-4 相次いだゴルフ場の新設

当社は、生活情報事業部が管掌する多摩川河川敷の「東急ゴルフ場」(東京都世田谷区と神奈川県、1968<昭和43>年開業。旧玉川ゴルフコース)と、本社管理部門が管掌する「スリーハンドレッドクラブ」(神奈川県、1962年開業)のほか、「白浜ビーチゴルフ倶楽部」(和歌山県、1967年開業)、「湯布高原ゴルフクラブ」(大分県、1973年開業)、「ファイブハンドレッドクラブ」(静岡県、1980年開業)の3か所のゴルフ場を運営していた。

1980年代後半からのリゾート事業の積極的な展開のなかで、当社は「日本全国にスリーハンドレッドクラブを」という考え方の下、「エメラルドコーストゴルフリンクス」(沖縄県、1988年開業)、「東急セブンハンドレッドクラブ」(千葉県、1989<平成元>年開業)、「ハイビスカスゴルフクラブ」(宮崎県、1989年開業)、「ストークヒルゴルフクラブ」(兵庫県、1990年開業)、「グランドオークゴルフクラブ」(兵庫県、1991年開業)を新設し、8か所を運営するに至った。いずれもグレードの高い法人会員制のゴルフ場であった。なお、「ハイビスカスゴルフクラブ」は前述のリゾート法制定に伴って宮崎県が申請していた基本構想の区域内に開設されたものである。

このうち「東急セブンハンドレッドクラブ」は、東急グループと社団法人日本プロゴルフ協会の共催による、国内シニアプロゴルフのPGAシニアツアー「五島 昇メモリアルとうきゅうシニアカップ」(1991年から1995年までの毎年開催)の会場とされたほか、1998年から女子プロゴルフのJLPGAツアー「富士通レディース」の開催会場となっていることで知られている。

東急セブンハンドレッドクラブ(2009年)

新設の5か所は、高額な会員権の販売で投資資金を回収する計画であったが、1991年にゴルフ市況が暗転、同年3月を境に会員権の価格急落が始まり、需要が急激に冷え込んだ。このため当社のゴルフ場新設は1991年が最後となり、その後は既設クラブハウスの改築やコースの改造などのリニューアルを進めながら、会員の維持、利用促進に努めた。

グループ各社でもゴルフ場の建設が進み、東急不動産は「ニセコ東急ゴルフコース」(北海道、1992年)、「小見川東急ゴルフクラブ」(千葉県、1992年)、「マサリカップ東急ゴルフクラブ」(北海道、1993年)を開業。日本エアシステムは「JAS旭川カントリークラブ」(北海道、1993年)、北見バスなどは「東急ハーブヒルゴルフクラブ」(北海道、1994年)を開業し、伊豆急行は既設の「稲取ゴルフクラブ」(静岡県)で1991年に9ホールを増設。1993年6月時点で、東急グループ全体で北海道から宮古島まで29のゴルフ場を展開するに至ったが、これらも会員権相場の下落や、景気低迷の影響で運営収入も伸び悩む傾向にあった。

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